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11年目の結婚記念日でした

妻よ、すまぬ。昨日は帰りが遅くて、妻が先に寝てから気付きました。
2010年5月13日から、もう11年です。これからもよろしく。

Nikon F90Xs + Carl Zeiss Planar T* 1.4/50 ZF.2

写真は、ちょうど結婚届を出した当日に撮影。写っているレンズ、Carl Zeiss T* 1.4/50 ZF.2は、妻からの結婚プレゼントでした。

2011年4月17日茨城県大洗にて

今からちょうど10年前、茨城県は大洗市に行っていました。

東日本大震災の発生から1ヶ月程度たち、物流も回復し始めて、震災以来初めて遠出しました。杜氏住んでいた栃木県の宇都宮市は、もう桜が散りっていましたが、大洗はちょうど満開でした。

大洗リゾートアウトレット(当時)は、東日本大震災による津波被害を受けて、この時閉店中。
この時代は、八ヶ岳リゾートアウトレットを運営する会社がこの場所を運営していました。
現在は色々あって運営が変わり、大洗シーサイドステーションに名前が変わっています。

大洗は、家屋の流出するほどの津波ではなかったものの、海岸部を中心に広範囲で被害を受けました。アウトレットモール周辺も、当然ながら被害を受けていました。

FNNの大洗市の津波映像

当然、周辺の樹木も津波により塩水をかぶったはずですが、まるで何事もなかったかのように咲いているのが印象的でした。

大洗タワーと桜

もうしばらく大洗は行っていません。COVID-19の影響で、まだ暫くはいけないでしょうけど、たまには海もみたいですし、あんこう鍋も食べたいし、行きたいですね。

東日本大震災から10年、あの当時を振り返る

今日は、色々テレビなんかでも特集が組まれると思います。
よく、あの震災を忘れない、なんて言いますが、思い出したくない人も多いと思います。津波の映像を繰り返し流されて、福島原発の余談を許さなかったあの状況を流されて、気が滅入った人も多いでしょう。
COVID-19ですら、繰り返しのネガティブ報道に病んでしまった方もいらっしゃいます。
当ブログでは、過激な映像は情報はないですし、東日本大震災で大きな被害は受けませんでしたが、その後の生活に影響を及ぼしたのは事実です。
何より、震災後の、ガソリンや食料の争奪戦は、何も差し迫って危機があるわけでもないのに、人々が翻弄されました。COVID-19ですら、トイレットペーパーがなくなるという異常事態に発展しました。物流は問題なかったのにです。人間って非常事態になると怖いなと思いました。それでもまだ日本だから、その程度で済んでいるのかもしれませんが。

災害で直接的な被害はなくても、間接的な被害や影響を受けている人は沢山いるのです。


現在東京に住んでまもなく9年となりますが、それ以前は栃木県宇都宮市に住んでいました。
東日本大震災発生当時、結婚1年、まだ子供もいなくて、妻も総合病院勤務の看護師で、不定期な業務をしていました。

2011年3月11日14時46分

2011年3月11日、Yamaroは栃木県内の職場にいました。
この1,2週間ほど前にも、ちょっとした地震がありましたが、この日、14時46分発生した地震も、最初は体感で震度2~3程度のものでした。

Yamaroはとりあえず職場の部屋のドアを開けて(これが後々良かった)揺れが収まるのを待機ししていました。
しかし、揺れは収まるどころが激しくなり、職場内の自動音声が「只今震度5の地震が発生…」あたりでぷつっと消えて、同時に停電。
大きな作業場だった職場は、明かり取りの窓があったので、真っ暗にはならなかったものの、その時には立っていられない揺れが発生。

ドアにしがみつきながら、部屋の壁が歪んで割れて、隣の部屋が見えたことは、今でも鮮明に覚えていて、その後はすぐ机の下に隠れました(子供の頃からの避難訓練の成果ですね)。

揺れが収まると、上司の「逃げるぞー」の掛け声で、外へのドアへ向かって走りました。ドアの横のシャッターは歪んでいました。
またこの時は見る余裕もありませんでしたが、後で室内の貴重品を取りに一旦戻ったときには、壁が崩壊して鉄筋だけ残っている状態でした。

一旦外に出て、他の職場の人も駐車場に避難、それから1時間程度、時々余震のたびに揺れる職場の建物を見ながら、ひたすら待機。
指示ががあるまで待機でしたが、3月とはいえまだ寒い時期、震えながら待機をしていました。

この日妻は、当時勤めていた総合病院の夜勤前で、まだ家にいる時間だったので、社用携帯から電話するも、当然回線はパンクしていてつながらず。

帰宅

1時間ほど経過して、社員は帰宅して自宅待機ということになり、少人数で安全確認しながら職場に貴重品を取りに行きました。
仕事では作業着なので、帰りは一旦ロッカーで着替えるのですが、ロッカーまでの階段も、少しずれているのが確認できました。それでも、ロッカーに貴重品を入れている人も多く、少人数で余震を気にしつつ、ロッカーに服と私物を取りに行き、車で帰宅。

駐車場の道路も一部陥没し、職場を見ればあちこち壁が剥がれている。
周辺の会社も、壁が崩れたりしていました。
この辺りは、元沼地だったところを埋め立てて造成した場所らしく、周辺の住宅も被害を受けたようで、地盤は重要だなと思った次第。

帰り道も渋滞し、停電で信号機も動かず、交差点では渋滞となっていましたが、建物が大きく倒壊したといったことはなく、ブロック塀は倒れているけど、思ったよりはひどくなっていないな、とその時は思いました。

家の中はきれいに片付いていた

家の中はぐちゃぐちゃになっていると思って帰宅すると、まるで何事もなかったかのようにきれいでした。テレビやCDラックなんかも倒れていませんでした。
妻は夜勤のため出勤していて留守でした。

あとで妻に聞いた話では、夜勤前の準備をしていた妻は、地震発生時は棚から食器が飛んできたのを呆然と見ていたようですが、出勤前に全て片付けてから出勤したそうです。

それからは家でジッとしていました。津波の情報が流れ、これからどうなるのだろうと。

幸い自分の住んでいた地域は、停電もなく、ライフラインは全て正常でした。
夜、ご近所を見てみると、コンビニは激混みで、駐車場も埋まっていました。この時から物資の争奪戦は始まっていました。我が家は食料備蓄が1ヶ月分程度あったので、特に何を買うこともありませんでした。近所のお店の壁が少し崩れている以外、大きな被害はなかったのは幸いでした。

ご近所のコンビニはというと、震災2日後の13日には、物資がなくなり休業していました。

震災から2日経過後、コンビニは物資がなくなり休業へ

輪番停電

国内の発電所があちこちで停止し、再開に時間がかるということで、しばらくの間、地域ごとに1日2,3時間程度の計画停電、いわゆる輪番停電もありましたね。

幸い、我が家はUPS(無停電電源装置)により、光回線と無線LANは使えましたので、ノートPCにラジオで過ごしました。
余震があってロウソクはやや危険かと思いましたが、結婚式の余り物(笑)のロウソクも、倒れにくいタイプだったので、このときは役に立ちました。
電気のありがたさを身にしみて感じましたね。

ガソリン争奪戦

ガソリンスタンドは2,3週間こんな状況でした

宇都宮市は地方都市ですから、車社会です。それはわかるのですが、市内は車がないと絶対に生活できない、というわけでもなく、それでも、日常と同じことをしようとすると、この有様です。
もちろん、仕事で使う人もいるでしょうし、闇雲に批判するつもりはないのですが、本当にいま必要ですか?という人も多かったのではと思います。
私はと言うと、当時乗っていてアコードユーロRのガソリンは半分以上残っていて、しばらく通勤もできなかったので、車に乗るのは最小限に留めて、自転車生活をしていました。

宇都宮市では、ガソリンスタンドに大行れるという状況は2,3週間以上続きました。緊急車両優先などお構いなし。この時、人は異常事態になると本性を表すのだなと思いました。

栃木県内の被害状況

ご近所と、ちょっと車で回った場所の被害状況はこんな感じでした。

壁が剥がれたり、ショーウインドウのガラスが割れたり。それでも、津波被害に原発被害を受けた福島県や宮城県と比較すると、震度6強の震災に見舞われつつも、大規模な死傷はなかったのが幸いでした。
1995年の阪神淡路大震災の教訓から、建物の耐震性能は強化されて、古い建物を除いて倒壊は最小限だったのも幸いでした。
ただ、瓦屋根の家は多くが瓦が落ちて、ブルーシート不足となったのも記憶に新しいです。

1ヶ月後、震災後初めて遠出した大洗

震災から1ヶ月、あれ以来職場は使えなかったので、4月から埼玉の事業所に長期出張に。栃木県と埼玉県を行き来する生活が始まっていました。

ガソリンスタンド渋滞も収まったので、少し遠出してみました。この当時よく言っていた茨城県大洗に行ってみました。
大洗も津波被害を受けましたが、福島や宮城の被害があまりにも甚大だったせいか、あまり注目されていませんでした。それでも、海岸線は大きな被害を受けていました。

あれから10年、栃木県内は震災の爪痕はすでに見られませんが、福島県や宮城県は、今も災害復興が進んでいるところです。
先月発生した震度6強の地震は、津波の発生はなかったものの、一部地域では被害が出たようです。

地震はいつでも発生すると思って、日頃からある程度の食料と飲料水、時期によっては暖房の燃料など、備蓄は必要ですね。
最近は発電機以外に、ポータブル蓄電池も性能の良いものが出回っています。

【百里基地】2009年3月2日の記録

もう12年とはね…。まだ茨城空港がなかった時代です。
当時は空港建設工事中でした。
この日は飛んでいる写真、どれも失敗ばかりで、まともなのが転がりしかないという。まだ全然腕がなかった頃ですね。今もあるのか疑問ですが(笑

現在は、航空自衛隊機は、基地側の滑走路(03R/21L)で離着陸することがほとんどですが、空港建造当時、滑走路の改修などで、03L/21Rを使用していました。
なので、比較的短いレンズでも、離着陸する機体を目の前で撮ることが出来ました。

この当時の機材は、Nikon D300にAI AF-S Zoom Nikkor ED 80~200mm F2.8D(IF)、テレコンにTC-20EIIでした。これでフルサイズ換算240-600mm相当でしたが、D300は、まだ画素数が1200万画素で、テレコンの影響があまり気にならなかったとはいえ、今見るとやっぱりテレコン画像はちょっと絵が眠いですかね。

03L降りの機体を撮影しました。

【茨城】(株)K立工業

2009年に撮影した、茨城県某所の廃工場。
この当時まだGPSアダプタを持っていなかったため、撮影場所が現在となっては分かりません。

茨城県まではわかるのですが、廃墟検索地図さんのサイトにも未掲載、またこの会社の名前で検索しても、こことは関係のない現役の会社がヒットするだけでした。
Yamaroオリジナル物件と言えるかなと思うのですが、周りは畑しかない田舎道とは言え、道路沿いに面していただけに、誰も知らないというのも不思議な話。
恐らく現存していないと思われます。

事務所の日めくりカレンダーは、1997年(平成9年)5月で終わっており、この辺りで廃業、もしくは倒産したのかと思います。
カレンダーには栃木県の建築会社のものもあり、よく見ると以前住んでいた場所のすぐ近くで、しかも家を買う際に検討した会社の一つだったりしました。取引があったのでしょうね。

事務所の棚には、いくつかの物件の建設や解体に関わったと思われる、地面や書類の棚が。一方、机やリース機器は積み上げられていて、最後はどういう状況だったのか? 金庫は人為的にこじ開けられた跡がありましたが、恐らく地元のヤンキーの仕業でしょう、入っているはずもないのに。

一方工場は、ゴミの山で、恐らく廃墟になってから不法投棄された、または地権者が捨てたのか。
黒い大きな袋(酪農で見かける牧草を入れるような袋)が大量に積まれた部屋もあり、中身は謎です。とにかくごみの山でした。
割と大きな工場も、人がいなくなれば荒廃する典型ですが、どうしてこうなったか、思いを馳せてみるのも面白い。そんな感じの物件でした。

2011年日本酒にハマったきかけのお酒【刈穂酒造】刈穂 大吟醸

今からちょうど10年前の2011年2月1日、結婚式の写真のお礼にと後輩から頂いたのが、このお酒。

刈穂酒造】刈穂 大吟醸

秋田県の「刈穂 大吟醸」です。

当時秋田にいた後輩の結婚式に参列、その際に写真を撮ってフォトブックにして渡したのですが、そのお礼に頂きました。

実はその当時、私が日本酒が飲めなくなっていました。原因は、若い頃、居酒屋飲み放題の安い日本酒を呑みすぎた結果、口に含んだだけで吐き気を催すようになってしまいまして。
今思えば、質の悪い、米すら使っていない醸造アルコールの日本酒で、悪酔いしていたんですね。

このお酒も、飲めないんだけど、もったいないし、開けてみるかと試しに飲んでみたら、あれ、行けるじゃん!となりまして。

酒米に山田錦と美山錦を使った、精米歩合45%、日本酒度+4で辛口の日本酒です。
もう10年前なので味はあまり覚えていないけど、スッキリとした淡麗辛口だけど、ほんのり米の甘みもあって、日本酒=ただ辛い、というイメージを覆しました。いやびっくりしましたね。安い日本酒にありがちな、醸造アルコール臭さも皆無。

この何年後かから、新政や作(ざく)など、現代の日本酒ブームにつながるお酒が流通するようになったのかな?

日本酒がどんどん飲まれなくなってきていた次期で、やはりただ辛いだけでは駄目と気付かされました。今となっては、フルーティな日本酒、酸味上等の日本酒、辛さ追求の日本酒、木樽にこだわった日本酒、色々出てきていますね。
今後ますます、個性を追求してほしいものです。

さらばジャパニーズファントム!

航空自衛隊百里基地の公式Twitterより、最後のF-4EJファントムIIの飛行隊だった第301飛行隊が、三沢基地所属の第3航空団に移動したこと、F-4EJ改ファントムIIの運用を終了したことが発表されました。

個人的には、今月頭に最後のファントム撮影を終えました。
301SQのファントムの最後には立ち会えませんでしたが、これで正式に、戦闘機部隊としては、現役で飛ぶ日本のファントムの運用が終了したことになります。

残りの現役ファントムは、飛行開発実験団所属の4機となりますが、戦闘機部隊のファントムが全て運用した現在、こちらも今年度内には退役となるのでしょうね。

F-4EJ (17-8301) 2019年10月撮影

301号機は、1971年に導入されたF-4EJファントムの初号機で、302号機とともにアメリカのマクダネル・ダグラス(当時:現ボーイング)で製造された機体で、それ以降はライセンス国産となっています。

製造から約半世紀、2020年現在も現役で飛ぶ、戦闘機としては我が国最古の機体です。途中多くの機体は改修されて、レーダーなどが改装され、HUD(ヘッドアップディスプレイ)が搭載されるなどしましたが、301号機は、導入当時のままの姿です。よく半世紀も維持できるものだなと感心します。

個人的に初めてファントムを生で見たのは、1998年の航空自衛隊千歳基地の航空祭でした。

既に、北海道では、戦闘機部隊は全てF-15J/DJに切り替わっていて、ファントムは百里基地の偵察部隊の501SQ、F-1からF-2配備までのつなぎとして、8SQに所属していた三沢のファントムが展示されていました。確か、展示のみで、飛行はなかったですね。

当時のフィルム、上にアップしたように、変色が始まっています。フィルムシートからはみ出て空気に接するフィルムは、変色が激しいようです。

F-4EJ改 (37-8308)

こちらは1999年の千歳基地航空祭より。やはりファントムはゲスト機なので、飛行展示はなし。後ろにT-33Aが見えますが、これも、これが最後の航空祭となってしまいましたね。

2006年 入間基地航空祭で展示される8SQのF-4EJ改 (57-3854)

就職、転職を経て、2006年、初めて入間基地航空祭に行ったときに見た、やっぱり8SQのファントム。8SQのファントムに、何故か縁がありました。洋上迷彩になっていますね。

飛んでいるファントムを撮れたのは、2008年に入って、初めて百里基地で撮影をしたときでした。

RF-4EJ (77-6392)

懐かしいですね。
ファントムをもっとたくさん撮るようになったのは、2010年代に入ってからですね。

10年前の今日、結婚式に参列していました

ふと、10年前の今日は何していたっけな?と見てみましたら(簡単に見られるのがデジタルの利点)、高校時代の後輩の結婚式に参列していました。

このくらいボカしていたら、顔わからないよね? Mやん君

実はその1ヶ月前にYamaro自身の結婚式でして、10年前くらいは結婚式ラッシュだったなぁ、と書くと年がバレそうですが、そういう世代ですハイ。

当時のカメラはNikon D300に、この時のレンズはTamron SP AF17-50mm F/2.8 XR Di II VCでした。

この時代、DXフォーマットカメラに合うf2.8通しの標準ズームは、純正ではAF-S DX Zoom-Nikkor 17-55mm f/2.8G IF-EDしかなく、手ブレ補正付きレンズが一般になりつつあった当時、純正もVR(手ブレ補正)付きで出すのではないかと、購入は控えていました。
が、結局、DXフォーマットではこれ以降もVR搭載レンズは発売されることはなく、中上位機はフルサイズに移行してしまったため、仕方なく手ブレ補正付きのTamronにしたわけですが、AFは超音波モータではない一般的なDCモータ、フルタイムMFもできずAFも遅くはないけど速くもなく、といったところ。手ブレ補正は当時のレンズとしてはよく効いたほうだと思います。

ただTamronのこのレンズ、まさにこの撮影中にシャッターが降りない!というトラブル発生。カメラボディ側の問題ではなく、このレンズの不具合が原因で、純正レンズのAF Nikkor 35mm f/2Dに付け替えると問題ない。
ただ結婚式だったので、単焦点1本というわけに行かず、シャッターが降りない不具合が発生したときは、レンズの付け直しで解消したので、騙し騙し使っていた記憶があります。
当然、この後修理に出しましたが、大切な撮影でシャッターが降りないのは冷や汗モノです。

そんなわけで、それ以来、大三元レンズだけは、信頼性の面から絶対純正としています。純正が絶対壊れないわけではないですけどね。

結婚式ラッシュだったので、スピードライトSB-900もガンガン使っていた時代。温度過昇防止センサが働いて苦労していたなぁ。SB-900の欠点でした。というより、デジタルになって、メモリカードの容量も増えつつあった時代に、1回の撮影でフラッシュ発光も、フィルム時代とは比べ物にならないくらい増えたので、それに設計が追いついていなかったようにも思います。

ところで、写真をRAWで現像してみたら、当時のパラメータ、今見ると色々調整不足だったなぁと改めて感じたり。画質は特に問題ないですね。1200万画素でも、十分今でも鑑賞に耐えますが、やっぱりD800に買えた時の画質の向上ぶりは圧倒でした。それでもD300、良い仕事をしてくれましたね。

【岩手】国民宿舎山王閣 2009年4月撮影

アサブロにのみアップしていた、国民宿舎山王閣の写真を、再現像しました。
アサブロのコメントに、当時の写真を頂きたいとの書き込みがあり、再現像を行いました。

当時は、撮影量に対して、Web化が間に合っておらず、また当時のアサブロでは写真を多く掲載することに限界があり(現在もですが)、またHP掲載にもWordPressのようには簡単にきれいに作れるわけではなかったので、アサブロに選んで掲載する、くらいしかしていりませんでした。

撮影から10年以上経過し、その当時の写真が、今となっては貴重に、となってくる時期でもあります。写真の面白さは、撮った直後だけでなく、こうして10年20年、あるいは100年後にも違った支店で楽しめるということでしょう。半世紀前の写真なんて、今見ると全てが新鮮ですからね。

1974~78年の航空写真から、国民宿舎山王閣 国土地理院

さて、国民宿舎山王閣は、岩手県宮古市の三王岩を眺望できる高台に、1965年に開業しました。
国民宿舎ということで公営の宿泊所で、4階建てのコンクリートにプールの付いた、当時としてはモダンなリゾート宿泊施設だったかと思います。
国民宿舎は、1956年の制度化以降、1960~70年代にかけて、全国各地で開業し、廉価で整った宿泊施設を提供しましたが、70年代以降は民間の宿泊施設も多く建造されると、90年代以降は国民宿舎の老朽化と陳腐化により、閉業や民間譲渡される施設も多くなりました。

山王閣も1995年に民間に無償貸付されたものの、恐らく設備の老朽化も進み、改築に見合う営業収入を得ることが難しかったのでしょう。2001年に閉業しました。

海沿いの施設ということで、廃墟と化して8年後の撮影でしたが、その1年後の2010年には解体されたとのことです。そして、そのさらに1年後の2011年3月11日、東日本大震災により、宮古市も津波により多くの被害が出ました。

多分宮古市のホテルだったと思うが、どのホテルだったか思い出せない… ここも津波被害はあったと思われる

この撮影の前日、宿泊したのは宮古市のホテルでしたが、海沿いでしたから、震災による津波被害は恐らくあったと思われます。残念ながら、ホテルの写真はこの1枚のみで、周辺写真は撮っていません。
たろう観光ホテル…だったかも知れません。もし、この写真を見て、どのホテルかわかる方がいましたら、コメントいただけるとありがたいです。

撮影は、田老鉱山撮影後で、三王岩を見たいと思ってたまたま行ったら、山王閣があった、という偶然で撮影したものです。疲れていて、あまり気合の入っていない写真ですが、よろしければご覧いただければと思います。
なお、現在は前述の通り建物は解体され、周辺は整備されて山王園地となっています。

山王閣からはそのまま海岸の遊歩道につながっていて、浪打崎まで降りることが出来ました。

残念ながら、2019年の台風19号の影響で、この遊歩道が使えない状態となっており、現在(2020年9月時点)でも通行禁止となっているようです。実は、その復旧工事関係者より、復旧にあたり、山王閣のプールがあった平場が崩壊したため、プールがあった当時の状況を資料として使用したい、との連絡があり、今回写真の再現像に至りました。

写真って、こうして過去を示す資料でもあるんですよね。お役に立てばと思います。

【福島】湯野上観光ホテル 2009年4月撮影

同じ福島の横向温泉ロッジの後に撮影した廃墟。どういう経緯で行ったかは、今となってはあまり記憶にないのですが、この当時はドライブがてら撮影しに行くことが多かったので、たまたま廃墟レーダーに感知した(笑)物件を撮影しに行くこともありました。

今と違ってまだガラケーの時代、ガラケーでもネットは見れたけど、携帯専用サイト以外では表示も崩れてあまり使い物にならなかったので、当時はまだカーナビとまっぷる片手に、、次はどの辺りに行こうかと思案しながら行ったものです。

ここも、温泉街と言えば廃物件もあると言うだろうという、そんな感じで行ったのだと思います。

廃墟探索地図によれば、1981年(昭和56年)に開業するも、2年後には閉業し、その後放置され続けている、とされています。オーナーが夜逃げしたのか?
年代的にはバブル景気が始まって、観光ホテルも全盛だった時代ですが、温泉街からはやや外れた場所にあること、プールもありましたが、この地域だとあまり使える期間は短く、温泉街にプールは少し似つかわしくない印象です。アメリカの西海岸みたいな気候ならまだしも、福島の山奥ですしね。

また、撮影当時は、現役時に火災にあったのか、廃墟化してから放火されたのか不明としていましたが、1999年(平成11年)2007年(平成19年)に放火があったようです。

現存するようですが、火災物件は痛みも早いですし、場所柄どうしても肝試し的に使われているようですね。

この撮影はNikon D300でしたが、撮影に際しては三脚使用のため、現在の水準でもハイライト飛びはひどいものの、アンダー部分の階調は割と残っており、今回の再RAW現像に関しては、以前は黒つぶれで再現しきれていなかった部分も、だいぶ表現できています。

やはりRAW現像は、最新のもので行えば、当時うまく表現できなかった部分も何とかできることも多いですね。

そしてこの撮影に関しては、三脚を使用し、基本感度ISO200固定でフィルムと同じ用に基本に立ち返って撮影、これが大きいですね。
ダイナミックレンジが、今のカメラよりは狭かったD300ですが、基本感度で撮影することで、ダイナミックレンジを最大限発揮できます。

もちろん、今のカメラで撮影はしてみたいですけどね。