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【栃木】旧石裂小学校とその周辺(2007/2010/2012年)

栃木県鹿沼市に建造中の南摩ダム、そのさらに上にかつてあった石裂集落は、かつて鉱山があったことから栄えていましたが、戦後鉱山の採掘量が減少したことから、次第に人口減少していきました。
そこにあった旧石裂小学校は、人口減少とともに1964(昭和39)年に閉校し、しばらくは集会場として使われていたものの、それも1980年代に別の建物ができてからは、この旧石裂小学校は使われなくなりました。使われなくなってから四半世紀、建造からは果たして何年経過したのか?

2007年7月

初めてこの旧石裂小学校に出会ったのは2007年、南摩ダム建造予定地や旧梶又小学校を散策した後、たまたま道を上がって走っていて見つけました。

また周辺には良い感じに古びた建物や看板も残っていて、かつて集落として栄えていた面影を伺わせました。
この時点では右側の教員棟はボロボロになりながらまだ健在でした。

2010年6月

3年後の2010年。校舎は窓ガラスの損壊が進んでいるものの建物は健在。しかし教員棟は更に崩壊が進みつつありました。

また向かいのお寺の建物も崩壊が始まっていました。

校舎と元愛車のアコードユーロR

2012年8月

そして最後に撮影した2012年。枚数は少なめです。校舎は健在でしたが、規制線が張られていました。
隣りにあった教員棟は撮影していません。確かもうなかったような? 倒壊しっぱなしだったら撮っていたと思いますが、多分この時点で残っていなかった(解体された?)のでしょうね。

なお、古びた仏壇仏具のお店の看板は、2024年ストリートビューに写っていて健在のようです。

しかし、対岸にあったお寺の古い家屋は2014年時点までかなり崩壊が進んだところまでは存在しましたが、かなり飛んだ2023年時点では存在せず、この間に解体されたようです。

2024年現在も旧石裂小学校は健在です。いつかは再訪したいですね。

【栃木】南摩ダム建造に伴い廃校となった旧梶又小学校(2010年撮影)

前回のブログで紹介した2007年撮影の栃木県鹿沼市にあった旧梶又小学校と南摩ダム建造地ですが、2010年6月にも訪問し撮影しています。
前回と違うのは、当時まだデジタル一眼レフを持っていなくて、古いコンデジのCOOLPIX 5400での撮影でしたが、2010年はデジタル一眼レフのNikon D300を導入済み、加えてGPSユニットも導入して撮影地のGPSデータを写真に付与できるようになったこと、これはダムで水没する地域の水没前の姿を捉える貴重なデータになるかなと思っています。撮影当時も今も。

まずはダム本体建造予定付近から。写真にGPSデータを付与していますので、適当な手段でご確認ください。今となってはダム本体の真下になっている旧道(当時は通行できた)です。もう二度と立ち入れない場所、風景です。

このときは、まだダム本体の工事は着工していないものの、南摩川の治水工事が始まり、またダム建設に伴う迂回のための新道の建造が進んでいました。ダム予定地手前の麓には工事の騒音を測るマイクが設置され、仮設の工事事務所も設置、ダム反対派の看板はなくなり、周辺の谷の補強整備工事も進められていました。

ダム本体の前に、護岸工事?が進められていて、もうこの時点でダム建造は概ね決まってはいたのでしょうけど、ダム事業再検証も同時に進められていた時期でした。

この場所は水没予定地ですが、工事用の車両が多く通るためか、道路が綺麗に整備されていました。ダムが完成すると水没します。

更に上がって旧梶又小学校へ。
小学校の道路を挟んで向かいにある南摩川は相変わらずこの程度の水量でした。
実際のダムはこの南摩川以外に、大芦川と、更に黒川からも水を取り込むようですが、それで間に合うのかしら?

旧梶又小学校の道路を挟んだ向かいの南摩川の様子

2010年の旧梶又小学校は工事用の資材や土研式雨水曝露試験の容器が置かれていました。
そして規制線が貼られていましたが、実はこの2010年の1月に、この梶又小学校の井戸から死体が発見されるという死体遺棄事件が発生ていました。蓋をされて石が積まれた下の写真が、該当の井戸なのかな? 前年の2009年に鹿児島県で行方不明になった方が、不動産関係のトラブルで殺害され、何故か遠い栃木県の山奥のこの井戸に遺体を息されたという事件でした。

井戸の蓋に石が積まれているのはそういう意味だったのか…わかりませんけど。

前回の訪問から3年、経年による一部破損が見られ始め、雑草も伸びた状態。2007年にいた猫たちは姿を消し、火災報知器のランプも消灯していることから、電気も切られてたようです。

そして更に2年後の2012年にも訪問しています。この時転勤が決まり、東京に引っ越す間近での撮影となりました。
それはまた次回に。

【栃木】十数年ぶりに足尾鉱山遺構を巡る その3

十数年ぶりの栃木県足尾銅山遺構を巡るシリーズ、いよいよ本山精錬所のあった赤倉・愛宕下地区へ移動します。

かつては精錬所の廃墟が頂上にあったこの場所も、多くの建物が解体され、その後にはソーラーパネルが設置されました。
しかしこの精錬所を象徴する巨大な煙突は、現在も遺構として解体されずに存在しています。
この場所の管理は、主に古河機械金属から分社した関連会社である足尾製錬株式会社が行っています。

同じ場所の2007年末に撮影しています。まだ精錬所の建物が多く廃墟として残っていました。

十数年前はこれだけ建物が残っていたのです。これが廃墟好きにはたまらなかったのです。

愛宕下

かつて足尾銅山の従業員社宅が多く存在した愛宕下。2007年末にはまだ多くの鉱山社宅が廃墟として残っていました。
この地区ですでに住居しているものはほとんどなく、ある家屋では1978年(昭和53年)のカレンダーが飾られていたので、この撮影時点で30年近く廃墟として残されていたことになります。

上が2007年末の様子です。
その後、これら鉱山住宅は取り壊されて、現在では整地し植林されています。下が2024年の様子です。

2007年と2024年、この17年でも大きな変化がありますね。植林された木もだいぶ成長しています。やがてこの場所も森に戻るのでしょうね。

銅親水公園付近

一般車両はここで行き止まりとなります。この先は、かつて鉱毒で枯れた森林を再生しています。

この渓谷を見下ろした先に、精錬所の煙突が見えるのが、最高のロケーションですね。

今回の撮影で大失敗したことが。なんと、カメラの予備バッテリを忘れてきたのです。バッテリ食いのNikon Z 8、この時点で残量は13%でした。まさか、こんな初歩的な失敗をするとは…。クルマのUSB充電器はPD給電できないためか、これで充電することもできず、モバイルバッテリも持っていかなかった…これは痛いです。

次回、渾身の残量バッテリを振り絞って撮影したものが今回の撮影のラストになります。

護衛艦「ひゅうが」就役 2009年3月18日の記録

独身で仕事が平日休みだった時代、あちこち撮影に出かけていましたが、こうして護衛艦「ひゅうが」(DDH-181)の就役も見てきました。これももう15年も前なんですね。

護衛艦「ひゅうが」は、初代ヘリコプター護衛艦「はるな」の代艦として建造された、護衛艦としては初めて全通飛行甲板を備えた、いわゆる空母型船体の護衛艦です。

この日、「ひゅうが」を建造したIHIマリンユナイテッド横浜工場がよく見える、磯子の海釣り出来る場所に行きまして。視程が悪く、写真の画質はいまいちなのが残念でした。奥では試験艦「あすか」が整備中で、塗装し直してまだ艦番号が入っていない状態。この時代は12式短魚雷の試験を行っていたようです。

中では就役式典が終わり、艦艇はメーカーから海上自衛隊に引き渡され、いよいよ出港です。

これまでの戦闘艦に大型ヘリ格納庫を配したスタイルと違い、純然たる空母船型であるヘリコプター護衛艦「ひゅうが」の就役は、海上自衛隊の新たなステージとなりました。
ただ、ヘリ空母に近いスタイルながら、発展型シースパロー短SAM(ESSM)とアスロック対潜ミサイル(VLA)の運用能力を持ち、見えませんが艦底には長大なシリンドリカル・アレイ(CA)・ソナーを搭載しています。
ただこうした事実上ヘリ空母で、艦艇自身があえて対潜攻撃を行うのかはやや疑問も残ります。それもあってか、後発のヘリコプター護衛艦「いずも」型は兵装は防御用の必要最低に抑えられました。
「いずも」型は大型故に実質的に空母化され、改修によりF-35B STOVL機の運用能力を付与されつつありますが、それより全長が短い「ひゅうが」ではF-35Bを運用することは難しいため、今後の展開としてはUAVを運用することでしょうね。ちなみにV-22オスプレイは搭載実績があります。

既に就役から15年経過しました。少なくとも40年は運用されるはずで、そろそろ搭載する電子装備品の改修なんかも入るのではないかな?

さて話を戻すと、就役した「ひゅうが」は第1護衛隊群第1護衛隊のある横須賀基地に配備されたため、撮影地を横須賀に移動し、入校直後を撮影しました。

海上自衛隊横須賀基地に接岸

今はより大きな「いずも」が配備され、横須賀市民の目も慣れましたが、この日は初めて目にした周辺の反応は「自衛隊も空母を持ったのね」「大きいね」といった感じでしたね。
まさに「ひゅうが」は海上自衛隊の新たなステージとなったわけです。
あれから15年、国際情勢は何だか冷戦期に戻りつつあります。自衛隊もまさにこの10年は正念場と言っていいでしょうね。

そして横須賀の米海軍側のバースに停泊中の潜水艦群、15年前はまだ「はるしお」型潜水艦が現役でした。

この撮影直後に1番艦の「はるしお」が退役となり、2017年までに「はるしお」型潜水艦はすべて退役しています。同型艦7隻が建造されたうちの3隻が並んでいるのはなかなか珍しいですね。垂直に立ったセイル、最後の涙滴型となった艦型が今となっては懐かしいです。

以上、2009年の横浜横須賀の情景でした。

【百里基地】2009年3月16日の記録

古い写真データのうちJPG形式のファイルが0バイトになってしまう事例が発生。幸い複数のバックアップのうちの1つにデータが残っていたので復元できたけど、ちょっと怖い事象ですね。同じ画像でもJPG形式以外、RAWデータやTIFF形式、PhotoshopのPSD形式では発生せず。
JPG形式は以前から画像データの一部欠損が発生するなど、エラー訂正が他の形式より弱いのかな?

そんな事態があって古いデータを色々見ていたら、目についてしまった百里基地の写真。古いアルバムを整理していたらついつい見入ってしまう例のやつです(笑
2009年3月16日、今か15年前の百里基地の様子。当時は茨城空港建造に伴い工事が行われていて、この日は21R上がりでした。
この時代は手前の滑走路を使っていたので、とても近い! D300にAI AF-S Zoom Nikkor ED 80~200mm F2.8D(IF) + TC-14EIIでこれだけ撮れた時代。

古いRAWデータも、現代のRAW現像ソフトでよりきれいに現像できますね。何ならAIで解像度アップやノイズ除去も可能になりました。

RF-4EJ (67-6380)は501SQ最後にはフィルムをまとったスペシャルマーキングを施した機体でした。この日は偵察機ながら、戦闘機時代の兵装運用能力を活かしてAIM-9Lのキャプティブ弾を装着していました。
最初から偵察機型のRF-4Eにミサイルの運用能力はないけれど、元々戦闘機だったRF-4EJにはその運用能力が残されています。380号機は偵察機に回収された中でも量産改修型と呼ばれる機体で、偵察用吊り下げポッドとしては、LOROP(長距離斜め写真)ポッドに加えて戦術偵察(TAC)ポッド及び戦術電子偵察(TACER)の運用能力の追加に加えて、慣性航法装置レーダやー警戒装置をF-4EJ改と同様ののJ/ASN-4とJ/APR-6Aに変更した機体です。

2009年はまだ百里基地には梅組の305SQのF-15Jがいて、戦闘機型ファントムの301SQや302SQはまだいなかった時代でした。
この頃からちょくちょく百里基地に通うようになりましたね。まだまともに撮れるのが転がりばかりでした。1回の撮影も2,3百枚程度でしたね。

【栃木】五十里(いかり)の廃墟 – 2009年撮影

今から15年前の2009年1月に撮影した、栃木県日光市五十里(いかり)の廃墟。
こちらは廃墟検索地図さんにも掲載のない物件です。

五十里ダムのダム湖は凍結していました

この辺りは、西側に遡ると、平家の落ち武者が住み着いた湯西川があり、湯西川ダムが上流に存在します。この写真の撮影当時は、まだ湯西川ダムは建造中で、現在水没してしまった道路も、当時はまだ走行できましたが、非常に密が狭くて曲がりくねっていて、冬季はなかなかの難所でした。今は道路が整備されそんなことはなくなりましたが。

話を戻すと、物件は国道121号線の旧道から入ったところにありますが、現在この旧道は通行止めになっています。撮影当時は通行可能でした。

この分岐の右側を上がる

わずかに雪が残っていますね。今年の状況はどうなんだろう? 温暖化の影響か、栃木県の北部も以前よりは雪も少ないようで、スキー場も難儀しているようです。

なかなか立派な家屋です。しかし反対側は写真の通り崩壊して中が丸見えになっていました。東北や北海道ほど雪は降らないにしろ、昔はもっと降っていたのでしょうから、積雪によるダメージはそれなりにありますね。

たばこ販売店の表示、昔は藤原町大字五十里337番地だったようです

犬を飼っていたようです。昭和38年度(1963年)のプレートが最後でした。少なくとも、この建物は昭和30年代には存在したことになります。築年数は撮影当時の2009年で半世紀は経過していることになります。
たばこ販売店だったようですが、建物が大きいので、たばこ販売以外も行っていたのかもしれません。

扉には板を打ち付けてあり、ある時点から閉鎖し、それから長い年月が経過した、そんな感じに見えます。旧道化した国道を通る車は極端に減り、ここでの商売を断念したのでしょうか? ただ、旧道化したのは2004年のようで、それよりもっと前に廃屋化した印象です。

それにしても現役当時は立派で建物だったのでしょう。丸窓の意匠もなかなか雰囲気が出ています。

たばこ屋は自販機化が進み、現在ではあまり見かけなくなりました。かつてたばこの看板が出ていたお店は、今はほぼ絶滅してしまいましたね。

今やめっきり見かけなくなった「たばこ」の看板

私も栃木を離れて12年。宇都宮まで出向くことはあっても、日光方面まではなかなか行けなくなりましたし、まして湯西川方面ともなると、かなり遠くなってしまったので、現在のこの場所がどうなっているかはわかりません。が、15年前に崩壊が始まっていたのを考えると、現在は原型を留めていない可能性が高そうです。

【2008年撮影】三峰ロープウェイ旧三峰山頂駅舎

過去に撮影した写真を、新たにRAW現像し直してみました。RAW現像ソフトの進歩は日進月歩ですね。今回はLightroom Classicで実施しました。

埼玉県は三峰山の山頂までの三峰ロープウェイの歴史は古く、1939年(昭和14年)に初代のロープウェイが開通しました。
初代区間は1964年(昭和39年)にロープウェイの搬器(いわゆるゴンドラ)の変更(定員21名から71名に大型化)に伴い運行区間も若干変更されたため、駅舎も変更されました。
麓の駅舎の場所は新旧とも同じ場所でしたが、山頂駅は駅舎の場所が異なっていて、旧駅舎は新駅舎よりもやや下った場所にありました。
三峯神社まで少し遠かったのもあって、恐らくもう少し神社に近い場所に新駅舎設置の要望があったのでしょうか? 搬器(ゴンドラ)の大型化も、戦後の混乱期から落ち着いて、観光客が増えたためと聞いています。

さて旧山頂駅は新駅舎に移転した後は、長らく放置されていました。新駅舎で運行していたロープウェイは2006年に設備の老朽化と金属疲労の発見により運休となり、改修更新に多額の費用がかかることから、そのまま2007年にロープウェイ自体の廃止が決定、2007年12月より、新駅舎とともに旧駅舎も取り壊されることになりました。

皮肉なことに、旧駅舎は廃駅から40年以上放置された挙げ句、新駅舎と共に取り壊されることになったのです。山頂旧駅舎は、2009年12月から取り壊しが始まりました。
その直前の2009年11月に旧駅舎を撮影しました。

解体準備のため、長いこと放置されていたと思われる旧駅舎へのアプローチのために樹木の伐採が行われていました。

旧駅舎は40年以上放置されており、落書きや空き缶も時代を感じさせるものでした。

旧駅舎までのゴンドラは、新駅舎までの索条(ワイヤロープ)、支持鉄塔が設置された際に恐らく撤去されたのでしょう。ロープウェイらしきものは駅舎以外残っていません。
麓を望遠レンズで覗くと、大輪駅が見えました。すでにこの時点で、新経路の索条も撤去されて、まだ駅舎だけが残っている状態でした。

木造で趣のある建物、戦前の建築で、私の通っていた小学校も昭和9年建造だったため(卒業と同時に取り壊されて鉄筋校舎になりました)、ペンキの色合いや窓枠など、昭和初期を感じさせる駅舎は懐かしさを感じました。

すでにこの建物は取り壊しから十数年が経過しました。こうした昭和初期の建物は21世紀も20年を超えた現在、非常に少なくなっています。
自社をモチーフとしたという建物は趣があり、現存しなくなってもなお、写真として語り継げたらなと思います。

撮影はNikon D300にAF-S DX 18-70mm, AI AF 35mm f/2D, AI AF24mm f/2.8D, AF-S 80-200mm f/2.8Dです。
RAW撮影していたため、現代のソフトでしっかりとした画質で再現像できました。色やAWBの転び方などは、時代を感じさせる部分もありますが、最終的な出力は問題ない品質ですね。

なお、麓の大輪駅と新山頂駅の写真はこちらにまとめています。

2008年、AF-S Zoom Nikkor 80-200mm + TC-20EIIで撮っていた百里基地

先日記事にした、AF-S NIKKOR 70-200mm f/2.8G ED VRII + TC-20EIIINikon Z 9との組合せで案外解像しているよ、という記事を書きましたが、では15年前の撮影機材ではどうだったか? ということで、2008年1月に撮影した百里基地の写真です。

この当時の組合せは、Nikon D300AI AF-S Zoom Nikkor ED 80-200mm F2.8D(IF)、そしてテレコンが今持っているIII型の1世代前の、TC-20EIIでした。
D300は1230万画素のAPS-Cフォーマットだったので、この組合せでフルサイズ換算240-600mm f/5.6というスペックになります。そう、これで案外戦闘機は問題なく撮れたのですね。
AF-S 80-200mmは、Nikonで初めて超音波モータを搭載し90年代後半に発売された80-200mm f/2.8のレンズで、手振れ補正がないのだけが残念でしたが、ボケ味や画質は非常によく、今でも良いレンズだったと思っています。超音波モータがキーキー鳴くNikonにありがちな悪癖はありましたが、外装質感も高かったですね。

そして、1230万画素という無理のない画素数、さらにAPS-Cフォーマットでレンズの美味しい部分を使えるとあって、この組合せでの画質は悪くなかったです。
ただ望遠端換算600mmだと、手振れ補正なしがキツかったのも事実で、この2年後にはAF-S NIKKOR 70-200mm f/2.8G ED VRIIに買い替えました。

2008年1月といえば、まだ百里基地に第204飛行隊のF-15Jが居た時代です。そして救難のUH-60Jもまだ洋上迷彩ではない白とオレンジの時代で懐かしいですね。
まさか後年、イーグルが姿を消してファントムランドになるとは夢にも思わなかったですが。

この当時はまだ茨城空港を建設中で、あちこちで工事が行われていました。
まだ百里基地で戦闘機を撮り始めて間もない頃で、せっかくの高機動もブレブレ(笑)、なのでまともな写真はおとなしいものしかなかったり。
あの時代に戻って撮りたいな~

極端な逆光だと、フレアやゴーストはそこそこ出ますね。とは言え抜けは悪くないです。D300の時代はまだダイナミックレンジが狭かったので、ここまで極端な明暗差だと被写体が潰れ気味です。今思うとD300は基本感度ISO200でも、暗部のノイズは多かったですね。

それでもRAWで撮っているので、今の最新のソフトで現像すると、また当時とは違った良さが出てきたりもします。
そしてAPS-Cのカメラに、70(80)-200mm f/2.8と2倍テレコンも、案外悪くない組み合わせですよ、戦闘機撮影。今は超望遠ズームもだいぶ安価に手に入る時代になりましたが、この組合せも悪くないです。
NikonからはZ 90?なるAPS-C機の噂も出ていますが、それならフルサイズより安価に戦闘機撮影を楽しめます。
あとはNikonから早くZ 200-600mmを出してほしいですね。ロードマップに載り続けて3年以上、早く出して~

廃屋と廃スプリンター

2009年、栃木県は佐野市の葛生(くずう)付近で撮影した写真。

廃屋と廃スプリンター

廃屋と廃車のセットが好き。
廃屋の車庫にナンバーを外された、E80系のトヨタ・スプリンター。ハチロクで有名な、豆腐屋さんの漫画のAE86スプリンター・トレノは、このセダンのスプリンターの姉妹車です。
オーナーが高齢になり、ナンバーを外して廃車にしたまま月日が経った。そんな感じですね。
この古そうな家屋の1階がガレージというのも面白いですが、2階部分は住居のしては狭いので、おそらく納屋的に使っていたんでしょう。
よく見ると、写真右奥にも建物があり、こちらが住居だったと思われます。
奥の収去へのアプローチは雑草が生えていないので、この時はまだか管理されていたのでしょうけど、住居は人が住んでいる様子はありませんでした。

2009年の時点で、倒壊しそうなこの廃屋(納屋?)、もう現存していないでしょうね。この時代はまだGPSアダプタを持っていなかったので、今となっては撮影地の詳細も不明です。

3D LUTで色味を変えてみた

実は、上の写真は当時JPGでしか撮っていません。今でこそRAWでバンバン撮っていますが、まだ2009年当時は、カメラのメモリカードも4GB、カメラはNikon D300でしたが、1200万画素のカメラとは言え、RAWでガンガン撮ると、それなりに容量を食う(それでも1枚12MB程度でですが)ので、無闇矢鱈にRAWでは撮っていなかったのです。
ただ、D300の時代のJPG撮って出しの色味は、今見るといま一歩だったりします。撮って出しだと上の写真の色はこんな感じです。

撮って出しだと色温度が高すぎる

ホント、今見るとAWBがダメでした。でもこの時代のカメラってこんなものですけどね。
今回は、Photoshopのカラールックアップから、3D LUTを充ててみました。

Photoshopの3D LUTを充ててみた

これだけ雰囲気が変わります。LUTは、どちらかというと動画編集のほうで認知していたけど、静止画でも充てられます。色味のおかしいJPGの救済に役立ちますね。

Nikonと潜望鏡

Nikon(旧日本光学工業)と旧海軍、及び現在の海上自衛隊のの結びつきは非常に長く、というより国産兵器の光学系の国産化を目指して設立された会社なので、当然と言えば当然ですが、現在でも、海上自衛隊の潜水艦に搭載されている光学潜望鏡はNikon製です。

上の写真は、2008年に行った海上自衛隊呉史料館「てつのくじら館」の退役潜水艦「あきしお」に搭載されていた光学潜望鏡で、1984年製とあります。ゆうしお型潜水艦「あきしお」は1986年に竣工していますが、その2年前に調達されたようですね。
塗装の質感や、塗装が剥がれて真鍮が見えている感じが、Nikonの初代一眼レフ、Nikon Fを彷彿とさせます。

光学潜望鏡と電子潜望鏡

潜水艦の潜望鏡は、潜水艦物の映画なんかでよく見かけますが、潜水艦内の発令所に設置されています。その上には、潜水艦特有のセイルがあり、潜望鏡は使用時にセイルの上に伸ばして、海中の潜水艦から会場の様子を見ることが出来ます。

海上自衛隊初代潜水艦「くろしお」(旧米海軍ガトー級ミンゴ)の模型 中央の2本の筒状のものが潜望鏡とその格納部分

潜望鏡は常に露出しているわけではなく、使用しない時は、潜水艦の艦内に格納します。潜水艦は海中に深く潜航するために、強靭な鋼の船体(耐圧殻)を持ちますが、潜望鏡が通る部分は船体に穴を開けているわけですから、ここから如何に水漏れさせないかが最大の課題でした。
光学式潜望鏡の場合、潜望鏡を格納しても、ある程度の光学系は長さを必要とするため、格納時は発令所より下の部分まで格納スペースを必要とします。
これが光学式潜望鏡長年のデメリットでした。内部に複雑な光学系とミラーがあるため、格納スペースを要しました。
上の写真で分かるように、潜望鏡の筒は船体の下まであるのがわかります。

しかし、スチルカメラの世界と同様に、近年は潜望鏡のデジタル化、ミラーレス化がなされています。
21世紀に入って、電子潜望鏡とよばれる、デジタルカメラや赤外線などの各種センサを搭載した潜望鏡が登場しました。これらは筒の上部にカメラやセンサが搭載されているため、従来の潜望鏡のようにミラーはなく、潜望鏡で見た画像は艦内のモニタに表示可能です。このため、耐圧殻を光学系が貫通する必要もなくなっています。デジタルなので、映像をデータに残すことも可能です。
もっとも、従来の光学潜望鏡も、カメラを取り付けてデータを残すことは可能ですが。

海上自衛隊では、1世代前のそうりゅう型から、従来の光学潜望鏡(Nikon製の13m光学潜望鏡B型改5)にプラスして、電子潜望鏡として、英タレス社製CMO10を三菱電機がライセンス生産した非貫通式潜望鏡1型を搭載しています。

そして最新の潜水艦たいげい型では、ついに光学式潜望鏡はなくなり、非貫通式潜望鏡1型改1にプラスして、三菱電機製(光学系はNikon製)の光学センサA型が採用されています。主契約は三菱電機のようですが、光学系はNikonのようですね。
国産の電子潜望鏡が英国製より良ければ、次の世代では搭載品が変わるでしょうね。