「Nikon D300」タグアーカイブ

【岩手】松尾鉱山廃墟群 2008年5月撮影 1日目

2008年5月、高校の同期のなべ氏と供に、1泊2日の遠征撮影に行きました。目的地は岩手県八幡平市の松尾鉱山の廃墟撮影。
この撮影は、当時Yamaroが住んでいた栃木県からの移動となり、非常に遠距離のため、1泊2日としました。当時東京に住んでいたなべ氏は、わざわざ東京から駆けつけてきました。

松尾鉱山 緑丘アパート廃墟群 2008年5月

彼とは社会人になってからも何度か撮影にでかけています。今ではお互い結婚し、氏は地元に戻っているので、一緒に撮影する機会はなくなりました。

さて、この当時の写真はHPに掲載していますが、掲載から十数年経過し、当時のHP環境と現代では、大きく変化しました。スマホの普及、PCもフルHDを超える表示環境が増えてきました。画像の表示方法も、まだ掲載枚数の少ない時代とは違い、載せる側も見る側も、多くの画像表示がシームレスに可能となりました。

ということで、当時の写真を改めて再RAW現像し、解像度もフルHDまで上げて掲載させていただきます。
写真は何も最新のものである必要はなく、その時代時代を映すものですから、今2008年の写真を載せることには、意義があるものと思っています。2008年変わらぬ風景はないからです。
特に廃墟の場合は、劣化が進み、倒壊あるいは解体されてしまうこともあります。この撮影後の4年後には、旧松尾鉱山中学校(後に生活学園)は解体され、現存しません。

左に見えるのが、現存しない旧松尾鉱山中学校の校舎体育館

その当時の状況をアーカイブし、今に伝えられるのは、情報が流れてしまうSNSよりも、HPやブログに軍配が上がると思っています。
ということで、何度か再掲していますが、改めて一気に再現像した写真をここに掲載します。

独身寮「至誠寮」とその周辺

1泊2日工程とは言え、栃木から岩手への移動距離はそれなりにあります。写真データを見ると、初日の撮影開始は午後2時半を過ぎていました。
東京から来たなべ氏を拾ってからだったので、それなりに時間はかかっていますね。

ということで、この日は独身寮「至誠寮」とその周辺を撮影しました。

松尾鉱山は、1911年(明治44年)に採掘が開始され、主に硫黄が採掘されていました。一時期は日本一の硫黄採掘量を誇った松尾鉱山も、その後海外の安い硫黄の輸入や、石油精製の副産物として硫黄が取れるようになったために需要が減り、1969年(昭和44年)に会社が倒産、その後、黄鉄鉱に絞った新会社ができるも、1972年(昭和47年)にはこれも倒産し、閉山となりました。
その後、木造住宅は取り壊され、鉄筋コンクリートのアパートのみが残されたまま、現在に至っています。
これらのアパートは、当時としては近代的な水洗トイレが完備され、集中暖房(セントラルヒーティング)も採用されていたようです。
鉄筋コンクリートのアパートは、1950年代から60年代にかけて建造されたもののようです。撮影当時の2008年でも、閉山から40年近く経過し、築年数は半世紀を経過し、周辺の山は5月でも雪が残る豪雪地帯ですから、冬の雪による重みで、建物の劣化は一段と進んでいます。

写真にあるように、一部には鉱山施設の遺構も残されていました。

木造モルタル、ブロックで構成された平屋の建物、現在はさらに倒壊が進んでいますが、この撮影当時でも、すでに屋根はほぼ崩壊、雪国の廃墟はまっ先に屋根がやられます。共同浴場らしきものが残されており、ここも独身寮だったのかは定かではないものの、「至誠寮」の向かいに現存する建物です。

「至誠寮」に向かいます。
流石に鉄筋コンクリートとは言え、半世紀も経過すると大幅に劣化が進み、一部雪の重みで崩壊しています。

当時近代的な鉄筋コンクリートのアパートだった独身寮、コンクリートだけど、窓や引き戸は木製で、時代を感じさせます。
1階部分の広間には、閉山後の鉱害防止工事のための地質調査をしたと思われる木製のケースが多数残されていました。
「昭和52年度松尾鉱山鉱害防止工事 新中和処理施設(貯泥ダム)調査  日鉄鉱コンサルタント(株)」と書かれていました。

この中和処理施設は、1982年(昭和57年)より稼働し、現在に至るまで、松尾鉱山より流れ出る強酸性で鉄分や砒素を多く含む坑廃水を中和しています。
Googleマップでは、北側に貯泥ダムが見えますね。

この日はこの周辺撮影で夕方を迎えたため、緑ヶ丘アパートを眺めつつ、宿泊先の八幡平市内に移動しました。

2日目に続く。

【冬の夕張】石炭の歴史村とその周辺 2008年2月撮影

北海道の夕張市と言えば、夕張メロンが有名であり、そしてかつて炭鉱の町として大いににぎわった町でした。
故高倉健主演、倍賞千恵子、桃井かおりや武田鉄矢が出演する映画「幸福の黄色いハンカチ」(1977年・山田洋次監督)では、まだ炭鉱でにぎわい活気のあった夕張の町が登場します。

しかし、石炭から石油へのシフトや低価格な海外産石炭の輸入増、炭鉱事故など様々な理由により、国内の炭鉱は次第に縮小し、夕張の炭鉱は1990年までに全て閉山しています。
これに伴い、夕張の町も人口が減って税収減により財政が苦しくなり、観光シフトのために箱モノに投資するも、バブル崩壊や観光客減などにより、2007年には市の財政が破綻するに至っています。

撮影は、その財政破綻から1年が経とうとする2008年2月、北海道に出向いての撮影です。
レンタカーでの移動でしたが、夕張は積雪量も多く、建物は管理されていないとすぐに痛む状況です。

当時、夕張市石炭博物館(通称「石炭の歴史村」)は、管理していた第三セクターが2006年に経営破綻、2007年には別の観光会社が引き継いでいます。
雪が深いため、冬期間は営業していませんが建物の老朽化と合わせて、本当に現役なの?と思わせるような雰囲気でした。

石炭の歴史村にあった「夕張ロボット大博物館」も、この撮影後の2008年8月に解体されました。中には新世紀ロボ ユーバロット( )という大きなロボットもあったようですが、建物ごと解体されています。
残念ながら、写真では雪に閉ざされて、中の様子をうかがう事はできませんでした。

北海道の観光地は、冬期間も除雪して観光客を迎えていますが、そもそも積雪量の多い夕張、札幌からも少し遠く、足を運ぶのが難しい地域でもあります。
こうした土地の事情もあり、冬季休業するために、観光客を呼べる期間は年の半分しかないのも、観光地として定着しない一員でしょうね。

2008年2月、羽田空港にて

今から14年前の羽田空港にて。
別に飛行機を撮りに行ったわけではなく、たまたま北海道に行くの搭乗待ちの時間に撮影したもの。

なのでレンズも航空機撮影用にのものは持ってきていなかったと思われ、Nikon D300AIAF Nikkor 35mm f/2DTamron SP AF 90mm F2.8 Macroの2本だったりします。

ここに写っているすべての機体は、既に現役引退しています。
まずJALの鶴マークのなかった時代が既に懐かしい。2002年から2011年まで使われていた、太陽アークの垂直尾翼です。個人的にはあまり好きではなかったですね。

MD-90は、日本エアシステムから引き継いだ機体で、日本の航空会社では最後のT字尾翼の機体です。地方発着の国内線ではよく使われていた機体ですが、今ではこのクラスの規模の期待は、B737系やA320系に置き換わっていますね。
そしてまだジャンボ機が活躍していた時代でもあります。
先日、米大統領専用機のB747-200BベースのVC-25の写真を上げましたが、B747-400Dはその近代改良型で、ハイテクジャンボと呼ばれた、航空機関士なしのパイロット2名で運行できるジャンボです。400Dの末尾のDは”Domestic”の略で、フライト時間が短く、離発着回数の多い日本国内専用モデルでした。
コロナ禍の今とあっては、こんな大型機を国内線で運用していた時代があったことが、もう懐かしく感じてしまいますね。

そのジャンボの後継機とされたB777ですら、急速に退役が進んでいて、もう国内線では中型のA350やB787どころか、小ぶりなA320やB737のほうが主力になっている感じがあります。

こうした空港の何気ない風景も、14年も経てばちょっと貴重な写真ですね。

【百里基地】2009年5月18日の記録

人間、40歳を過ぎると、10年一昔だなぁと感じますね。ほんの10年違えば、その時代の常識と今の常識は結構違うし、街の風景だって変わってきます。

13年前の百里基地、2009年はまだ茨城空港を建設中で、百里基地の機体は、今ではあまり使いませんが、この時代はウェストの滑走路をメインで使用していました。なので、今みたいに超望遠レンズがなくても、D300とAF-S 80-200mm f/2.8Dにテレコン、と言う構成で割りと問題なく撮影できました。
上がりも降りも結構目の前で見られたし、撮影スポットも今より多かったですね。
写真では工事車両も写っていますね。

この当時はまだ栃木在住で、戦闘機撮影は時々行く、と言う感じでした。なにせ、まだ百里基地へ行くための高速道路が開通していなかったので、下道で3時間以上かけていったものです。独身時代だから出来たことですね。

305SQの通称「梅組」も健在、そしてこの年、302SQのファントムが沖縄から百里へ移動してきたのです。これが嬉しかったですね。憧れのオジロファントムが目の前で見られるようになったのですから。
501SQも健在でガンガン飛んでいました。

今見ると、実に様々な部隊と機体が飛んでいた時代ですね。ファントムの退役が近くなってきた2018年辺りから、ギャラリーがものすごく増えましたが、この時代が一番写真撮影には良かった時代かもしれませんね。
まだデジタルの撮影機材は発展途上でしたが、D300も実に良い仕事をしてくれました。今見ると、やや線が太い描写とか、色味が気になりますけどね。

【北宇都宮駐屯地開設37周年記念行事】2010年5月16日の記録

2022年度の北宇都宮駐屯地開設49周年記念行事は、2020年、21年に続き、今回も一般公開を中止し、規模を縮小して行われたようです。

2022年は、日本国内のコロナウイルス感染が落ち着いてきたことから、少しずつ駐屯地祭や航空祭と言った自衛隊関連イベントが再開され始めているものの、規模の縮小や一般公開中止、あるいは事前抽選といった感じで、まだまだコロナ禍以前の同様にはいかないようですね。
航空祭も、有料観客席を設ける、無料では望遠レンズのサイズ制限を設けるなど、これからの開催は、以前とは状況が変わってきそうですね。

記念行事や航空祭、観艦式や観閲式は、実施する自衛隊側も、通常訓練の妨げになっているということもあり、コロナ禍を機会に、もう以前と同じようには行われないのかもしれませんね。
とは言え、やっぱりたまにはイベントに行きたいな、何て思いますね。

今回は、2010年に北宇都宮駐屯地で開催された、開設37周年記念行事の写真を再現像してみました。
今では退役してしまった、LR-1OH-6Dも、この時代はまだ現役でした。ゲスト機として、海自のSH-60Jや、この記念行事の後の10月には退役したYS-11T-A、空自のC-1やU-125、この時代まだ旧塗装だったUH-60J、栃木県警や米海軍のSH-60Fも来ていました。
当時は宇都宮に住んでいたので、近場の記念行事は、気軽に行けてよかったですね。
2023年は一般公開されると良いですね。

三峰山ロープウェイ 廃止後の姿 2008年4月撮影

埼玉県秩父は三峰山にある三峯神社へのアクセスとして、秩父鉄道が1939年(昭和14年)に開業した三峰山ロープウェイ。
1965年に三峯神社へのアクセスが容易となる道路が整備されたことで、ロープウェイの利用客は徐々に減少、2006年(平成18年)に金属疲労が見つかったことで休止し、同年廃止となりました。
2009年には解体されてしまったため、この写真は廃止後の姿を捉えた、今となっては貴重なものとなりました。

実は廃止直前に、実際にこのロープウェイに乗ったことがあるのですが、どうにもその頃の写真が発掘できません。何枚かは撮ったはずなので、(当時はフィルム・デジタルはサブで、ど知多にしろ今より枚数は撮れなかった時代)発掘するとして、廃線後の2008年4月の写真を掲載します。

大輪駅周辺

三峰山頂駅周辺

【福島】国民宿舎五色沼(解体済み)

今から10年前、福島県は毘沙門沼近くにあった国民宿舎「五色沼」。その昔はたくさんあった国民宿舎ですが、現在はこの手の保養施設は徐々に数を減らしつつあります。
福島県の国民宿舎五色沼は、1970年代に建造されましたが、2008年2月冬季休業中に、水道管破裂により館内が水浸しとなり、その時点で施設の老朽化が進んでいたことから、そのまま改修されることなく休業中の2008年10月に火災が発生。
その後しばらく放置されていましたが、2013年7月に解体されました。

撮影は2012年2月、解体される1年半前です。2月なので福島のこの辺りは雪深く、遠目に撮影するに留めました。当時のブログにも写真掲載していますが、改めて現像し直したものをアップします。

現在は、駐車場になっているようです。

2月なので、猪苗代湖は凍っていました。

2012年2月の猪苗代湖

東京に住むようになって10年近く、栃木に住んでいた頃のように、簡単に福島には行けなくなったけど、たまには行きたいですね。

【栃木】湯西川ダムで沈む前の風景

スナップ写真、撮っておくべきだな、と、10年以上前の写真を見るたびに噛み締めている今日このごろです。
古い写真を引っ張り出してくるときは、大抵今のネタがない時(笑

というわけで、この1枚、今はダム湖に沈んで見られない光景です。

2010年10月27日の湯西川ダム建造中の光景

2010年12月末、なぜか栃木県の湯西川にいた私。遠方に見えるのが、建造中の湯西川ダムです。
2012年3月に完成したダムで、この頃は建造開始してそれほど経っていない時期ですが、すでにダムの壁ができていますね。かなり早い工期で建造されたそうで。
さて、この場所は現在、ダム湖になっており、沈んでいます。
この写真にはGPSデータが入っていますので、どこで撮影したかが分かります。

撮影地は今はダム湖の下に

湯西川へ行く道路は、ダムが出来る前は非常に細くてクネクネ曲がった道路で、特に冬季積雪時は、運転に気を使いましたね。

今では、県道249号線が出来たので、湯西川にもアクセスしやすくなりました。
年末年始で、妻の実家に帰省した際に、子どもたちを雪遊びにつれていきたいな。ちょっと遠いですけどね。

この日は、下流の廃墟撮影をしていたようです。

というわけで、写真はとりあえずでも撮っておくものだな=、GPSデータあると便利だな~と改めて思った次第です。
上の写真にもGPSデータを付与しています。

【真珠湾攻撃から80年】2010年11月のアリゾナ記念館

日本が1941年(昭和16年)12月8日に、ハワイ州の真珠湾(パールハーバー)に攻撃を行ってから80年。
日本の運命を変えた真珠湾攻撃ですが、今から11年前の2010年11月に、新婚旅行で訪れたハワイで、真珠湾攻撃で撃沈されたペンシルベニア級戦艦2番艦のアリゾナを見てきました。

戦艦アリゾナは1916年就役で、真珠湾攻撃の時点で艦齢25年の老朽艦でした。最も被害を受けた艦艇で、沈没後も引き上げられることなく、上部構造を撤去、1962年に記念館が設置されました。

陸上には、錨が展示されており、まずはその前で記念撮影、自分が若い(笑)
海上にあるため、記念艦までは船で移動します。
沈没した船体からは、現在もオイルが流出しており、海上にポツンポツンと虹の輪が上がってきます。

館内には、戦艦アリゾナで命を落とした兵士の名前が刻まれていました。なんとも言えない気持ちになりますね。
日本人には、行きづらい場所かもしれませんが、これも歴史です。
ハワイは今観光地として、日本人も多く訪れる場所ですし、昔から日本人も多く住んでいる場所です。
観光の際は、是非足を運んでみてください

今から14年前のNikon D300のキムタク

2007年11月23日に、Nikon D300が発売になるわけですが、その直前にもらったカタログ。
たぶん今でも保管してある、ハズ。

Nikon D300のカタログ「頂点の極み」

ちょうどNikonの一眼レフのD2XやD2Xs、D200が、出してもCanonの周回遅れみたいな感じになって中、D3/D300を出して挽回を図った。

D3もすごかったけど、D300もDXフォーマットで秒8コマ連写可能、それまでのフラッグシップのD2Xsすら超えるスペックだった。
ちょうど今のNikonにも当てはまりますよね。ミラーレスのZマウント機、どれも後出しなのに周回遅れ、そこに現れたZ 9。ただZ 9のDX版は今の所発表されていませんし、噂も聞きませんが、Z 9のDX版、Z 90?があってもよいのかなと思います。

しかしD300のカタログ、キムタクを採用して、相当金をかけたんだろうな~。この当時はキムタクのCMもありましたしね。デジタルカメラが飛ぶように売れた頃です。
今考えたら、この頃がフィルムからデジタルへの大転換期だったわけで、それが一巡し、スマホが当たり前になった今、レンズ交換式のカメラは、かつてのようにニッチな市場に戻っただけなんですよね。

ところで、このカタログを貰った直後に有人の結婚式があり、たまたまNikonの中の人と同席しまして、その方曰く「社長はキムタク嫌いなんですよ」だって(笑
今となっては時効かな?