「AI AF Nikkor 35mm f/2D」タグアーカイブ

アサガオの芽が生えたのでタイムラプス化してみたが…

去年娘が学校で育てたアサガオ、種をとってこの春植えてみました。
何個か植えて、2つの芽が生えてきました。

この時点ではぐんぐん育っていたアサガオ

ぐんぐん成長しているな…と思い、インターバル撮影開始しました。

10分ごとのインターバル撮影をし、4K60pでタイムラプス化してみました。
が、ご覧の通り、右の目は倒れて枯れてしまい、左の芽も倒れてしまいました。
そして現在、左の芽も茎が細くなって枯れてしまいました…。

アサガオ
枯れちゃった…

水のあげ過ぎ? 風が強かったから?
がっかりですね…。

11年目の結婚記念日でした

妻よ、すまぬ。昨日は帰りが遅くて、妻が先に寝てから気付きました。
2010年5月13日から、もう11年です。これからもよろしく。

Nikon F90Xs + Carl Zeiss Planar T* 1.4/50 ZF.2

写真は、ちょうど結婚届を出した当日に撮影。写っているレンズ、Carl Zeiss T* 1.4/50 ZF.2は、妻からの結婚プレゼントでした。

【茨城】(株)K立工業

2009年に撮影した、茨城県某所の廃工場。
この当時まだGPSアダプタを持っていなかったため、撮影場所が現在となっては分かりません。

茨城県まではわかるのですが、廃墟検索地図さんのサイトにも未掲載、またこの会社の名前で検索しても、こことは関係のない現役の会社がヒットするだけでした。
Yamaroオリジナル物件と言えるかなと思うのですが、周りは畑しかない田舎道とは言え、道路沿いに面していただけに、誰も知らないというのも不思議な話。
恐らく現存していないと思われます。

事務所の日めくりカレンダーは、1997年(平成9年)5月で終わっており、この辺りで廃業、もしくは倒産したのかと思います。
カレンダーには栃木県の建築会社のものもあり、よく見ると以前住んでいた場所のすぐ近くで、しかも家を買う際に検討した会社の一つだったりしました。取引があったのでしょうね。

事務所の棚には、いくつかの物件の建設や解体に関わったと思われる、地面や書類の棚が。一方、机やリース機器は積み上げられていて、最後はどういう状況だったのか? 金庫は人為的にこじ開けられた跡がありましたが、恐らく地元のヤンキーの仕業でしょう、入っているはずもないのに。

一方工場は、ゴミの山で、恐らく廃墟になってから不法投棄された、または地権者が捨てたのか。
黒い大きな袋(酪農で見かける牧草を入れるような袋)が大量に積まれた部屋もあり、中身は謎です。とにかくごみの山でした。
割と大きな工場も、人がいなくなれば荒廃する典型ですが、どうしてこうなったか、思いを馳せてみるのも面白い。そんな感じの物件でした。

2011年日本酒にハマったきかけのお酒【刈穂酒造】刈穂 大吟醸

今からちょうど10年前の2011年2月1日、結婚式の写真のお礼にと後輩から頂いたのが、このお酒。

刈穂酒造】刈穂 大吟醸

秋田県の「刈穂 大吟醸」です。

当時秋田にいた後輩の結婚式に参列、その際に写真を撮ってフォトブックにして渡したのですが、そのお礼に頂きました。

実はその当時、私が日本酒が飲めなくなっていました。原因は、若い頃、居酒屋飲み放題の安い日本酒を呑みすぎた結果、口に含んだだけで吐き気を催すようになってしまいまして。
今思えば、質の悪い、米すら使っていない醸造アルコールの日本酒で、悪酔いしていたんですね。

このお酒も、飲めないんだけど、もったいないし、開けてみるかと試しに飲んでみたら、あれ、行けるじゃん!となりまして。

酒米に山田錦と美山錦を使った、精米歩合45%、日本酒度+4で辛口の日本酒です。
もう10年前なので味はあまり覚えていないけど、スッキリとした淡麗辛口だけど、ほんのり米の甘みもあって、日本酒=ただ辛い、というイメージを覆しました。いやびっくりしましたね。安い日本酒にありがちな、醸造アルコール臭さも皆無。

この何年後かから、新政や作(ざく)など、現代の日本酒ブームにつながるお酒が流通するようになったのかな?

日本酒がどんどん飲まれなくなってきていた次期で、やはりただ辛いだけでは駄目と気付かされました。今となっては、フルーティな日本酒、酸味上等の日本酒、辛さ追求の日本酒、木樽にこだわった日本酒、色々出てきていますね。
今後ますます、個性を追求してほしいものです。

アサガオの開花をタイムラプスで撮影してみた

娘が小学校から持ってきたアサガオ、8月に入ってやっと咲き始めました。

せっかくなので、大人の自由研究ということで、アサガオの開花をインターバル撮影し、タイムラプス化してみました。

40秒ごとに1コマ撮影、4K 24fpsの動画として書き出してみました。

わかったことは、アサガオの開花は、日の出直前の午前4時には咲き初めて、午前6時過ぎにはほぼ全開で咲くという感じでしょうか。最も環境に左右はされると思いますが(我が家はマンションのベランダで栽培)。

アサガオの開花をタイムラプスで撮影してみた

ここのところ35℃超えの日が続いたせいか、2つ目の花は咲ききらずに、午後1時ころ急に萎んでしまいました。

さて次は何をタイムラプス化しようかな?

2005年11月の栃木県足尾銅山周辺

今回は、今から15年ほど前に撮影した、栃木県は足尾銅山周辺の写真をアップします。

15年も経てば、今はもうない建物や、あっても状態が異なる建物や風景は多々あります。

この当時は、まだ本山の精錬所跡が残っていました。写真に映る建物の多くは、現存していません。

鉱山らしくシックナーが稼働中の風景、今は歴史の中の1つとして遺跡となっている場所など、当時とりとめもなく撮影してきた写真です。

2005年当時は、まだメインカメラはフィルムのNikon F90Xsを使用していました。おかげで、現在でもスキャンして十分な解像力の写真となっております。

それでは当時の足尾の雰囲気をお楽しみ下さい。
ああ、転勤して何年も足尾方面は行っていません。今度どこかで撮りに行きたいですね。

日産60型ファイアパトロール

懐かしのボンネット消防車。ボンネット消防車というと、絵本では「しょうぼうじどうしゃじぷた」が有名ですが、写真はジープではなく、日産ファイアパトロール60型です。

撮影は、2004年8月撮影、山梨県は東山梨郡(現山梨市)の牧丘町と思われます。消防団の車両だったようで、牧丘町はテープで消されているものの、うっすら見えます。

ドアのない車内を見ると、四駆らしく副変速機付きです。都市部用に二駆モデルもあったようですが、ここは山梨ですから、流石に四駆モデルですね。

「甲斐(かい)日産納」というステッカーが、山梨だなぁと感じさせますね。

ベースとなった日産パトロールは、1960~80年まで販売されていたようですが、写真の消防車仕様のファイアパトロールは、前照灯(ヘッドライト)の突き出しが大きいという特徴から、1975~80年の間の製造と思われます。

この撮影当時は、車齢24~29年ということになりますが、消防団の消防車ということで、恐らく現役当時は消防団の車庫保管、走行距離も一般乗用車より極端に短い場合が多く、写真の車両も現役を退いてなお、状態は比較的良さそうでした。
まだ現役を退いてからそう経過していなかったのでしょうね。

Googleストリートビューで、撮影場所を探してみたのですが、残念ながらそれらしい場所は特定できず、もちろんこの車両も見つけられませんでした。写真に映る送電線と橋から推測してみたのですが…。

恐らくもうないのでしょうけど、案外海外に買い取られて活躍していたりするのかもしれませんね。

山梨県河口湖畔「ホテル小曲園」の外観 2002年8月撮影

20世紀末から21世紀初頭にかけて、関東甲信越圏の廃墟サイト界隈では絶大な人気を誇った物件が、山梨県は河口湖畔にかつて存在した「ホテル小曲園」でした。

ホテル小曲園の歴史は古く、戦後7年が経過した1952年(昭和27年)に創業し、小曲園グリルといった食堂やパブなども併設していて、高度経済成長とともに増改築を繰り返したそうです。

特に有名だったのは、河口湖を見下ろせる宝石風呂でした。1994年(平成6年)に廃業後、割と短期間で傷んでいったのも、有名観光地だったのもあると思いますが、増改築を繰り返し、古い部分も相応に残っていて、元々老朽化が激しかったものと思われます。

廃業からわずか数年のうちに、有名な廃墟として名を馳せるくらいに、老朽化が進んでいたのでしょう。

Wikipediaその他の解説では、廃業理由として、

手抜き工事により増築に増築を重ね、避難を困難にした複雑な構造だったためにホテルニュージャパン火災以降厳しくなった安全基準の「適合マーク」を取得できなかったためであった。

Wikipedia「小曲園」

としていますが、適合マークってこの時代からありましたっけ? という疑問がありまして。いわゆる「既存不適格建築物」だったのではないかと想像しています。その辺りの法律に詳しい方がいらっしゃいましたら、コメントいただければと思います。

安全に対する法律がまだまだ緩かった1952年創業ですから、その後繰り返し増築するも、いざ老朽化した部分を改修しようにも、その時点での法律により困難、もしくは多額の改修費用がかかることになった思われます。なにせ、斜面に建てられたホテルですから。

個人的に、今写真を見ても、建物の構造物が全体的に華奢に見えるんですよね。

そんなこんなで小曲園ですが、ここは有名観光地で、当時でも撮影は比較的リスクが高かったので、外から眺めるに留めました。
撮影から1年後には、河口湖町の方針により解体が決定し、2004年には完全に解体されました。現在では小曲展望台として開放されています。

オマケ、小曲園の右側のホテル群。ストリートビューで確認したところ、執筆時点では下の写真の建物は、現在でも現役で何よりです。ただ、手前のENEOSは廃業して、取り壊されたようです。

ちなみに、左下に映っているアコードSIRが、当時の愛車でした。
このくらいのサイズの車が丁度いいんだよなぁ…

【追記】2004年2月解体中の小曲園

上の写真撮影から1年半後の2004年2月1日の撮影した、小曲園解体途中の写真が出てきましたので、追加掲載します。

撮影は、フィルムではなくデジタルでしたが、デジカメ黎明期のコンデジ、Nikon COOLPIX 2500での撮影、200万画素のカメラですから、今ならそのまま解像度を落とさなくても、Webに掲載できます。

黎明期故のコンパクトデジカメゆえ、画質は今見るとかなり悪いですが、解体中の雰囲気をご確認できればと思います。

山梨県甲州市「焼山集落」2002年8月撮影

過去写真のアーカイブ、2000年代初頭を中心にアップしております。

今回は、2002年8月に撮影した、山梨県は現甲州市(旧大和村)にある廃村、焼山集落をアップします。

当時、社会人になりたてのYamaroは、山梨の会社に務めており、高校の同期のなべ氏と夏休みに合流し、撮影に出かけました。その後、なべ氏とは、彼が地元に戻る2010年代後半まで、度々廃墟撮影に行ったものです。

現在は道路が整備されたと思われる焼山沢までのルートは、この当時まだ工事中の区間もあり、CF4アコードSIRに乗っていたYamaro、下回りを擦りつつ現場に向かったものです。その当時はまだカーナビも積んでいなかったかな。当然スマホどころか、ガラケーにもGPSが付いていなかったと思います。まっぷる片手に移動したものです。なので助手席にナビがいるほうが、何かと都合が良いんですよね。

最近の焼山集落の様子を検索しましたが、未だ健在のようで、降雪地域とはいえ、比較的積雪が少ないからでしょう。とは言え、2002年から比べると、今では部分的崩壊や、残留物も少しづつなくなっているようです。

それでは2002年の夏、草が生い茂りすぎてかき分けながら撮影した写真を御覧ください。

Nikon F90XsにレンズはAI AF Nikkor 35mm f/2D、状況によってSIGMA 28-70mm F2.8-4 UCを、フィルムはリバーサルでFujichrome TREBI 100Cという、価格は安いけど、あまり息の長くなかった初心者向けのリバーサルを使用しています。ちょっと色がね…。

一部崩壊しているところがあるものの、この当時はまだガラス窓や扉は健在でした。
夏の盛りの撮影は、草や虫との戦いだと、この時知りました。
建物は扉が開き、ウェルカム状態でしたので、お邪魔させていただきました。

玄関にはなぜか釜が転がっていました。囲炉裏が時代を感じさせます。
鳥かごが置いてある台所は、最近の写真を拝見する限り健在のようですが、この撮影の2002年当時とは食器や調味料などの位置が変わっていて、残留物が少なくなっていました。

また、畳はこの時まだ存在していましたが、現在では土に帰っているようです。

焼山集落の象徴でもある、三菱ミニカ、夏なのですっかり緑に覆われていました。
ミニカエコノターボは、1984年から5年間販売されていた、4ナンバーバンながらターボ、しかも軽自動車初のインタークーラー付きターボで、ボンネットにダクトがあるのが特徴でした。

この撮影時点で屋根は潰れていて、雪の重みに耐えられなかったのでしょうね。
最近の写真では閉じているボンネットも、この当時は全開でした。

それでは別の建物へ。ここは小料理屋っぽい感じでしたが、一般住宅だったのか、果たして?

大量の一升瓶やお猪口があったことから、一般住宅というよりは、住宅兼小料理屋っぽい雰囲気でした。
一升瓶は、今は日本酒か焼酎のイメージですが、この時代はまだペットボトルが普及していなかったため、お醤油などの調味料でも一升瓶が使われていました。なので、大量の瓶も、酒ではなく調味料だった可能性もあります。処分が大変だったので、ある程度溜め込まれているのは、山奥の廃墟ではよく見かけました。

「三和のかまど」は、現在の三和金属のかまどなのかな?

今見ると色々興味は尽きませんが、また見に行く機会はあるかな?

北海道苫小牧市の廃…ではなかった市営アパート 2000年11月撮影

過去写真の再編集アーカイブです。

時は2000年11月、この時代、ネット界隈では廃墟撮影がちょっとしたブームになりつつありました。元々廃墟写真は好きでしたが、自分でも撮影してみたい、と思い、まずは身近なところから、ということで、当時一時期だけ住んでいた、苫小牧市内にある、廃市営アパートを撮影しに行きました。
これが、Yamaroの廃墟撮影第一号…になるはずでした。実際には完全な廃墟ではなく、まだ住んでいる方がいて、結果的には不法侵入になってしまいました。今は時効ということで、お許し願えれば。

昨今、高度経済成長期に建てられたアパートやマンションの老朽化問題が深刻になっていますが、人口が急増し、昭和30年代から40年代にかけて多く建てられた市営アパートも、20世紀末、一部は老朽化が始まっていた時代です。

この当時、すでに苫小牧市内には、老朽化した市営アパートが多くあり、この撮影地以外にもいくつか存在していました。
今では、それらのほとんどは建て替えられています。

このとき撮影した市営アパートは、1階がかつて商店が入っていたと思われますが、固く閉ざされていました。

そしてこの撮影から数日後、夜通った際には、2階に2世帯、3階に1世帯の明かりが確認でき、現役であることが確認できましたが、3階の廊下は照明もなく、3階の住人は夜は怖いかもなぁと思った次第。

この撮影の半年後の2001年には、入り口と窓はベニア板で塞がれ、住人が完全に撤退して本当の廃墟になったことを確認しました。
また、その頃はすでに自分も苫小牧市を離れていました。(お隣の千歳市に引っ越し)

それでは、2000年撮影の写真を御覧ください。
当時は、Nikon F90XsにAI AF Nikkor 35mm f/2D、フィルムはFujifilmのNEOPAN PRESTO100で撮影。これをフィルムスキャナで取り込んでいます。

公開当時は長編方向800ピクセルの解像度でしたが、時代に合わせて1920ピクセルで再編集しています。

鉄格子の廊下の窓枠は、昭和30年代建造のアパートでよく見られるものですが、見た目には冷たく閉ざされた印象を与えます。

入り口のドアガラスは割れ、ペンキは剥がれ、鉄の扉も郵便受けも激しく錆びていて、とても現役には見えませんでしたが、廊下の明かりが点灯しているので、現役とわかりました。
そして撮影中、

カツッ、カツッ、

と足音が聞こえ、新聞配達らしき人と遭遇。お互いビビったと思います(笑

上の最後の鉄格子のわきから外を眺めた写真、当時の愛車だったホンダドマーニが写っています。そしてこの写真がヒントとなり、現在の様子がわかりました。ドマーニの後ろに、白い2枚シャッターのガレージが写っていますが、これがヒントとなりました。

2012年のストリートビューで健在のガレージ

ストリートビューで、撮影当時と同じガレージを発見。ストリートビュー自体の撮影日が古いので、現在も存在するかは不明です。

なお、アパートは取り壊され、現在は別の施設が建造されています。ストリートビューで見ても、2000年当時の建物自体が少なく、わずか十数年で、景観は変わるのだなと感慨深くなりました。

「入居停止住宅」とあるように、すでに住んでいない部屋に新たに住人が入ることはなく、このアパートは用途廃止がすでに決まっていたのでしょう。郵便受けも大半はガムテープで塞がれていました。

現在も、このような老朽化したアパートは多く存在しますが、古くても現役の物件も多いので、そのような建物への侵入は辞めましょう。