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【福島】横向温泉ロッジ 2009年4月撮影

2009年4月、福島県は横向温泉ロッジを撮影してきました。

当時は精力的に廃墟撮影を行っていて、HPにも掲載していたのですが、この横向温泉ロッジの写真は、どういう経緯か忘れてしまいましたが、Adobe Flash Playerで再生するスライドショー形式で作成していました。これをすっかり忘れていまして、先日Twitterで横向温泉ロッジの話題が出て、自分のHPを見てみたら、表示できない。IEでは表示できまして、Flashで作っていたことが発覚。当時はFlashはまだ当たり前だった時代ですし、Flash形式のHPだと、画像の保存が簡単には出来ない、というのもありまして。
周知の通り、AdobeはFlash Playerを2020年末で終了、以降はダウンロードもサポートもしないため、Flashで作られたページは、今後見ることはできなくなります。

そんなわけで、今回、再掲がてら、RAW現像も1枚1枚やり直しています。やはり、最新のRAW現像ソフトでは、主にノイズ面で改善が見られる他、暗部の持ち上げ方から中間諧調にかけては、大幅に改善している気がします。
カメラは当時D300、レンズは主にTokina AT-X 124PRO DXで、廃墟撮影はこの組み合わせで行っていました。今のカメラとレンズで撮り直したいですね。
D300は、今となっては白飛びが多いですし、当時の画像処理エンジンではコントラストが高めに出ている感じでした。これをRAW現像では、最新のピクチャーコントロールを使って再現像しました。


横向温泉ロッジは、1960年代に建造されたとされており、1984年(昭和59年)には廃業しています。撮影時点で四半世紀が経過しており、現在も現存しており、既に廃墟歴は30年を超過、建物としては半世紀を経過しています。積雪地であることから、痛みが激しいようで、撮影当時でも、ボイラー室は一部浸水して凍結、屋根も一部崩壊するなど、痛みが激しかったです。

安達太良山を望む横向温泉は、福島県で初めて湯治が始まった温泉とされていますが、周辺は猪苗代温泉など有名観光地があり、結構山奥な横向温泉は、あまり旅館やホテルはないようです。

横向温泉ロッジは、写真を見ると、温泉だけでなく、夏季は温泉プールもあったようで、今で言う総合リゾート宿泊施設的な感じだったのでしょう。ただ、同じ福島には、ハワイアンセンター、現ハワイアンズも存在しますから、山奥深い横向温泉ロッジは分が悪かったと思われます。

1960年代から70年代にかけては、日本の高度経済成長とマイカーブームにのって、全国各地に温泉リゾート施設が作られましたが、現在でも存続しているのは、先程挙げたハワイアンズなど、ごく少数に留まっています。

どちらかと言うと心霊スポットとして挙げられることの多い横向温泉ロッジですが、高度経済成長時代の生き証人として、これからも存在し続けるのでしょうか?
それでは、2009年当時の写真を御覧ください。

なお、当サイトでは廃墟散策を推奨するものではなく、また現状は撮影当時より風化が進み、状況は悪化していると思われます。

HPの古い写真は、様々なアルバム形式で掲載していて、作成当時のネット環境を考慮し、解像度抑えめの写真が多いため、時間を見つけて、WordPress版に再掲載したいと思います。


おまけ「ドライブイン土湯峠茶屋」

横向温泉ロッジの近くにあった廃ドライブイン、こちらは2013年ころに解体され現存しません。上記写真と同じ日に撮影です。

Ai AF Nikkor ED 300mm F2.8S(IF) の描写

2009年1月に撮影したフクロウの写真。

Nikon D300 + Ai AF Nikkor ED 300mm F2.8S(IF) 

当時のカメラはNikon D300、レンズは親父に借りたAi AF Nikkor ED 300mm F2.8S(IF) です。

Ai AF Nikkor ED 300mm F2.8S(IF) は、1986年10月に発売開始された、Nikonの300mm F2.8レンズ、いわゆる「サンニッパ」レンズとしては、初めてのAFレンズとなります。

1980年代は、カメラへのオートフォーカスが搭載されだした年代です。F3AFという、マニュアルフォーカスのF3に後付でAF機構を搭載したカメラもありましたが、専用レンズでのみのAFという異端カメラで、本当の意味で最初からAF一眼レフとして発売されたのは、Nikonでは1986年4月に発売開始したF-501となります。

この当時のNikonのAF機構は、Fマウントの互換性に配慮したせいか、あるいはレンズ側へのAFモータ搭載を嫌ったのか定かではありませんが、AF駆動用モータをボディ側に持たせ、レンズ自体にはボディ側のモーターの駆動を機械伝達させるAFカップリングが採用されていました。

この方式の欠点は、AF機構をボディ側モータからレンズのフォーカス機構に機械伝達させるさせるがゆえ、MFとの併用でAF時もフォーカスリングが回ってしまうというのがあり、そのため多くのAFのFマウントレンズは、MF時のフォーカスがスカスカになってしまいました。これは、MFレンズのようにねっとりとしたグリスの抵抗があると、摺動抵抗でAFでフォーカシングが難しいからです。

このため、Ai AF Nikkor ED 300mm F2.8S(IF) では、A-M切り替えリングを搭載し、A側に切り替えればAF時もフォーカスリングが動かず、M側にすれば、ボディ側のAFレバーの位置に関わらず、MFレンズのように操作ができました。恐らくは、そうしないと、レンズのフォーカシングユニットまでが遠くなってしまう大口径望遠レンズでは、機械伝達では抵抗が大きすぎるからでしょうね。

ライバルのCanonが、AF一眼レフのEOSシリーズで、FDマウントの互換性を断ち切って、最初から完全電子マウントで、レンズ側にAFモータを、絞りは電磁絞り化させたのとは対象的でした。
おかげで、NikonはFマウントの互換性と言いつつ機構を複雑化させ、100%の互換性は保てないばかりか、後に超望遠レンズはレンズ側にAFモータを持たせた、コアレスモータ内臓のAF-Iレンズ、そして超音波モータのAF-Sへと移行していきます。
今では、Fマウントレンズは多くがAF-S、またはAF-P(ステッピングモータ搭載)、一部レンズは電磁絞りのEタイプになっています。

Fマウントに固執したばかりに、最終的に100%互換性があるとは言えないレンズ群となってしまいました。

Nikon D300 + Ai AF Nikkor ED 300mm F2.8S(IF) 

初期のFマウントレンズでは、機械伝達でAFさせるレンズでは、このサンニッパと、開放f値がF4のAi AF Nikkor ED 300mm F4S(IF) (通称サンヨン)が唯一であり、当初アナウンスされていた600mmは結局発売されませんでした。
恐らく、ボディ側のAFモータで、600mmクラスの超望遠レンズのAFを駆動させることには無理があったのでしょう。

レンズ側にAFモータを持たせたAF-Iレンズが発売されたのは、6年後の1992年となってしまい、またこのAF-Iレンズに対応したボディも限られていました。
面白いことに、その4年前の1988年に発売されたNikon初の一桁機のAF搭載のフラッグシップ、F4は、このAF-Iレンズに対応していて、F4開発時点で、既に大口径望遠レンズでボディ側AFモータでフォーカシングすることは無理で、Canonと同様レンズ側にAFモータを持たせるという考えがあったのでしょう。
当初から全てのレンズ側にAFモータを載せていれば、ここまで互換性やAFスピードで悩まなくて済んだのになぁと思いますが、当時のNikonのAFの考え方と互換性の点で、そうなってしまったのでしょうね。大型の望遠レンズならともかく、コンパクトな標準レンズにAFモータを組み込むことは、当時のNikonには難しかったのでしょう。

さてAi AF Nikkor ED 300mm F2.8S(IF)ですが、Yamaroのオヤジの所有で、それを借りて撮影していました。
AFは速くはないですが、想像しているよりは遅くなかった、と言う感じです。ただし、やはり後のAF-IやAF-Sレンズと比べると、ずっと遅いのは言うまでもなく、特にランダムに動く被写体は苦手です。作例のように留まっているフクロウなら問題ないですけどね。

その点、最初からレンズにAFモータを持たせ、更に超音波モータも80年代に搭載させていたCanonは先見の明とAFの技術力、モータの小型化の技術があったと思います。スポーツフォトのカメラマンを中心に、それまでNikon優勢だったプロの世界で、Canonがごっそりシェアを奪ったのも頷けますね…。

描写はさすがサンニッパ

AFスピードがいらないのであれば、今でも十分第一線で活躍できるレンズです。
ボケ味も良いですし、シャープネス、コントラスト、デジタルで撮っても問題ありません。
じっくり風景を撮る、とまっている鳥を撮るのには、今でも十分通用するでしょう。中古流通は多くもないですが、珍しくもないと言ったところです。
望遠単焦点の入門としてもおすすめです。

 Ai AF Nikkor ED 300mm F2.8S(IF)
 発売年 1986年10月
 レンズ構成 6群8枚
 焦点距離 300mm
 最小絞り f16
 絞りバネ枚数 9枚
 最短撮影距離 3.0m
 絞りリング あり
 絞り方式 自動絞り
 最大撮影倍率 ?
 フィルターサイズ 52mm(ビルドインフィルタ)
 質量 2,700g
 全長 ?mm

【501SQの思い出】2009年3月の百里基地から

ちょうど11年と1日前の2009年3月23日に百里基地で撮影した、第501飛行隊のRF-4E/EJファントムIIです。

再現像してみました。

もう空を飛ぶ自衛隊のRF-4ファントムは見られませんが、写真に取れば思い出として残ります。

この当時は、Nikon D300にAF-S 70-200mm + TC-20EIIという構成で撮っていました。2倍テレコンだと、1200万画素のD300で、ぎりぎり使えるかなと言った感じでしたね。

最後のファントム部隊、301SQももっと撮らねば!

秩父山奥の廃山荘「鹿の湯山荘」2010年1月撮影

過去写真のアーカイブとなります。

2010年1月、埼玉県秩父市の熊倉山にある廃山荘「鹿の湯山荘」を撮影しました。

細く荒れた山道を登って途中で車を止め、少し歩くと見えてくるのがこの旅館。
アクセスも良くなく、駐車場もなく、日当たりの悪い立地ですが、現役当時は奥にスキー場もあったそうで、いわゆる山奥の鄙びた宿として、現役当時はそこそこ人気だったようです。
一部建物の崩壊が激しく、この撮影当時でも、倒壊も時間の問題と思われました。

平成初頭、つまり90年代までは営業していたようで、色々調べると、山奥の山荘らしく、猪鍋や山菜料理がでる、おばあちゃん3人が仕切っていた、という宿のようでした。

この撮影後、やはり倒壊してしまった(崩壊が激しく意図的に倒壊させた)との情報もあり、Googleマップの衛星写真を確認したところ、建物のあった場所は確認できましたが、すでに建物はなく、撤去されているように見えます。また、撮影当時残っていた山荘の看板も撤去されているようです

HP公開当時は、場所と山荘名は非公開としましたが、すでに建物は現存しないと思われることから、公開することとしました。

当時の写真を再現像するとともに、画像の解像度もアップしました。また、非公開だったモノクロフィルム撮影の写真も同時公開します。

2008年1月撮影「湯西川温泉かまくら祭」

昔撮った写真も、今のソフトでRAW現像し直すと、当時とはまた違った見方ができますね。

ということで今回は、2008年に撮影した、栃木県は湯西川温泉のかまくら祭の写真。

昔のNikonのRAW現像ソフト、Capture NX時代と違い、現行のCapture NX-Dはミドルレンジシャープや明瞭度も変更できるので、夜景のような撮影では、これらの数値を下げることで、コントラストギンギンではない柔らかい描写を表現できます。

湯西川温泉かまくら祭 2008年1月
湯西川温泉かまくら祭 2008年1月

ここは最も上流にある灯籠の展示ですが、この時間は車は入れません。が、私は早目の時間に、そうとは知らずに車で上がったので、そのまま待って撮影に挑みました。下の駐車場から機材担いで上がっていくとけっこう大変ですからね。

当時はNikon D300とBRONICA S2で撮りました。今回アップしたものはD300の写真ですが、コントラストを落として、ミドルレンジシャープ、明瞭度ともに下げてRAW現像してみました。このほうが自然な表現ができているかなと思います。

今どきのカメラよりはノイズが多めなD300でも、基本感度で三脚撮影しているので、丁寧に現像してあげれば、十分通用するかな。もちろん最新のカメラで撮ると、もっと楽なんでしょうけど。

湯西川温泉かまくら祭 2008年1月
湯西川温泉かまくら祭 2008年1月

今年は暖冬で、各地でも雪が殆どない、あるいは少ない状況です。

湯西川かまくら祭は、今年は2月1日(土)から3月1日(日)までの開催予定だそうですが、山奥の秘境で雪が多めの場所とは言え、今年は雪がこの後積もるのかな?

栃木に住んでいたころも、宇都宮市内からはちょっと遠い湯西川温泉、東京からだとさらに遠いですから、そう簡単に行けないのですが、もう一度行ってみたいですね。

2009年1月撮影「宇都野火薬庫跡」

先日、Twitterにも少し画像を載せましたが、2009年1月に撮影した、栃木県は足尾銅山関連施設、宇都野火薬庫跡の写真を掲載します。

足尾鉱毒事件で歴史的にも有名な足尾銅山ですが、発破作業のためのダイナマイトや信管の保管、火薬類の梱包作業所として1912年(明治45年)に石造りの建物、1917年(大正6年)にレンガ造りの建物が、そして1934年(昭和9年)に火薬類の梱包作業所が建造され、1954年(昭和29年)まで稼働していました。

その後長らく放置されていましたが、現在は国指定史跡となって保存対象となっています。

保存対象とは言え、10年一昔、経年で痛みも変わってくるはずです。というわけで、2009年当時の様子を、再掲載したいと思います。

どの建物も、木造の屋根は崩壊、または穴が開きつつあり、おそらく現在は更に崩壊しているでしょう。一方、石造り(大谷石?)や煉瓦の壁は、流石に頑丈で、最近の写真を検索しても健在のようですね。

万一の爆発事故に備えて、窪地に建物が立っているのが印象的でした。おかげで、丘から建物を見ることができます。

現在、定期的に見学会もあるようなので、機会があったらまた行ってみたいですね。