「AI AF Nikkor 35mm f/2D」タグアーカイブ

【岩手】松尾鉱山廃墟群 2008年5月撮影 2日目 その2

栄華を誇った松尾鉱山、当時近代的なアパート群の横には、1953年(昭和28年)に開校した松尾鉱山中学校がありました。
人口も1万人を超えれば、当然子供もたくさんいたわけです。
しかし、1969年の松尾鉱山の運営会社の倒産により、この中学校も1970年3月を持って廃校となりました。まさに鉱山とともに生き、そして幕を閉じたことになります。

旧松尾鉱山中学校(生活学園)

旧松尾鉱山中学校→生活学園の建物(2012年に解体され現存しません)

しかし、その後、学校法人生活学園盛岡大学が1974年(昭和49年)9月に生活学園八幡平校舎として改築しました。
生活学園の母体は、盛岡を本拠地とした学校法人で、キリスト教精神に基づいた学校教育を行なっているとのことです。生活学園の建物内に聖書が残されていのも納得です。
廃墟地図さんのページには、1982年(昭和57年)より生活学園盛岡大学の合宿舎として使われていた、とのことですが、これは盛岡大学のHPにある旧八幡平校舎の改築落成の1974年9月とは一致しません。HPの小さな写真を見ても、校舎は明らかに上の写真と一致します。

https://morioka-u.ac.jp/about/history/ より引用させていただきました
右側に貸付標識があり、これのトップが昭和57年4月となっている

1982年(昭和57年)の根拠は、恐らくこの写真右にある〇〇貸付標識のトップに昭和57年4月とあったからと思われますが(土地の貸付の標識と思われます)、本体の生活学園盛岡大学のHPの記載を尊重し、1974年9月落成、そこから1994年(平成6年)閉校まで使用された、と解釈します。

1974年改築落成、ということは、元の校舎をそのまま改築したと思われます。ぱっと見で割と新しめなのに、部分的に古い感じがするのは、そのためなのかな?
合宿舎ということで、ベッドなども残されていましたが、廃墟になってから緑ヶ丘アパートよりも荒れていて、サバゲーや肝試しで使われた形跡があり、特に落書きがひどかったです。至るところにBB弾が落ちていました。
この撮影のわずか6日前に書かれたと思われる落書きもありました。書いた本人らは今何をしているのでしょうね。

正直なところ、廃墟として見るべきものはあまりない感じでした。

通称「赤い部屋」のマネキン

通称「赤い部屋」、こういうのを見ても、個人的にはドキッとするより、やっちまったなぁ感のほうが大きいです。こういう人為的なものが目立つのは、廃墟美とは違いますから。もっとも、こちらも人のことは言えませんけどね。

この建物は2012年に解体され、現存しません。

では再び緑ヶ丘アパートに戻ります。写真が多くなってしまいましたので、続きは次回、これで完結です。

【岩手】松尾鉱山廃墟群 2008年5月撮影 2日目 その1

八幡平市に1泊し、撮影に挑んだ2日目。面白いことに、どこに泊まったかとか、泊まった所の写真は一切撮影していません。
この撮影では、Yamaroが初導入したデジ立つ一眼レフのNikon D300を使用しましたが、当時のメモリーカードは4GBが2枚だったと思います。フィルムカメラよりは撮影枚数は稼げるとは言え、4GBだとD300のRAW撮影では、1枚おおよそ15,6MBとなるため、250枚程度しか撮れません。実際、この時の写真も4GBのメモリカード2枚を撮りきっています。
そんなわけですから、今みたいに気軽にパシャパシャ撮影できる時代ではありませんでした。とは言え、フィルムを使っていた人からすれば、フィルム十数本程度撮影できるので、この当時としてはたくさん撮影できる、ということになります。
まだスマホもなかった時代、本当に気軽にメモリ残量を気にせずに写真が撮れる時代になったのは、2010年代後半になってからですね。

と懐かしい話は置いておいて、2日目の撮影は午前9時半から開始しました。

緑ヶ丘アパート

長崎県の軍艦島の廃アパートは圧巻ですが、ここはそれより規模は小さいものの、軍艦島と並ぶ建造当時もっとも近代的だった日本最古の鉄筋コンクリートのアパートの1つです。1951年(昭和26年)に完成した、標高1000メートルのこの地に立つアパートは、当時栄華を極めた鉱山のアパートとあって、「雲上の楽園」友言われたようです。
松尾鉱山最盛期の1960年(昭和35年)には、このあたりの人口は1万5千人を超え、このアパート周辺も、今はない木造の鉱員住宅と供に、賑わっていたのでしょうね。有名な軍艦島は、現役当時の写真も多く出回っていますが、松尾鉱山に関しては少ないように感じます。
読売新聞オンラインに、現役当時の賑わう様子の写真が掲載されています。これを見て、また現地を訪れたくなりました。いつになるかはわかりませんが、またでかけたいです。

1階部分は長い廊下となっていて、やや立ち向きが異なる隣のアパートへ連接されているため、途中カーブを描いています。これがまた圧巻です。
軍艦島のように、長年にわたり建物が増設や新築されたのと違い、この緑ヶ丘アパートは建設年代が同じなので、全体として統一感がありますね。

それでも築年数は半世紀を超え、この撮影当時の2008年ですら相当痛みが激しくなっています。部分的に崩壊している箇所もあります。
軍艦島のアパートは台風や海水に晒されていますが、ここは主に雪による重みが劣化を促進させています。

緑ヶ丘アパート最大の魅力が、このアパート群中央部分の大きな階段でしょう。

4棟が上下に並ぶアパートの中央を連接する部分です。この部分には商店や福利厚生施設が入っていたのかは定かではありませんが、そういうのがあったのかなと思わせる場所です。
首と片足のないマネキンもここでは有名です。ちなみに、片足は別の場所に転がっていました。

一旦外に出ました。
大きな煙突が見えます。何となく、発電所跡に見えますが、ここはアパートの集中暖房(セントラルヒーティング)のためのボイラー施設だったようです。こんなにも大きなボイラーが別の建物に設置されていたとは驚きです。

まだまだ写真があるため、次回に続きます。

【岩手】松尾鉱山廃墟群 2008年5月撮影 1日目

2008年5月、高校の同期のなべ氏と供に、1泊2日の遠征撮影に行きました。目的地は岩手県八幡平市の松尾鉱山の廃墟撮影。
この撮影は、当時Yamaroが住んでいた栃木県からの移動となり、非常に遠距離のため、1泊2日としました。当時東京に住んでいたなべ氏は、わざわざ東京から駆けつけてきました。

松尾鉱山 緑丘アパート廃墟群 2008年5月

彼とは社会人になってからも何度か撮影にでかけています。今ではお互い結婚し、氏は地元に戻っているので、一緒に撮影する機会はなくなりました。

さて、この当時の写真はHPに掲載していますが、掲載から十数年経過し、当時のHP環境と現代では、大きく変化しました。スマホの普及、PCもフルHDを超える表示環境が増えてきました。画像の表示方法も、まだ掲載枚数の少ない時代とは違い、載せる側も見る側も、多くの画像表示がシームレスに可能となりました。

ということで、当時の写真を改めて再RAW現像し、解像度もフルHDまで上げて掲載させていただきます。
写真は何も最新のものである必要はなく、その時代時代を映すものですから、今2008年の写真を載せることには、意義があるものと思っています。2008年変わらぬ風景はないからです。
特に廃墟の場合は、劣化が進み、倒壊あるいは解体されてしまうこともあります。この撮影後の4年後には、旧松尾鉱山中学校(後に生活学園)は解体され、現存しません。

左に見えるのが、現存しない旧松尾鉱山中学校の校舎体育館

その当時の状況をアーカイブし、今に伝えられるのは、情報が流れてしまうSNSよりも、HPやブログに軍配が上がると思っています。
ということで、何度か再掲していますが、改めて一気に再現像した写真をここに掲載します。

独身寮「至誠寮」とその周辺

1泊2日工程とは言え、栃木から岩手への移動距離はそれなりにあります。写真データを見ると、初日の撮影開始は午後2時半を過ぎていました。
東京から来たなべ氏を拾ってからだったので、それなりに時間はかかっていますね。

ということで、この日は独身寮「至誠寮」とその周辺を撮影しました。

松尾鉱山は、1911年(明治44年)に採掘が開始され、主に硫黄が採掘されていました。一時期は日本一の硫黄採掘量を誇った松尾鉱山も、その後海外の安い硫黄の輸入や、石油精製の副産物として硫黄が取れるようになったために需要が減り、1969年(昭和44年)に会社が倒産、その後、黄鉄鉱に絞った新会社ができるも、1972年(昭和47年)にはこれも倒産し、閉山となりました。
その後、木造住宅は取り壊され、鉄筋コンクリートのアパートのみが残されたまま、現在に至っています。
これらのアパートは、当時としては近代的な水洗トイレが完備され、集中暖房(セントラルヒーティング)も採用されていたようです。
鉄筋コンクリートのアパートは、1950年代から60年代にかけて建造されたもののようです。撮影当時の2008年でも、閉山から40年近く経過し、築年数は半世紀を経過し、周辺の山は5月でも雪が残る豪雪地帯ですから、冬の雪による重みで、建物の劣化は一段と進んでいます。

写真にあるように、一部には鉱山施設の遺構も残されていました。

木造モルタル、ブロックで構成された平屋の建物、現在はさらに倒壊が進んでいますが、この撮影当時でも、すでに屋根はほぼ崩壊、雪国の廃墟はまっ先に屋根がやられます。共同浴場らしきものが残されており、ここも独身寮だったのかは定かではないものの、「至誠寮」の向かいに現存する建物です。

「至誠寮」に向かいます。
流石に鉄筋コンクリートとは言え、半世紀も経過すると大幅に劣化が進み、一部雪の重みで崩壊しています。

当時近代的な鉄筋コンクリートのアパートだった独身寮、コンクリートだけど、窓や引き戸は木製で、時代を感じさせます。
1階部分の広間には、閉山後の鉱害防止工事のための地質調査をしたと思われる木製のケースが多数残されていました。
「昭和52年度松尾鉱山鉱害防止工事 新中和処理施設(貯泥ダム)調査  日鉄鉱コンサルタント(株)」と書かれていました。

この中和処理施設は、1982年(昭和57年)より稼働し、現在に至るまで、松尾鉱山より流れ出る強酸性で鉄分や砒素を多く含む坑廃水を中和しています。
Googleマップでは、北側に貯泥ダムが見えますね。

この日はこの周辺撮影で夕方を迎えたため、緑ヶ丘アパートを眺めつつ、宿泊先の八幡平市内に移動しました。

2日目に続く。

【冬の夕張】石炭の歴史村とその周辺 2008年2月撮影

北海道の夕張市と言えば、夕張メロンが有名であり、そしてかつて炭鉱の町として大いににぎわった町でした。
故高倉健主演、倍賞千恵子、桃井かおりや武田鉄矢が出演する映画「幸福の黄色いハンカチ」(1977年・山田洋次監督)では、まだ炭鉱でにぎわい活気のあった夕張の町が登場します。

しかし、石炭から石油へのシフトや低価格な海外産石炭の輸入増、炭鉱事故など様々な理由により、国内の炭鉱は次第に縮小し、夕張の炭鉱は1990年までに全て閉山しています。
これに伴い、夕張の町も人口が減って税収減により財政が苦しくなり、観光シフトのために箱モノに投資するも、バブル崩壊や観光客減などにより、2007年には市の財政が破綻するに至っています。

撮影は、その財政破綻から1年が経とうとする2008年2月、北海道に出向いての撮影です。
レンタカーでの移動でしたが、夕張は積雪量も多く、建物は管理されていないとすぐに痛む状況です。

当時、夕張市石炭博物館(通称「石炭の歴史村」)は、管理していた第三セクターが2006年に経営破綻、2007年には別の観光会社が引き継いでいます。
雪が深いため、冬期間は営業していませんが建物の老朽化と合わせて、本当に現役なの?と思わせるような雰囲気でした。

石炭の歴史村にあった「夕張ロボット大博物館」も、この撮影後の2008年8月に解体されました。中には新世紀ロボ ユーバロット( )という大きなロボットもあったようですが、建物ごと解体されています。
残念ながら、写真では雪に閉ざされて、中の様子をうかがう事はできませんでした。

北海道の観光地は、冬期間も除雪して観光客を迎えていますが、そもそも積雪量の多い夕張、札幌からも少し遠く、足を運ぶのが難しい地域でもあります。
こうした土地の事情もあり、冬季休業するために、観光客を呼べる期間は年の半分しかないのも、観光地として定着しない一員でしょうね。

2008年2月、羽田空港にて

今から14年前の羽田空港にて。
別に飛行機を撮りに行ったわけではなく、たまたま北海道に行くの搭乗待ちの時間に撮影したもの。

なのでレンズも航空機撮影用にのものは持ってきていなかったと思われ、Nikon D300AIAF Nikkor 35mm f/2DTamron SP AF 90mm F2.8 Macroの2本だったりします。

ここに写っているすべての機体は、既に現役引退しています。
まずJALの鶴マークのなかった時代が既に懐かしい。2002年から2011年まで使われていた、太陽アークの垂直尾翼です。個人的にはあまり好きではなかったですね。

MD-90は、日本エアシステムから引き継いだ機体で、日本の航空会社では最後のT字尾翼の機体です。地方発着の国内線ではよく使われていた機体ですが、今ではこのクラスの規模の期待は、B737系やA320系に置き換わっていますね。
そしてまだジャンボ機が活躍していた時代でもあります。
先日、米大統領専用機のB747-200BベースのVC-25の写真を上げましたが、B747-400Dはその近代改良型で、ハイテクジャンボと呼ばれた、航空機関士なしのパイロット2名で運行できるジャンボです。400Dの末尾のDは”Domestic”の略で、フライト時間が短く、離発着回数の多い日本国内専用モデルでした。
コロナ禍の今とあっては、こんな大型機を国内線で運用していた時代があったことが、もう懐かしく感じてしまいますね。

そのジャンボの後継機とされたB777ですら、急速に退役が進んでいて、もう国内線では中型のA350やB787どころか、小ぶりなA320やB737のほうが主力になっている感じがあります。

こうした空港の何気ない風景も、14年も経てばちょっと貴重な写真ですね。

10年前に撮影した、本の表紙にもなった廃墟 Hotel Peace

ちょうど10年前の今日、高校時代の同期と後輩と共に、伊東方面廃墟撮影に出かけていました。当時、と言うか今もですが、GWは廃墟撮影をよく行っています。
その過程で撮影したラブホの廃墟です。

2012年4月29日のHotel Peace

地方によくある風景ですし、はっきり言うと廃墟写真的には大して映えないものでしたが、この写真が新潮社のとある編集さんの目に止まり、作品の情景にピッタリ、ということで小説の表紙として使っていただけました

現在では、この小説は表紙がイラストとなり、私の写真は使われていませんが、紀伊國屋書店の電子書籍で5/5(木)まで30%オフで販売中です。

※Amazonと楽天では通常価格での販売となっています。


ホテルの他に、カラオケボックス、飲食店、パチスロと、いかにも高度経済成長期に建てられた作りですね。
廃墟的には見るべきものはなく、ただただ記録のように撮ってしまいましたが、こんな写真が使われるなんて、ただただ恐縮です。

ちなみに、このホテルの所有者だった会社は、2015年までは法人として登記されているようです。
そしてこの建物は現存しません。

写真撮影後の2ヶ月後の2012年6月から、2015年2月までは、Googleストリートビューに建物が存在することが確認できます。

その後、2017年のストリートビューでは、建物が解体されて更地になっているのが確認でき(草木に埋もれた看板のみ残っていますが)、2019年には現在のセブンイレブンが営業しているのが確認できます。

ただの何でもない風景ですが、写真に収めて時間が経過すれば、今はもう見られない記録として残る訳ですね。なんでもない風景も、10年一昔ということです。
そんなこんなで、日々写真をと入り続けています。

アサガオの芽が生えたのでタイムラプス化してみたが…

去年娘が学校で育てたアサガオ、種をとってこの春植えてみました。
何個か植えて、2つの芽が生えてきました。

この時点ではぐんぐん育っていたアサガオ

ぐんぐん成長しているな…と思い、インターバル撮影開始しました。

10分ごとのインターバル撮影をし、4K60pでタイムラプス化してみました。
が、ご覧の通り、右の目は倒れて枯れてしまい、左の芽も倒れてしまいました。
そして現在、左の芽も茎が細くなって枯れてしまいました…。

アサガオ
枯れちゃった…

水のあげ過ぎ? 風が強かったから?
がっかりですね…。

11年目の結婚記念日でした

妻よ、すまぬ。昨日は帰りが遅くて、妻が先に寝てから気付きました。
2010年5月13日から、もう11年です。これからもよろしく。

Nikon F90Xs + Carl Zeiss Planar T* 1.4/50 ZF.2

写真は、ちょうど結婚届を出した当日に撮影。写っているレンズ、Carl Zeiss T* 1.4/50 ZF.2は、妻からの結婚プレゼントでした。

【茨城】(株)K立工業

2009年に撮影した、茨城県某所の廃工場。
この当時まだGPSアダプタを持っていなかったため、撮影場所が現在となっては分かりません。

茨城県まではわかるのですが、廃墟検索地図さんのサイトにも未掲載、またこの会社の名前で検索しても、こことは関係のない現役の会社がヒットするだけでした。
Yamaroオリジナル物件と言えるかなと思うのですが、周りは畑しかない田舎道とは言え、道路沿いに面していただけに、誰も知らないというのも不思議な話。
恐らく現存していないと思われます。

事務所の日めくりカレンダーは、1997年(平成9年)5月で終わっており、この辺りで廃業、もしくは倒産したのかと思います。
カレンダーには栃木県の建築会社のものもあり、よく見ると以前住んでいた場所のすぐ近くで、しかも家を買う際に検討した会社の一つだったりしました。取引があったのでしょうね。

事務所の棚には、いくつかの物件の建設や解体に関わったと思われる、地面や書類の棚が。一方、机やリース機器は積み上げられていて、最後はどういう状況だったのか? 金庫は人為的にこじ開けられた跡がありましたが、恐らく地元のヤンキーの仕業でしょう、入っているはずもないのに。

一方工場は、ゴミの山で、恐らく廃墟になってから不法投棄された、または地権者が捨てたのか。
黒い大きな袋(酪農で見かける牧草を入れるような袋)が大量に積まれた部屋もあり、中身は謎です。とにかくごみの山でした。
割と大きな工場も、人がいなくなれば荒廃する典型ですが、どうしてこうなったか、思いを馳せてみるのも面白い。そんな感じの物件でした。

2011年日本酒にハマったきかけのお酒【刈穂酒造】刈穂 大吟醸

今からちょうど10年前の2011年2月1日、結婚式の写真のお礼にと後輩から頂いたのが、このお酒。

刈穂酒造】刈穂 大吟醸

秋田県の「刈穂 大吟醸」です。

当時秋田にいた後輩の結婚式に参列、その際に写真を撮ってフォトブックにして渡したのですが、そのお礼に頂きました。

実はその当時、私が日本酒が飲めなくなっていました。原因は、若い頃、居酒屋飲み放題の安い日本酒を呑みすぎた結果、口に含んだだけで吐き気を催すようになってしまいまして。
今思えば、質の悪い、米すら使っていない醸造アルコールの日本酒で、悪酔いしていたんですね。

このお酒も、飲めないんだけど、もったいないし、開けてみるかと試しに飲んでみたら、あれ、行けるじゃん!となりまして。

酒米に山田錦と美山錦を使った、精米歩合45%、日本酒度+4で辛口の日本酒です。
もう10年前なので味はあまり覚えていないけど、スッキリとした淡麗辛口だけど、ほんのり米の甘みもあって、日本酒=ただ辛い、というイメージを覆しました。いやびっくりしましたね。安い日本酒にありがちな、醸造アルコール臭さも皆無。

この何年後かから、新政や作(ざく)など、現代の日本酒ブームにつながるお酒が流通するようになったのかな?

日本酒がどんどん飲まれなくなってきていた次期で、やはりただ辛いだけでは駄目と気付かされました。今となっては、フルーティな日本酒、酸味上等の日本酒、辛さ追求の日本酒、木樽にこだわった日本酒、色々出てきていますね。
今後ますます、個性を追求してほしいものです。