「AI AF Nikkor 35mm f/2D」タグアーカイブ

4本のNIKKOR 35mm

NIKKOR Zの35mmはf/1.2が出るとの噂もありますが、スナップはf/1.8で十分と思っているので、NIKKOR Z 35mm f/1.8 Sはいつか欲しいと思っていたレンズの1つです。

これで手持ちの一眼用の35mmは4本となりました。好きなんですねぇ。

左から右へ行くにつれ新しくなっていく、そして大きくなっていく…f値が違うから一概に言えませんが

Nikkor-S Auto 35mm F2.8
AI AF Nikkor 35mm f/2D
AF-S NIKKOR 35mm f/1.8G ED
NIKKOR Z 35mm f/1.8 S

どのレンズもNikon Zマウント機なら使えます。FマウントレンズはマウントアダプターFTZ IIを介して取付可能。厳密には一番古いNikkor-* Auto(通称オートニッコール)はFTZ IIは公差の問題で公式には取付不可能としているものの、そのNikon自身がNikonミュージアムの企画展で、自己責任の下FTZ IIにオートニッコールを取付けて撮影していて、個体差で取付が渋いものがあるようですが、概ね問題ないと思っています。

ということは…4本のレンズで撮り比べできちゃうんですよね。
これは撮影が結構大変なので、そのうちやろうと思いますが、まずはNIKKOR Z 35mm f/1.8 Sの特性をつかんでいきたいと思います。


ところで…Photomic FTNの電池がついに切れてしまいました…。アダプタ買わないと。

【栃木】五十里(いかり)の廃墟 – 2009年撮影

今から15年前の2009年1月に撮影した、栃木県日光市五十里(いかり)の廃墟。
こちらは廃墟検索地図さんにも掲載のない物件です。

五十里ダムのダム湖は凍結していました

この辺りは、西側に遡ると、平家の落ち武者が住み着いた湯西川があり、湯西川ダムが上流に存在します。この写真の撮影当時は、まだ湯西川ダムは建造中で、現在水没してしまった道路も、当時はまだ走行できましたが、非常に密が狭くて曲がりくねっていて、冬季はなかなかの難所でした。今は道路が整備されそんなことはなくなりましたが。

話を戻すと、物件は国道121号線の旧道から入ったところにありますが、現在この旧道は通行止めになっています。撮影当時は通行可能でした。

この分岐の右側を上がる

わずかに雪が残っていますね。今年の状況はどうなんだろう? 温暖化の影響か、栃木県の北部も以前よりは雪も少ないようで、スキー場も難儀しているようです。

なかなか立派な家屋です。しかし反対側は写真の通り崩壊して中が丸見えになっていました。東北や北海道ほど雪は降らないにしろ、昔はもっと降っていたのでしょうから、積雪によるダメージはそれなりにありますね。

たばこ販売店の表示、昔は藤原町大字五十里337番地だったようです

犬を飼っていたようです。昭和38年度(1963年)のプレートが最後でした。少なくとも、この建物は昭和30年代には存在したことになります。築年数は撮影当時の2009年で半世紀は経過していることになります。
たばこ販売店だったようですが、建物が大きいので、たばこ販売以外も行っていたのかもしれません。

扉には板を打ち付けてあり、ある時点から閉鎖し、それから長い年月が経過した、そんな感じに見えます。旧道化した国道を通る車は極端に減り、ここでの商売を断念したのでしょうか? ただ、旧道化したのは2004年のようで、それよりもっと前に廃屋化した印象です。

それにしても現役当時は立派で建物だったのでしょう。丸窓の意匠もなかなか雰囲気が出ています。

たばこ屋は自販機化が進み、現在ではあまり見かけなくなりました。かつてたばこの看板が出ていたお店は、今はほぼ絶滅してしまいましたね。

今やめっきり見かけなくなった「たばこ」の看板

私も栃木を離れて12年。宇都宮まで出向くことはあっても、日光方面まではなかなか行けなくなりましたし、まして湯西川方面ともなると、かなり遠くなってしまったので、現在のこの場所がどうなっているかはわかりません。が、15年前に崩壊が始まっていたのを考えると、現在は原型を留めていない可能性が高そうです。

【2008年撮影】三峰ロープウェイ旧三峰山頂駅舎

過去に撮影した写真を、新たにRAW現像し直してみました。RAW現像ソフトの進歩は日進月歩ですね。今回はLightroom Classicで実施しました。

埼玉県は三峰山の山頂までの三峰ロープウェイの歴史は古く、1939年(昭和14年)に初代のロープウェイが開通しました。
初代区間は1964年(昭和39年)にロープウェイの搬器(いわゆるゴンドラ)の変更(定員21名から71名に大型化)に伴い運行区間も若干変更されたため、駅舎も変更されました。
麓の駅舎の場所は新旧とも同じ場所でしたが、山頂駅は駅舎の場所が異なっていて、旧駅舎は新駅舎よりもやや下った場所にありました。
三峯神社まで少し遠かったのもあって、恐らくもう少し神社に近い場所に新駅舎設置の要望があったのでしょうか? 搬器(ゴンドラ)の大型化も、戦後の混乱期から落ち着いて、観光客が増えたためと聞いています。

さて旧山頂駅は新駅舎に移転した後は、長らく放置されていました。新駅舎で運行していたロープウェイは2006年に設備の老朽化と金属疲労の発見により運休となり、改修更新に多額の費用がかかることから、そのまま2007年にロープウェイ自体の廃止が決定、2007年12月より、新駅舎とともに旧駅舎も取り壊されることになりました。

皮肉なことに、旧駅舎は廃駅から40年以上放置された挙げ句、新駅舎と共に取り壊されることになったのです。山頂旧駅舎は、2009年12月から取り壊しが始まりました。
その直前の2009年11月に旧駅舎を撮影しました。

解体準備のため、長いこと放置されていたと思われる旧駅舎へのアプローチのために樹木の伐採が行われていました。

旧駅舎は40年以上放置されており、落書きや空き缶も時代を感じさせるものでした。

旧駅舎までのゴンドラは、新駅舎までの索条(ワイヤロープ)、支持鉄塔が設置された際に恐らく撤去されたのでしょう。ロープウェイらしきものは駅舎以外残っていません。
麓を望遠レンズで覗くと、大輪駅が見えました。すでにこの時点で、新経路の索条も撤去されて、まだ駅舎だけが残っている状態でした。

木造で趣のある建物、戦前の建築で、私の通っていた小学校も昭和9年建造だったため(卒業と同時に取り壊されて鉄筋校舎になりました)、ペンキの色合いや窓枠など、昭和初期を感じさせる駅舎は懐かしさを感じました。

すでにこの建物は取り壊しから十数年が経過しました。こうした昭和初期の建物は21世紀も20年を超えた現在、非常に少なくなっています。
自社をモチーフとしたという建物は趣があり、現存しなくなってもなお、写真として語り継げたらなと思います。

撮影はNikon D300にAF-S DX 18-70mm, AI AF 35mm f/2D, AI AF24mm f/2.8D, AF-S 80-200mm f/2.8Dです。
RAW撮影していたため、現代のソフトでしっかりとした画質で再現像できました。色やAWBの転び方などは、時代を感じさせる部分もありますが、最終的な出力は問題ない品質ですね。

なお、麓の大輪駅と新山頂駅の写真はこちらにまとめています。

1999年の母校の放送室の風景

懐かしの写真です。1999年、当時は大学生でしたが、夏休みに地元函館に帰った際に、母校の高校の放送室で撮影。
20世紀末の高校の放送室の機材はこんな感じでした。

ラジオ班の音響機材

今やパソコンで何でもできる時代になり、こうした機材のうち、アンプとスピーカーとマイク、ミキサーを除くと、録音機材は大きく変化しているでしょうね。
この時代は徐々に機材がアナログからデジタルに変わっていく時代でした。

私が現役放送局員(委員会的役割もあったので、放送部とは呼ばず放送局と呼ばれていました)に入った頃は、ギリギリカセットテープを使ったTASCAMのMTR(マルチトラックレコーダ)が使われていましたが、その後MD DATAというMD(ミニディスク)派生のPC用メディアを使ったMTRを導入していました。
MDデッキはそれ以上前から導入し、特に番組作りの編集作業では、カセットテープと違って好きな曲順にしたり、不要な部分をカットしてつなげるといった作業がとても楽になりました。そういう意味で、MDデッキは編集ができる民生用としては最初の画期的なディスクメディアだったんですよね。

CDプレーヤーは、固定ピックアップメカのSONY CDP-XA5ES、カセットデッキも民生用カセットデッキ末期のSONY TC-KA3ESでした。
エフェクタも同時導入したてのSONY DPS-V77で、この辺り、実は当時局長だった私の趣味で選定し導入した機材です。わりと予算に恵まれていたのですね。
アンプも懐かしのONKYO IntegraA-925、スピーカーはBOSEの…何だったっけ? 111ではなかったような…。
レコードプレーヤーは、私が寄贈したものです。

ビデオ班の機材

私はラジオ班だったので、こちらはメインで使っていなかったですが、コンクールの締め切り間近とかはよく編集のお手伝いしていました。
この当時、もうデジタル記録できるDVフォーマットのカメラが出ていましたが、まだHi8を主体としたアナログビデオメインでした。
半業務用のSONYのHi8ダブルデッキで、タイムコードを打って編集したものです。汎用性の高いS-VHSデッキはVictorの民生機上級機種とSONYの半業務用機種を導入していました。
スイッチャー編集機は、SONYのFXE-100で、この辺りの機材は業務用故に非常に高価でしたが、学校の創立100周年記念予算でガッツリ予算が取れたので導入した機材です。
モニタもSONYの業務用ピクチャーモニタのPVM-14シリーズでした。

どの機材も今となってはパソコン1台で完結できるようになってしまいましたね。ビデオ分野は本当にPCとソフトの進化で、今や個人レベルでこの機材を上回る編集も可能となりました。

校内放送用のコンソール

皆さんが思い浮かべる放送室の風景ですね。校内の送り出しのコンソールです。シンプルですね。ガラス越しの向こうにアナウンサーが居て、そこから校内放送を流していました。
この時は夏休みなので、まだ現役高校生の後輩たちが談笑していますね。当時は用がなくても、局員はわりと放送室に集まっていました。
こういう風景は今でも変わらないのかな? あれから四半世紀、今どうなっているのか見てみたいですね。

この写真自体も16年以上前にスキャンしたもので、まだ撮影から数年だったので、ネガも状態よくスキャンできていますが、四半世紀経過した今、ネガの変色・退色が始まっています。スキャンしなきゃと思いつつ、スキャンできていないフィルムが山ほどあります。
データが突然飛ぶかもしれないデジタルに比べて失われにくいフィルムとは言え、一般人にとっては、状態よく保存はなかなか難しいものがありますね。

【岩手】松尾鉱山廃墟群 2008年5月撮影 2日目 その2

栄華を誇った松尾鉱山、当時近代的なアパート群の横には、1953年(昭和28年)に開校した松尾鉱山中学校がありました。
人口も1万人を超えれば、当然子供もたくさんいたわけです。
しかし、1969年の松尾鉱山の運営会社の倒産により、この中学校も1970年3月を持って廃校となりました。まさに鉱山とともに生き、そして幕を閉じたことになります。

旧松尾鉱山中学校(生活学園)

旧松尾鉱山中学校→生活学園の建物(2012年に解体され現存しません)

しかし、その後、学校法人生活学園盛岡大学が1974年(昭和49年)9月に生活学園八幡平校舎として改築しました。
生活学園の母体は、盛岡を本拠地とした学校法人で、キリスト教精神に基づいた学校教育を行なっているとのことです。生活学園の建物内に聖書が残されていのも納得です。
廃墟地図さんのページには、1982年(昭和57年)より生活学園盛岡大学の合宿舎として使われていた、とのことですが、これは盛岡大学のHPにある旧八幡平校舎の改築落成の1974年9月とは一致しません。HPの小さな写真を見ても、校舎は明らかに上の写真と一致します。

https://morioka-u.ac.jp/about/history/ より引用させていただきました
右側に貸付標識があり、これのトップが昭和57年4月となっている

1982年(昭和57年)の根拠は、恐らくこの写真右にある〇〇貸付標識のトップに昭和57年4月とあったからと思われますが(土地の貸付の標識と思われます)、本体の生活学園盛岡大学のHPの記載を尊重し、1974年9月落成、そこから1994年(平成6年)閉校まで使用された、と解釈します。

1974年改築落成、ということは、元の校舎をそのまま改築したと思われます。ぱっと見で割と新しめなのに、部分的に古い感じがするのは、そのためなのかな?
合宿舎ということで、ベッドなども残されていましたが、廃墟になってから緑ヶ丘アパートよりも荒れていて、サバゲーや肝試しで使われた形跡があり、特に落書きがひどかったです。至るところにBB弾が落ちていました。
この撮影のわずか6日前に書かれたと思われる落書きもありました。書いた本人らは今何をしているのでしょうね。

正直なところ、廃墟として見るべきものはあまりない感じでした。

通称「赤い部屋」のマネキン

通称「赤い部屋」、こういうのを見ても、個人的にはドキッとするより、やっちまったなぁ感のほうが大きいです。こういう人為的なものが目立つのは、廃墟美とは違いますから。もっとも、こちらも人のことは言えませんけどね。

この建物は2012年に解体され、現存しません。

では再び緑ヶ丘アパートに戻ります。写真が多くなってしまいましたので、続きは次回、これで完結です。

【岩手】松尾鉱山廃墟群 2008年5月撮影 2日目 その1

八幡平市に1泊し、撮影に挑んだ2日目。面白いことに、どこに泊まったかとか、泊まった所の写真は一切撮影していません。
この撮影では、Yamaroが初導入したデジ立つ一眼レフのNikon D300を使用しましたが、当時のメモリーカードは4GBが2枚だったと思います。フィルムカメラよりは撮影枚数は稼げるとは言え、4GBだとD300のRAW撮影では、1枚おおよそ15,6MBとなるため、250枚程度しか撮れません。実際、この時の写真も4GBのメモリカード2枚を撮りきっています。
そんなわけですから、今みたいに気軽にパシャパシャ撮影できる時代ではありませんでした。とは言え、フィルムを使っていた人からすれば、フィルム十数本程度撮影できるので、この当時としてはたくさん撮影できる、ということになります。
まだスマホもなかった時代、本当に気軽にメモリ残量を気にせずに写真が撮れる時代になったのは、2010年代後半になってからですね。

と懐かしい話は置いておいて、2日目の撮影は午前9時半から開始しました。

緑ヶ丘アパート

長崎県の軍艦島の廃アパートは圧巻ですが、ここはそれより規模は小さいものの、軍艦島と並ぶ建造当時もっとも近代的だった日本最古の鉄筋コンクリートのアパートの1つです。1951年(昭和26年)に完成した、標高1000メートルのこの地に立つアパートは、当時栄華を極めた鉱山のアパートとあって、「雲上の楽園」友言われたようです。
松尾鉱山最盛期の1960年(昭和35年)には、このあたりの人口は1万5千人を超え、このアパート周辺も、今はない木造の鉱員住宅と供に、賑わっていたのでしょうね。有名な軍艦島は、現役当時の写真も多く出回っていますが、松尾鉱山に関しては少ないように感じます。
読売新聞オンラインに、現役当時の賑わう様子の写真が掲載されています。これを見て、また現地を訪れたくなりました。いつになるかはわかりませんが、またでかけたいです。

1階部分は長い廊下となっていて、やや立ち向きが異なる隣のアパートへ連接されているため、途中カーブを描いています。これがまた圧巻です。
軍艦島のように、長年にわたり建物が増設や新築されたのと違い、この緑ヶ丘アパートは建設年代が同じなので、全体として統一感がありますね。

それでも築年数は半世紀を超え、この撮影当時の2008年ですら相当痛みが激しくなっています。部分的に崩壊している箇所もあります。
軍艦島のアパートは台風や海水に晒されていますが、ここは主に雪による重みが劣化を促進させています。

緑ヶ丘アパート最大の魅力が、このアパート群中央部分の大きな階段でしょう。

4棟が上下に並ぶアパートの中央を連接する部分です。この部分には商店や福利厚生施設が入っていたのかは定かではありませんが、そういうのがあったのかなと思わせる場所です。
首と片足のないマネキンもここでは有名です。ちなみに、片足は別の場所に転がっていました。

一旦外に出ました。
大きな煙突が見えます。何となく、発電所跡に見えますが、ここはアパートの集中暖房(セントラルヒーティング)のためのボイラー施設だったようです。こんなにも大きなボイラーが別の建物に設置されていたとは驚きです。

まだまだ写真があるため、次回に続きます。

【岩手】松尾鉱山廃墟群 2008年5月撮影 1日目

2008年5月、高校の同期のなべ氏と供に、1泊2日の遠征撮影に行きました。目的地は岩手県八幡平市の松尾鉱山の廃墟撮影。
この撮影は、当時Yamaroが住んでいた栃木県からの移動となり、非常に遠距離のため、1泊2日としました。当時東京に住んでいたなべ氏は、わざわざ東京から駆けつけてきました。

松尾鉱山 緑丘アパート廃墟群 2008年5月

彼とは社会人になってからも何度か撮影にでかけています。今ではお互い結婚し、氏は地元に戻っているので、一緒に撮影する機会はなくなりました。

さて、この当時の写真はHPに掲載していますが、掲載から十数年経過し、当時のHP環境と現代では、大きく変化しました。スマホの普及、PCもフルHDを超える表示環境が増えてきました。画像の表示方法も、まだ掲載枚数の少ない時代とは違い、載せる側も見る側も、多くの画像表示がシームレスに可能となりました。

ということで、当時の写真を改めて再RAW現像し、解像度もフルHDまで上げて掲載させていただきます。
写真は何も最新のものである必要はなく、その時代時代を映すものですから、今2008年の写真を載せることには、意義があるものと思っています。2008年変わらぬ風景はないからです。
特に廃墟の場合は、劣化が進み、倒壊あるいは解体されてしまうこともあります。この撮影後の4年後には、旧松尾鉱山中学校(後に生活学園)は解体され、現存しません。

左に見えるのが、現存しない旧松尾鉱山中学校の校舎体育館

その当時の状況をアーカイブし、今に伝えられるのは、情報が流れてしまうSNSよりも、HPやブログに軍配が上がると思っています。
ということで、何度か再掲していますが、改めて一気に再現像した写真をここに掲載します。

独身寮「至誠寮」とその周辺

1泊2日工程とは言え、栃木から岩手への移動距離はそれなりにあります。写真データを見ると、初日の撮影開始は午後2時半を過ぎていました。
東京から来たなべ氏を拾ってからだったので、それなりに時間はかかっていますね。

ということで、この日は独身寮「至誠寮」とその周辺を撮影しました。

松尾鉱山は、1911年(明治44年)に採掘が開始され、主に硫黄が採掘されていました。一時期は日本一の硫黄採掘量を誇った松尾鉱山も、その後海外の安い硫黄の輸入や、石油精製の副産物として硫黄が取れるようになったために需要が減り、1969年(昭和44年)に会社が倒産、その後、黄鉄鉱に絞った新会社ができるも、1972年(昭和47年)にはこれも倒産し、閉山となりました。
その後、木造住宅は取り壊され、鉄筋コンクリートのアパートのみが残されたまま、現在に至っています。
これらのアパートは、当時としては近代的な水洗トイレが完備され、集中暖房(セントラルヒーティング)も採用されていたようです。
鉄筋コンクリートのアパートは、1950年代から60年代にかけて建造されたもののようです。撮影当時の2008年でも、閉山から40年近く経過し、築年数は半世紀を経過し、周辺の山は5月でも雪が残る豪雪地帯ですから、冬の雪による重みで、建物の劣化は一段と進んでいます。

写真にあるように、一部には鉱山施設の遺構も残されていました。

木造モルタル、ブロックで構成された平屋の建物、現在はさらに倒壊が進んでいますが、この撮影当時でも、すでに屋根はほぼ崩壊、雪国の廃墟はまっ先に屋根がやられます。共同浴場らしきものが残されており、ここも独身寮だったのかは定かではないものの、「至誠寮」の向かいに現存する建物です。

「至誠寮」に向かいます。
流石に鉄筋コンクリートとは言え、半世紀も経過すると大幅に劣化が進み、一部雪の重みで崩壊しています。

当時近代的な鉄筋コンクリートのアパートだった独身寮、コンクリートだけど、窓や引き戸は木製で、時代を感じさせます。
1階部分の広間には、閉山後の鉱害防止工事のための地質調査をしたと思われる木製のケースが多数残されていました。
「昭和52年度松尾鉱山鉱害防止工事 新中和処理施設(貯泥ダム)調査  日鉄鉱コンサルタント(株)」と書かれていました。

この中和処理施設は、1982年(昭和57年)より稼働し、現在に至るまで、松尾鉱山より流れ出る強酸性で鉄分や砒素を多く含む坑廃水を中和しています。
Googleマップでは、北側に貯泥ダムが見えますね。

この日はこの周辺撮影で夕方を迎えたため、緑ヶ丘アパートを眺めつつ、宿泊先の八幡平市内に移動しました。

2日目に続く。

【冬の夕張】石炭の歴史村とその周辺 2008年2月撮影

北海道の夕張市と言えば、夕張メロンが有名であり、そしてかつて炭鉱の町として大いににぎわった町でした。
故高倉健主演、倍賞千恵子、桃井かおりや武田鉄矢が出演する映画「幸福の黄色いハンカチ」(1977年・山田洋次監督)では、まだ炭鉱でにぎわい活気のあった夕張の町が登場します。

しかし、石炭から石油へのシフトや低価格な海外産石炭の輸入増、炭鉱事故など様々な理由により、国内の炭鉱は次第に縮小し、夕張の炭鉱は1990年までに全て閉山しています。
これに伴い、夕張の町も人口が減って税収減により財政が苦しくなり、観光シフトのために箱モノに投資するも、バブル崩壊や観光客減などにより、2007年には市の財政が破綻するに至っています。

撮影は、その財政破綻から1年が経とうとする2008年2月、北海道に出向いての撮影です。
レンタカーでの移動でしたが、夕張は積雪量も多く、建物は管理されていないとすぐに痛む状況です。

当時、夕張市石炭博物館(通称「石炭の歴史村」)は、管理していた第三セクターが2006年に経営破綻、2007年には別の観光会社が引き継いでいます。
雪が深いため、冬期間は営業していませんが建物の老朽化と合わせて、本当に現役なの?と思わせるような雰囲気でした。

石炭の歴史村にあった「夕張ロボット大博物館」も、この撮影後の2008年8月に解体されました。中には新世紀ロボ ユーバロット( )という大きなロボットもあったようですが、建物ごと解体されています。
残念ながら、写真では雪に閉ざされて、中の様子をうかがう事はできませんでした。