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【北宇都宮駐屯地開設37周年記念行事】2010年5月16日の記録

2022年度の北宇都宮駐屯地開設49周年記念行事は、2020年、21年に続き、今回も一般公開を中止し、規模を縮小して行われたようです。

2022年は、日本国内のコロナウイルス感染が落ち着いてきたことから、少しずつ駐屯地祭や航空祭と言った自衛隊関連イベントが再開され始めているものの、規模の縮小や一般公開中止、あるいは事前抽選といった感じで、まだまだコロナ禍以前の同様にはいかないようですね。
航空祭も、有料観客席を設ける、無料では望遠レンズのサイズ制限を設けるなど、これからの開催は、以前とは状況が変わってきそうですね。

記念行事や航空祭、観艦式や観閲式は、実施する自衛隊側も、通常訓練の妨げになっているということもあり、コロナ禍を機会に、もう以前と同じようには行われないのかもしれませんね。
とは言え、やっぱりたまにはイベントに行きたいな、何て思いますね。

今回は、2010年に北宇都宮駐屯地で開催された、開設37周年記念行事の写真を再現像してみました。
今では退役してしまった、LR-1OH-6Dも、この時代はまだ現役でした。ゲスト機として、海自のSH-60Jや、この記念行事の後の10月には退役したYS-11T-A、空自のC-1やU-125、この時代まだ旧塗装だったUH-60J、栃木県警や米海軍のSH-60Fも来ていました。
当時は宇都宮に住んでいたので、近場の記念行事は、気軽に行けてよかったですね。
2023年は一般公開されると良いですね。

【福島】国民宿舎五色沼(解体済み)

今から10年前、福島県は毘沙門沼近くにあった国民宿舎「五色沼」。その昔はたくさんあった国民宿舎ですが、現在はこの手の保養施設は徐々に数を減らしつつあります。
福島県の国民宿舎五色沼は、1970年代に建造されましたが、2008年2月冬季休業中に、水道管破裂により館内が水浸しとなり、その時点で施設の老朽化が進んでいたことから、そのまま改修されることなく休業中の2008年10月に火災が発生。
その後しばらく放置されていましたが、2013年7月に解体されました。

撮影は2012年2月、解体される1年半前です。2月なので福島のこの辺りは雪深く、遠目に撮影するに留めました。当時のブログにも写真掲載していますが、改めて現像し直したものをアップします。

現在は、駐車場になっているようです。

2月なので、猪苗代湖は凍っていました。

2012年2月の猪苗代湖

東京に住むようになって10年近く、栃木に住んでいた頃のように、簡単に福島には行けなくなったけど、たまには行きたいですね。

【栃木】湯西川ダムで沈む前の風景

スナップ写真、撮っておくべきだな、と、10年以上前の写真を見るたびに噛み締めている今日このごろです。
古い写真を引っ張り出してくるときは、大抵今のネタがない時(笑

というわけで、この1枚、今はダム湖に沈んで見られない光景です。

2010年10月27日の湯西川ダム建造中の光景

2010年12月末、なぜか栃木県の湯西川にいた私。遠方に見えるのが、建造中の湯西川ダムです。
2012年3月に完成したダムで、この頃は建造開始してそれほど経っていない時期ですが、すでにダムの壁ができていますね。かなり早い工期で建造されたそうで。
さて、この場所は現在、ダム湖になっており、沈んでいます。
この写真にはGPSデータが入っていますので、どこで撮影したかが分かります。

撮影地は今はダム湖の下に

湯西川へ行く道路は、ダムが出来る前は非常に細くてクネクネ曲がった道路で、特に冬季積雪時は、運転に気を使いましたね。

今では、県道249号線が出来たので、湯西川にもアクセスしやすくなりました。
年末年始で、妻の実家に帰省した際に、子どもたちを雪遊びにつれていきたいな。ちょっと遠いですけどね。

この日は、下流の廃墟撮影をしていたようです。

というわけで、写真はとりあえずでも撮っておくものだな=、GPSデータあると便利だな~と改めて思った次第です。
上の写真にもGPSデータを付与しています。

【真珠湾攻撃から80年】2010年11月のアリゾナ記念館

日本が1941年(昭和16年)12月8日に、ハワイ州の真珠湾(パールハーバー)に攻撃を行ってから80年。
日本の運命を変えた真珠湾攻撃ですが、今から11年前の2010年11月に、新婚旅行で訪れたハワイで、真珠湾攻撃で撃沈されたペンシルベニア級戦艦2番艦のアリゾナを見てきました。

戦艦アリゾナは1916年就役で、真珠湾攻撃の時点で艦齢25年の老朽艦でした。最も被害を受けた艦艇で、沈没後も引き上げられることなく、上部構造を撤去、1962年に記念館が設置されました。

陸上には、錨が展示されており、まずはその前で記念撮影、自分が若い(笑)
海上にあるため、記念艦までは船で移動します。
沈没した船体からは、現在もオイルが流出しており、海上にポツンポツンと虹の輪が上がってきます。

館内には、戦艦アリゾナで命を落とした兵士の名前が刻まれていました。なんとも言えない気持ちになりますね。
日本人には、行きづらい場所かもしれませんが、これも歴史です。
ハワイは今観光地として、日本人も多く訪れる場所ですし、昔から日本人も多く住んでいる場所です。
観光の際は、是非足を運んでみてください

【2010年11月2日】ハワイで戦艦ミズーリを見てきた

今から11年前、新婚旅行で行ったハワイ。
自分にとっては初めてのハワイだったので、ぜひ見ておかねばと思ったのが、戦艦ミズーリ(USS Missouri BB-63)でした。
真珠湾攻撃で日本に沈められた戦艦アリゾナの上にあるアリゾナ記念館から、ミズーリを眺めた後、レンタカーにて移動。今思えばわざわざレンタカーを借りなくても良かったなと思いましたが、まあ何事も経験ですよね。

戦艦ミズーリ、思ったよりも日本人の観光客は少なく…というより見かけなかったかな? アメリカ本土など欧米の観光客がほとんどだったように思います。日本人にとっては、太平洋戦争中、特攻機が当たった場所の凹みが今でも残っていたり、降伏文書調印を行った場所でもあったりします。映画「沈黙の戦艦」や浅野忠信も出演したちょっとB級なテイストの「バトルシップ」などでもおなじみです。

ハワイに行くとどうしても浮かれ気分で買い物したりビーチに行ったりしがちですが(それはそれで楽しみですしね)、ぜひこういった戦争史跡も訪れてほしいですね。

アメリカにとっても、戦艦という艦種は、この戦艦ミズーリなど4隻のアイオワ級(ミズーリは3番艦)が最後となっています。
湾岸戦争まで活躍し、最終形態の状態で保存されているため、ハープーン対艦ミサイルや、トマホーク巡航ミサイルも搭載され、レーダー類も更新された最終形態です。

こうしたミサイルの管制用コンソール類も展示されていて、まだ現役の兵器(もちろんアップデートされているので、コンソール類は旧式になっていますが)を見られるのはなかなか興味深いし、戦艦大和級よりは少し小さいものの、最強クラスである406mm砲には圧倒されます。新旧入り乱れた装備品が魅力です。

今回、Twitterに掲載したら思いの外反響があったので、ブログに掲載してみました。

【群馬】草津シズカ山スキー場(2010年)

11年前の今日行ったシリーズ(シリーズ?)
2010年8月2日の撮影です。

昨日の小串硫黄鉱山の撮影の後、草津温泉に1泊して向かった先が、草津シズカ山スキー場跡でした。

草津シズカ山スキー場は、かつてあった白根硫黄鉱山の跡地に1990年オープンしたスキー場ですが、まさに日本のバブル景気が崩壊する直前に建造された施設。スノーボード全面滑走出来るのが、当時売りだったようです。
しかし、全国的にバブル崩壊後の不景気で、多くのスキー場が経営難に陥って閉鎖されていく中、比較的新しいこの草津シズカ山スキー場もまた、オープンから14年しか経過していない2004年の春を最後に営業を停止しました。

90年代初頭らしい色使いの建物は、窓の造形やインテリアも、バブルが崩壊したとはいえ、まだバブルの余韻が残っていた90年代を色濃く残しています。かなり金はかかっていそうな設備の数々。
天井からぶら下がっているSONYのモニタは、当時映像マニアの間では絶賛されていたプロフィールPRO、KV-27HV1Sでした。HV1にS端子を装備したマイチェンモデルでした。

しかし、この撮影から11年、最近撮影された写真を見ると、特に建物内部の劣化崩壊が激しく、内装が落ちてカビが大量発生しているなど、積雪地ならではの劣化の速さを物語っています。
2010年の撮影では、フロントもまだきれいでしたが、現在ではカビの大量発生と内装剥がれ、荒らされて、モニタにも投石の跡が残ります。時の流れは残酷です。

リフト棟に残された初代パジェロも、私が撮影したときより明らかに劣化していて、今では灯火類がなくなったり、タイヤもパンクしています。
最近の写真と、11年前のこの写真を比較してお楽しみください。

【群馬】小串硫黄鉱山(2010年)

今から11年前の今日、2010年8月1日、この歳結婚しましたが、当時は妻も病院勤務で夏休みも合わず、また自分は当時休日勤務があったので、人とずれて夏休みを取っていました。

直前に宿をとって向かったのが群馬県。
吾妻鉱山を先に見に行った後(あまり写真的に収穫はなくここでは割愛、当時の写真はこちら)、向かったのが小串硫黄鉱山でした。

小串硫黄鉱山といえば、「この先危険につき 関係者以外立入禁止」と「群馬県」の看板が並ぶあのスポットが有名ですが、その先も普通に進むことが出来ました。
車でも入れますが、道が良くないので、車高の高いオフロード車や軽トラが行き来していて、撮影の帰りには軽トラのおじさんに「乗っていくか?」と声をかけられたり。(撮影しながら帰るのでお気持ちだけ~と乗りませんでした)

谷間になっている道中、しかも山とはいえ真夏だったので、汗びっしょりになったのを覚えています。いやあの頃はそれでも撮影意欲があったので、そんな道を一生懸命歩いたものです。出来る時に出来ること、やっておいてよかったな。もう1回は行ってみたいです。

この日の天気は、雲が来たかと思ったら晴れたりと、コロコロ変わる天気。撮影時は曇ったり霧が発生したりするも、なんとか雨が降らず、運が良かったです。撮影後の、草津温泉の宿へ向かう道中で大雨になりましたので。

当時の写真を再RAW現像して、また行きたいなと思った次第。機会があれば、草津温泉とともに行きたい場所です。


小串硫黄鉱山は、群馬県吾妻郡嬬恋村にあり、大正時代から操業していた高井鉱山の硫黄資源が減少したことから、新たにこの場所で硫黄鉱脈を発見して採掘を開始、1971年(昭和46年)に閉山しています。

当時の架空索道の鉄塔が残るほか、鉱山施設の跡が残りますが、閉山から撮影当時でも40年が経過しており、遺構は思いの外少ないのですが、見晴らしの良い地形なので、登山(下山?)がてら楽しめるばしょでした。

この日、かなり歩いたのがわかります。Nikon D300にGPSアダプタを取り付けていたので、撮影地がわかります。これは後で見返す時に便利で、現状がどうなっているかの確認にも役立ちます。
当時の撮影軌跡はこんな感じです。

Googleマップで撮影軌跡を表示

小串硫黄鉱山撮影後に向かったのは、宿泊地の草津温泉。
まだ一般の夏休み前の平日だったので、中心地から少し外れた宿はとれて、お安く草津温泉を楽しむことが出来ました。

当時泊まった宿も健在でした。
GPSアダプタ、個人情報など気をつけなければならないこともありますが、旅先での撮影には便利で、手放せないですね。

2011年4月17日茨城県大洗にて

今からちょうど10年前、茨城県は大洗市に行っていました。

東日本大震災の発生から1ヶ月程度たち、物流も回復し始めて、震災以来初めて遠出しました。杜氏住んでいた栃木県の宇都宮市は、もう桜が散りっていましたが、大洗はちょうど満開でした。

大洗リゾートアウトレット(当時)は、東日本大震災による津波被害を受けて、この時閉店中。
この時代は、八ヶ岳リゾートアウトレットを運営する会社がこの場所を運営していました。
現在は色々あって運営が変わり、大洗シーサイドステーションに名前が変わっています。

大洗は、家屋の流出するほどの津波ではなかったものの、海岸部を中心に広範囲で被害を受けました。アウトレットモール周辺も、当然ながら被害を受けていました。

FNNの大洗市の津波映像

当然、周辺の樹木も津波により塩水をかぶったはずですが、まるで何事もなかったかのように咲いているのが印象的でした。

大洗タワーと桜

もうしばらく大洗は行っていません。COVID-19の影響で、まだ暫くはいけないでしょうけど、たまには海もみたいですし、あんこう鍋も食べたいし、行きたいですね。

東日本大震災から10年、あの当時を振り返る

今日は、色々テレビなんかでも特集が組まれると思います。
よく、あの震災を忘れない、なんて言いますが、思い出したくない人も多いと思います。津波の映像を繰り返し流されて、福島原発の余談を許さなかったあの状況を流されて、気が滅入った人も多いでしょう。
COVID-19ですら、繰り返しのネガティブ報道に病んでしまった方もいらっしゃいます。
当ブログでは、過激な映像は情報はないですし、東日本大震災で大きな被害は受けませんでしたが、その後の生活に影響を及ぼしたのは事実です。
何より、震災後の、ガソリンや食料の争奪戦は、何も差し迫って危機があるわけでもないのに、人々が翻弄されました。COVID-19ですら、トイレットペーパーがなくなるという異常事態に発展しました。物流は問題なかったのにです。人間って非常事態になると怖いなと思いました。それでもまだ日本だから、その程度で済んでいるのかもしれませんが。

災害で直接的な被害はなくても、間接的な被害や影響を受けている人は沢山いるのです。


現在東京に住んでまもなく9年となりますが、それ以前は栃木県宇都宮市に住んでいました。
東日本大震災発生当時、結婚1年、まだ子供もいなくて、妻も総合病院勤務の看護師で、不定期な業務をしていました。

2011年3月11日14時46分

2011年3月11日、Yamaroは栃木県内の職場にいました。
この1,2週間ほど前にも、ちょっとした地震がありましたが、この日、14時46分発生した地震も、最初は体感で震度2~3程度のものでした。

Yamaroはとりあえず職場の部屋のドアを開けて(これが後々良かった)揺れが収まるのを待機ししていました。
しかし、揺れは収まるどころが激しくなり、職場内の自動音声が「只今震度5の地震が発生…」あたりでぷつっと消えて、同時に停電。
大きな作業場だった職場は、明かり取りの窓があったので、真っ暗にはならなかったものの、その時には立っていられない揺れが発生。

ドアにしがみつきながら、部屋の壁が歪んで割れて、隣の部屋が見えたことは、今でも鮮明に覚えていて、その後はすぐ机の下に隠れました(子供の頃からの避難訓練の成果ですね)。

揺れが収まると、上司の「逃げるぞー」の掛け声で、外へのドアへ向かって走りました。ドアの横のシャッターは歪んでいました。
またこの時は見る余裕もありませんでしたが、後で室内の貴重品を取りに一旦戻ったときには、壁が崩壊して鉄筋だけ残っている状態でした。

一旦外に出て、他の職場の人も駐車場に避難、それから1時間程度、時々余震のたびに揺れる職場の建物を見ながら、ひたすら待機。
指示ががあるまで待機でしたが、3月とはいえまだ寒い時期、震えながら待機をしていました。

この日妻は、当時勤めていた総合病院の夜勤前で、まだ家にいる時間だったので、社用携帯から電話するも、当然回線はパンクしていてつながらず。

帰宅

1時間ほど経過して、社員は帰宅して自宅待機ということになり、少人数で安全確認しながら職場に貴重品を取りに行きました。
仕事では作業着なので、帰りは一旦ロッカーで着替えるのですが、ロッカーまでの階段も、少しずれているのが確認できました。それでも、ロッカーに貴重品を入れている人も多く、少人数で余震を気にしつつ、ロッカーに服と私物を取りに行き、車で帰宅。

駐車場の道路も一部陥没し、職場を見ればあちこち壁が剥がれている。
周辺の会社も、壁が崩れたりしていました。
この辺りは、元沼地だったところを埋め立てて造成した場所らしく、周辺の住宅も被害を受けたようで、地盤は重要だなと思った次第。

帰り道も渋滞し、停電で信号機も動かず、交差点では渋滞となっていましたが、建物が大きく倒壊したといったことはなく、ブロック塀は倒れているけど、思ったよりはひどくなっていないな、とその時は思いました。

家の中はきれいに片付いていた

家の中はぐちゃぐちゃになっていると思って帰宅すると、まるで何事もなかったかのようにきれいでした。テレビやCDラックなんかも倒れていませんでした。
妻は夜勤のため出勤していて留守でした。

あとで妻に聞いた話では、夜勤前の準備をしていた妻は、地震発生時は棚から食器が飛んできたのを呆然と見ていたようですが、出勤前に全て片付けてから出勤したそうです。

それからは家でジッとしていました。津波の情報が流れ、これからどうなるのだろうと。

幸い自分の住んでいた地域は、停電もなく、ライフラインは全て正常でした。
夜、ご近所を見てみると、コンビニは激混みで、駐車場も埋まっていました。この時から物資の争奪戦は始まっていました。我が家は食料備蓄が1ヶ月分程度あったので、特に何を買うこともありませんでした。近所のお店の壁が少し崩れている以外、大きな被害はなかったのは幸いでした。

ご近所のコンビニはというと、震災2日後の13日には、物資がなくなり休業していました。

震災から2日経過後、コンビニは物資がなくなり休業へ

輪番停電

国内の発電所があちこちで停止し、再開に時間がかるということで、しばらくの間、地域ごとに1日2,3時間程度の計画停電、いわゆる輪番停電もありましたね。

幸い、我が家はUPS(無停電電源装置)により、光回線と無線LANは使えましたので、ノートPCにラジオで過ごしました。
余震があってロウソクはやや危険かと思いましたが、結婚式の余り物(笑)のロウソクも、倒れにくいタイプだったので、このときは役に立ちました。
電気のありがたさを身にしみて感じましたね。

ガソリン争奪戦

ガソリンスタンドは2,3週間こんな状況でした

宇都宮市は地方都市ですから、車社会です。それはわかるのですが、市内は車がないと絶対に生活できない、というわけでもなく、それでも、日常と同じことをしようとすると、この有様です。
もちろん、仕事で使う人もいるでしょうし、闇雲に批判するつもりはないのですが、本当にいま必要ですか?という人も多かったのではと思います。
私はと言うと、当時乗っていてアコードユーロRのガソリンは半分以上残っていて、しばらく通勤もできなかったので、車に乗るのは最小限に留めて、自転車生活をしていました。

宇都宮市では、ガソリンスタンドに大行れるという状況は2,3週間以上続きました。緊急車両優先などお構いなし。この時、人は異常事態になると本性を表すのだなと思いました。

栃木県内の被害状況

ご近所と、ちょっと車で回った場所の被害状況はこんな感じでした。

壁が剥がれたり、ショーウインドウのガラスが割れたり。それでも、津波被害に原発被害を受けた福島県や宮城県と比較すると、震度6強の震災に見舞われつつも、大規模な死傷はなかったのが幸いでした。
1995年の阪神淡路大震災の教訓から、建物の耐震性能は強化されて、古い建物を除いて倒壊は最小限だったのも幸いでした。
ただ、瓦屋根の家は多くが瓦が落ちて、ブルーシート不足となったのも記憶に新しいです。

1ヶ月後、震災後初めて遠出した大洗

震災から1ヶ月、あれ以来職場は使えなかったので、4月から埼玉の事業所に長期出張に。栃木県と埼玉県を行き来する生活が始まっていました。

ガソリンスタンド渋滞も収まったので、少し遠出してみました。この当時よく言っていた茨城県大洗に行ってみました。
大洗も津波被害を受けましたが、福島や宮城の被害があまりにも甚大だったせいか、あまり注目されていませんでした。それでも、海岸線は大きな被害を受けていました。

あれから10年、栃木県内は震災の爪痕はすでに見られませんが、福島県や宮城県は、今も災害復興が進んでいるところです。
先月発生した震度6強の地震は、津波の発生はなかったものの、一部地域では被害が出たようです。

地震はいつでも発生すると思って、日頃からある程度の食料と飲料水、時期によっては暖房の燃料など、備蓄は必要ですね。
最近は発電機以外に、ポータブル蓄電池も性能の良いものが出回っています。

10年前の今日、結婚式に参列していました

ふと、10年前の今日は何していたっけな?と見てみましたら(簡単に見られるのがデジタルの利点)、高校時代の後輩の結婚式に参列していました。

このくらいボカしていたら、顔わからないよね? Mやん君

実はその1ヶ月前にYamaro自身の結婚式でして、10年前くらいは結婚式ラッシュだったなぁ、と書くと年がバレそうですが、そういう世代ですハイ。

当時のカメラはNikon D300に、この時のレンズはTamron SP AF17-50mm F/2.8 XR Di II VCでした。

この時代、DXフォーマットカメラに合うf2.8通しの標準ズームは、純正ではAF-S DX Zoom-Nikkor 17-55mm f/2.8G IF-EDしかなく、手ブレ補正付きレンズが一般になりつつあった当時、純正もVR(手ブレ補正)付きで出すのではないかと、購入は控えていました。
が、結局、DXフォーマットではこれ以降もVR搭載レンズは発売されることはなく、中上位機はフルサイズに移行してしまったため、仕方なく手ブレ補正付きのTamronにしたわけですが、AFは超音波モータではない一般的なDCモータ、フルタイムMFもできずAFも遅くはないけど速くもなく、といったところ。手ブレ補正は当時のレンズとしてはよく効いたほうだと思います。

ただTamronのこのレンズ、まさにこの撮影中にシャッターが降りない!というトラブル発生。カメラボディ側の問題ではなく、このレンズの不具合が原因で、純正レンズのAF Nikkor 35mm f/2Dに付け替えると問題ない。
ただ結婚式だったので、単焦点1本というわけに行かず、シャッターが降りない不具合が発生したときは、レンズの付け直しで解消したので、騙し騙し使っていた記憶があります。
当然、この後修理に出しましたが、大切な撮影でシャッターが降りないのは冷や汗モノです。

そんなわけで、それ以来、大三元レンズだけは、信頼性の面から絶対純正としています。純正が絶対壊れないわけではないですけどね。

結婚式ラッシュだったので、スピードライトSB-900もガンガン使っていた時代。温度過昇防止センサが働いて苦労していたなぁ。SB-900の欠点でした。というより、デジタルになって、メモリカードの容量も増えつつあった時代に、1回の撮影でフラッシュ発光も、フィルム時代とは比べ物にならないくらい増えたので、それに設計が追いついていなかったようにも思います。

ところで、写真をRAWで現像してみたら、当時のパラメータ、今見ると色々調整不足だったなぁと改めて感じたり。画質は特に問題ないですね。1200万画素でも、十分今でも鑑賞に耐えますが、やっぱりD800に買えた時の画質の向上ぶりは圧倒でした。それでもD300、良い仕事をしてくれましたね。