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【栃木】南摩ダム建造に伴い廃校となった旧梶又小学校(2010年撮影)

前回のブログで紹介した2007年撮影の栃木県鹿沼市にあった旧梶又小学校と南摩ダム建造地ですが、2010年6月にも訪問し撮影しています。
前回と違うのは、当時まだデジタル一眼レフを持っていなくて、古いコンデジのCOOLPIX 5400での撮影でしたが、2010年はデジタル一眼レフのNikon D300を導入済み、加えてGPSユニットも導入して撮影地のGPSデータを写真に付与できるようになったこと、これはダムで水没する地域の水没前の姿を捉える貴重なデータになるかなと思っています。撮影当時も今も。

まずはダム本体建造予定付近から。写真にGPSデータを付与していますので、適当な手段でご確認ください。今となってはダム本体の真下になっている旧道(当時は通行できた)です。もう二度と立ち入れない場所、風景です。

このときは、まだダム本体の工事は着工していないものの、南摩川の治水工事が始まり、またダム建設に伴う迂回のための新道の建造が進んでいました。ダム予定地手前の麓には工事の騒音を測るマイクが設置され、仮設の工事事務所も設置、ダム反対派の看板はなくなり、周辺の谷の補強整備工事も進められていました。

ダム本体の前に、護岸工事?が進められていて、もうこの時点でダム建造は概ね決まってはいたのでしょうけど、ダム事業再検証も同時に進められていた時期でした。

この場所は水没予定地ですが、工事用の車両が多く通るためか、道路が綺麗に整備されていました。ダムが完成すると水没します。

更に上がって旧梶又小学校へ。
小学校の道路を挟んで向かいにある南摩川は相変わらずこの程度の水量でした。
実際のダムはこの南摩川以外に、大芦川と、更に黒川からも水を取り込むようですが、それで間に合うのかしら?

旧梶又小学校の道路を挟んだ向かいの南摩川の様子

2010年の旧梶又小学校は工事用の資材や土研式雨水曝露試験の容器が置かれていました。
そして規制線が貼られていましたが、実はこの2010年の1月に、この梶又小学校の井戸から死体が発見されるという死体遺棄事件が発生ていました。蓋をされて石が積まれた下の写真が、該当の井戸なのかな? 前年の2009年に鹿児島県で行方不明になった方が、不動産関係のトラブルで殺害され、何故か遠い栃木県の山奥のこの井戸に遺体を息されたという事件でした。

井戸の蓋に石が積まれているのはそういう意味だったのか…わかりませんけど。

前回の訪問から3年、経年による一部破損が見られ始め、雑草も伸びた状態。2007年にいた猫たちは姿を消し、火災報知器のランプも消灯していることから、電気も切られてたようです。

そして更に2年後の2012年にも訪問しています。この時転勤が決まり、東京に引っ越す間近での撮影となりました。
それはまた次回に。

【栃木】五十里(いかり)の廃墟 – 2009年撮影

今から15年前の2009年1月に撮影した、栃木県日光市五十里(いかり)の廃墟。
こちらは廃墟検索地図さんにも掲載のない物件です。

五十里ダムのダム湖は凍結していました

この辺りは、西側に遡ると、平家の落ち武者が住み着いた湯西川があり、湯西川ダムが上流に存在します。この写真の撮影当時は、まだ湯西川ダムは建造中で、現在水没してしまった道路も、当時はまだ走行できましたが、非常に密が狭くて曲がりくねっていて、冬季はなかなかの難所でした。今は道路が整備されそんなことはなくなりましたが。

話を戻すと、物件は国道121号線の旧道から入ったところにありますが、現在この旧道は通行止めになっています。撮影当時は通行可能でした。

この分岐の右側を上がる

わずかに雪が残っていますね。今年の状況はどうなんだろう? 温暖化の影響か、栃木県の北部も以前よりは雪も少ないようで、スキー場も難儀しているようです。

なかなか立派な家屋です。しかし反対側は写真の通り崩壊して中が丸見えになっていました。東北や北海道ほど雪は降らないにしろ、昔はもっと降っていたのでしょうから、積雪によるダメージはそれなりにありますね。

たばこ販売店の表示、昔は藤原町大字五十里337番地だったようです

犬を飼っていたようです。昭和38年度(1963年)のプレートが最後でした。少なくとも、この建物は昭和30年代には存在したことになります。築年数は撮影当時の2009年で半世紀は経過していることになります。
たばこ販売店だったようですが、建物が大きいので、たばこ販売以外も行っていたのかもしれません。

扉には板を打ち付けてあり、ある時点から閉鎖し、それから長い年月が経過した、そんな感じに見えます。旧道化した国道を通る車は極端に減り、ここでの商売を断念したのでしょうか? ただ、旧道化したのは2004年のようで、それよりもっと前に廃屋化した印象です。

それにしても現役当時は立派で建物だったのでしょう。丸窓の意匠もなかなか雰囲気が出ています。

たばこ屋は自販機化が進み、現在ではあまり見かけなくなりました。かつてたばこの看板が出ていたお店は、今はほぼ絶滅してしまいましたね。

今やめっきり見かけなくなった「たばこ」の看板

私も栃木を離れて12年。宇都宮まで出向くことはあっても、日光方面まではなかなか行けなくなりましたし、まして湯西川方面ともなると、かなり遠くなってしまったので、現在のこの場所がどうなっているかはわかりません。が、15年前に崩壊が始まっていたのを考えると、現在は原型を留めていない可能性が高そうです。

廃屋と廃スプリンター

2009年、栃木県は佐野市の葛生(くずう)付近で撮影した写真。

廃屋と廃スプリンター

廃屋と廃車のセットが好き。
廃屋の車庫にナンバーを外された、E80系のトヨタ・スプリンター。ハチロクで有名な、豆腐屋さんの漫画のAE86スプリンター・トレノは、このセダンのスプリンターの姉妹車です。
オーナーが高齢になり、ナンバーを外して廃車にしたまま月日が経った。そんな感じですね。
この古そうな家屋の1階がガレージというのも面白いですが、2階部分は住居のしては狭いので、おそらく納屋的に使っていたんでしょう。
よく見ると、写真右奥にも建物があり、こちらが住居だったと思われます。
奥の収去へのアプローチは雑草が生えていないので、この時はまだか管理されていたのでしょうけど、住居は人が住んでいる様子はありませんでした。

2009年の時点で、倒壊しそうなこの廃屋(納屋?)、もう現存していないでしょうね。この時代はまだGPSアダプタを持っていなかったので、今となっては撮影地の詳細も不明です。

3D LUTで色味を変えてみた

実は、上の写真は当時JPGでしか撮っていません。今でこそRAWでバンバン撮っていますが、まだ2009年当時は、カメラのメモリカードも4GB、カメラはNikon D300でしたが、1200万画素のカメラとは言え、RAWでガンガン撮ると、それなりに容量を食う(それでも1枚12MB程度でですが)ので、無闇矢鱈にRAWでは撮っていなかったのです。
ただ、D300の時代のJPG撮って出しの色味は、今見るといま一歩だったりします。撮って出しだと上の写真の色はこんな感じです。

撮って出しだと色温度が高すぎる

ホント、今見るとAWBがダメでした。でもこの時代のカメラってこんなものですけどね。
今回は、Photoshopのカラールックアップから、3D LUTを充ててみました。

Photoshopの3D LUTを充ててみた

これだけ雰囲気が変わります。LUTは、どちらかというと動画編集のほうで認知していたけど、静止画でも充てられます。色味のおかしいJPGの救済に役立ちますね。

【群馬】小串硫黄鉱山(2010年)

今から11年前の今日、2010年8月1日、この歳結婚しましたが、当時は妻も病院勤務で夏休みも合わず、また自分は当時休日勤務があったので、人とずれて夏休みを取っていました。

直前に宿をとって向かったのが群馬県。
吾妻鉱山を先に見に行った後(あまり写真的に収穫はなくここでは割愛、当時の写真はこちら)、向かったのが小串硫黄鉱山でした。

小串硫黄鉱山といえば、「この先危険につき 関係者以外立入禁止」と「群馬県」の看板が並ぶあのスポットが有名ですが、その先も普通に進むことが出来ました。
車でも入れますが、道が良くないので、車高の高いオフロード車や軽トラが行き来していて、撮影の帰りには軽トラのおじさんに「乗っていくか?」と声をかけられたり。(撮影しながら帰るのでお気持ちだけ~と乗りませんでした)

谷間になっている道中、しかも山とはいえ真夏だったので、汗びっしょりになったのを覚えています。いやあの頃はそれでも撮影意欲があったので、そんな道を一生懸命歩いたものです。出来る時に出来ること、やっておいてよかったな。もう1回は行ってみたいです。

この日の天気は、雲が来たかと思ったら晴れたりと、コロコロ変わる天気。撮影時は曇ったり霧が発生したりするも、なんとか雨が降らず、運が良かったです。撮影後の、草津温泉の宿へ向かう道中で大雨になりましたので。

当時の写真を再RAW現像して、また行きたいなと思った次第。機会があれば、草津温泉とともに行きたい場所です。


小串硫黄鉱山は、群馬県吾妻郡嬬恋村にあり、大正時代から操業していた高井鉱山の硫黄資源が減少したことから、新たにこの場所で硫黄鉱脈を発見して採掘を開始、1971年(昭和46年)に閉山しています。

当時の架空索道の鉄塔が残るほか、鉱山施設の跡が残りますが、閉山から撮影当時でも40年が経過しており、遺構は思いの外少ないのですが、見晴らしの良い地形なので、登山(下山?)がてら楽しめるばしょでした。

この日、かなり歩いたのがわかります。Nikon D300にGPSアダプタを取り付けていたので、撮影地がわかります。これは後で見返す時に便利で、現状がどうなっているかの確認にも役立ちます。
当時の撮影軌跡はこんな感じです。

Googleマップで撮影軌跡を表示

小串硫黄鉱山撮影後に向かったのは、宿泊地の草津温泉。
まだ一般の夏休み前の平日だったので、中心地から少し外れた宿はとれて、お安く草津温泉を楽しむことが出来ました。

当時泊まった宿も健在でした。
GPSアダプタ、個人情報など気をつけなければならないこともありますが、旅先での撮影には便利で、手放せないですね。

【茨城】旧日本加工製紙高萩工場

2002年5月、東証一部上場企業だった、製紙会社である日本加工製紙が破産宣告を受け、倒産しました。

工場は茨城県に2箇所あり、その1つが高萩工場でした。
従業員は高萩工場だけでも400人以上いましたが、全工場事業所の社員は全員が解雇され、当時茨城県でも最悪の倒産劇とされていました。

後に高萩工場は、インドネシアの華僑系財閥、シナルマスグループの日本法人オール・ペーパー・アンド・プリンティング・プロダクツ株式会社に12億円で売却されます。
工場の機械類は海外に持ち出され、その際に空けられた穴の残る建物のみが2017年まで存在していました。

その後、工場は解体され、現在ではソーラー発電所となっています。

メガソーラーは、こうした跡地に一時期次々と建造されましたが、近年はわざわざ山を切り開いて設置するなど、環境保護の面から、その建造方法は必ずしも良いとは言えないものも多いです。個人的には、こうした市街地のど真ん中にあるのも違和感です。

撮影は、2009年10月、まだ工場が健在だったときのものです。当然、中に入ることは出来ませんし、しっかりと管理され警備員も巡回していましたから、外から見える範囲での撮影となりました。

この廃墟は、独特の退廃的な印象からか、特撮やドラマ、宇多田ヒカルのPVなどで使用されたことで、結構有名な場所でした。
現在は解体されたため見ることはかないませんが、一度は中で見てみたかったな。

写真は過去に旧ブログで掲載しましたが、当時の写真は掲載サイズも小さいため、フルHD相当に再RAW現像した上で、掲載します。

日本加工製紙のHPは、Webアーカイブに残されています

Internet Explorer5.0以上、Netscape6.0以上という表記が懐かしいです。
倒産直前の2002年3月末の社員数は、HP上では785名、1200名以上いた社員も、もう倒産2ヶ月前には2/3近く減っていたようですね。

【茨城】(株)K立工業

2009年に撮影した、茨城県某所の廃工場。
この当時まだGPSアダプタを持っていなかったため、撮影場所が現在となっては分かりません。

茨城県まではわかるのですが、廃墟検索地図さんのサイトにも未掲載、またこの会社の名前で検索しても、こことは関係のない現役の会社がヒットするだけでした。
Yamaroオリジナル物件と言えるかなと思うのですが、周りは畑しかない田舎道とは言え、道路沿いに面していただけに、誰も知らないというのも不思議な話。
恐らく現存していないと思われます。

事務所の日めくりカレンダーは、1997年(平成9年)5月で終わっており、この辺りで廃業、もしくは倒産したのかと思います。
カレンダーには栃木県の建築会社のものもあり、よく見ると以前住んでいた場所のすぐ近くで、しかも家を買う際に検討した会社の一つだったりしました。取引があったのでしょうね。

事務所の棚には、いくつかの物件の建設や解体に関わったと思われる、地面や書類の棚が。一方、机やリース機器は積み上げられていて、最後はどういう状況だったのか? 金庫は人為的にこじ開けられた跡がありましたが、恐らく地元のヤンキーの仕業でしょう、入っているはずもないのに。

一方工場は、ゴミの山で、恐らく廃墟になってから不法投棄された、または地権者が捨てたのか。
黒い大きな袋(酪農で見かける牧草を入れるような袋)が大量に積まれた部屋もあり、中身は謎です。とにかくごみの山でした。
割と大きな工場も、人がいなくなれば荒廃する典型ですが、どうしてこうなったか、思いを馳せてみるのも面白い。そんな感じの物件でした。

【岩手】国民宿舎山王閣 2009年4月撮影

アサブロにのみアップしていた、国民宿舎山王閣の写真を、再現像しました。
アサブロのコメントに、当時の写真を頂きたいとの書き込みがあり、再現像を行いました。

当時は、撮影量に対して、Web化が間に合っておらず、また当時のアサブロでは写真を多く掲載することに限界があり(現在もですが)、またHP掲載にもWordPressのようには簡単にきれいに作れるわけではなかったので、アサブロに選んで掲載する、くらいしかしていりませんでした。

撮影から10年以上経過し、その当時の写真が、今となっては貴重に、となってくる時期でもあります。写真の面白さは、撮った直後だけでなく、こうして10年20年、あるいは100年後にも違った支店で楽しめるということでしょう。半世紀前の写真なんて、今見ると全てが新鮮ですからね。

1974~78年の航空写真から、国民宿舎山王閣 国土地理院

さて、国民宿舎山王閣は、岩手県宮古市の三王岩を眺望できる高台に、1965年に開業しました。
国民宿舎ということで公営の宿泊所で、4階建てのコンクリートにプールの付いた、当時としてはモダンなリゾート宿泊施設だったかと思います。
国民宿舎は、1956年の制度化以降、1960~70年代にかけて、全国各地で開業し、廉価で整った宿泊施設を提供しましたが、70年代以降は民間の宿泊施設も多く建造されると、90年代以降は国民宿舎の老朽化と陳腐化により、閉業や民間譲渡される施設も多くなりました。

山王閣も1995年に民間に無償貸付されたものの、恐らく設備の老朽化も進み、改築に見合う営業収入を得ることが難しかったのでしょう。2001年に閉業しました。

海沿いの施設ということで、廃墟と化して8年後の撮影でしたが、その1年後の2010年には解体されたとのことです。そして、そのさらに1年後の2011年3月11日、東日本大震災により、宮古市も津波により多くの被害が出ました。

多分宮古市のホテルだったと思うが、どのホテルだったか思い出せない… ここも津波被害はあったと思われる

この撮影の前日、宿泊したのは宮古市のホテルでしたが、海沿いでしたから、震災による津波被害は恐らくあったと思われます。残念ながら、ホテルの写真はこの1枚のみで、周辺写真は撮っていません。
たろう観光ホテル…だったかも知れません。もし、この写真を見て、どのホテルかわかる方がいましたら、コメントいただけるとありがたいです。

撮影は、田老鉱山撮影後で、三王岩を見たいと思ってたまたま行ったら、山王閣があった、という偶然で撮影したものです。疲れていて、あまり気合の入っていない写真ですが、よろしければご覧いただければと思います。
なお、現在は前述の通り建物は解体され、周辺は整備されて山王園地となっています。

山王閣からはそのまま海岸の遊歩道につながっていて、浪打崎まで降りることが出来ました。

残念ながら、2019年の台風19号の影響で、この遊歩道が使えない状態となっており、現在(2020年9月時点)でも通行禁止となっているようです。実は、その復旧工事関係者より、復旧にあたり、山王閣のプールがあった平場が崩壊したため、プールがあった当時の状況を資料として使用したい、との連絡があり、今回写真の再現像に至りました。

写真って、こうして過去を示す資料でもあるんですよね。お役に立てばと思います。

【福島】湯野上観光ホテル 2009年4月撮影

同じ福島の横向温泉ロッジの後に撮影した廃墟。どういう経緯で行ったかは、今となってはあまり記憶にないのですが、この当時はドライブがてら撮影しに行くことが多かったので、たまたま廃墟レーダーに感知した(笑)物件を撮影しに行くこともありました。

今と違ってまだガラケーの時代、ガラケーでもネットは見れたけど、携帯専用サイト以外では表示も崩れてあまり使い物にならなかったので、当時はまだカーナビとまっぷる片手に、、次はどの辺りに行こうかと思案しながら行ったものです。

ここも、温泉街と言えば廃物件もあると言うだろうという、そんな感じで行ったのだと思います。

廃墟探索地図によれば、1981年(昭和56年)に開業するも、2年後には閉業し、その後放置され続けている、とされています。オーナーが夜逃げしたのか?
年代的にはバブル景気が始まって、観光ホテルも全盛だった時代ですが、温泉街からはやや外れた場所にあること、プールもありましたが、この地域だとあまり使える期間は短く、温泉街にプールは少し似つかわしくない印象です。アメリカの西海岸みたいな気候ならまだしも、福島の山奥ですしね。

また、撮影当時は、現役時に火災にあったのか、廃墟化してから放火されたのか不明としていましたが、1999年(平成11年)2007年(平成19年)に放火があったようです。

現存するようですが、火災物件は痛みも早いですし、場所柄どうしても肝試し的に使われているようですね。

この撮影はNikon D300でしたが、撮影に際しては三脚使用のため、現在の水準でもハイライト飛びはひどいものの、アンダー部分の階調は割と残っており、今回の再RAW現像に関しては、以前は黒つぶれで再現しきれていなかった部分も、だいぶ表現できています。

やはりRAW現像は、最新のもので行えば、当時うまく表現できなかった部分も何とかできることも多いですね。

そしてこの撮影に関しては、三脚を使用し、基本感度ISO200固定でフィルムと同じ用に基本に立ち返って撮影、これが大きいですね。
ダイナミックレンジが、今のカメラよりは狭かったD300ですが、基本感度で撮影することで、ダイナミックレンジを最大限発揮できます。

もちろん、今のカメラで撮影はしてみたいですけどね。

【福島】横向温泉ロッジ 2009年4月撮影

2009年4月、福島県は横向温泉ロッジを撮影してきました。

当時は精力的に廃墟撮影を行っていて、HPにも掲載していたのですが、この横向温泉ロッジの写真は、どういう経緯か忘れてしまいましたが、Adobe Flash Playerで再生するスライドショー形式で作成していました。これをすっかり忘れていまして、先日Twitterで横向温泉ロッジの話題が出て、自分のHPを見てみたら、表示できない。IEでは表示できまして、Flashで作っていたことが発覚。当時はFlashはまだ当たり前だった時代ですし、Flash形式のHPだと、画像の保存が簡単には出来ない、というのもありまして。
周知の通り、AdobeはFlash Playerを2020年末で終了、以降はダウンロードもサポートもしないため、Flashで作られたページは、今後見ることはできなくなります。

そんなわけで、今回、再掲がてら、RAW現像も1枚1枚やり直しています。やはり、最新のRAW現像ソフトでは、主にノイズ面で改善が見られる他、暗部の持ち上げ方から中間諧調にかけては、大幅に改善している気がします。
カメラは当時D300、レンズは主にTokina AT-X 124PRO DXで、廃墟撮影はこの組み合わせで行っていました。今のカメラとレンズで撮り直したいですね。
D300は、今となっては白飛びが多いですし、当時の画像処理エンジンではコントラストが高めに出ている感じでした。これをRAW現像では、最新のピクチャーコントロールを使って再現像しました。


横向温泉ロッジは、1960年代に建造されたとされており、1984年(昭和59年)には廃業しています。撮影時点で四半世紀が経過しており、現在も現存しており、既に廃墟歴は30年を超過、建物としては半世紀を経過しています。積雪地であることから、痛みが激しいようで、撮影当時でも、ボイラー室は一部浸水して凍結、屋根も一部崩壊するなど、痛みが激しかったです。

安達太良山を望む横向温泉は、福島県で初めて湯治が始まった温泉とされていますが、周辺は猪苗代温泉など有名観光地があり、結構山奥な横向温泉は、あまり旅館やホテルはないようです。

横向温泉ロッジは、写真を見ると、温泉だけでなく、夏季は温泉プールもあったようで、今で言う総合リゾート宿泊施設的な感じだったのでしょう。ただ、同じ福島には、ハワイアンセンター、現ハワイアンズも存在しますから、山奥深い横向温泉ロッジは分が悪かったと思われます。

1960年代から70年代にかけては、日本の高度経済成長とマイカーブームにのって、全国各地に温泉リゾート施設が作られましたが、現在でも存続しているのは、先程挙げたハワイアンズなど、ごく少数に留まっています。

どちらかと言うと心霊スポットとして挙げられることの多い横向温泉ロッジですが、高度経済成長時代の生き証人として、これからも存在し続けるのでしょうか?
それでは、2009年当時の写真を御覧ください。

なお、当サイトでは廃墟散策を推奨するものではなく、また現状は撮影当時より風化が進み、状況は悪化していると思われます。

HPの古い写真は、様々なアルバム形式で掲載していて、作成当時のネット環境を考慮し、解像度抑えめの写真が多いため、時間を見つけて、WordPress版に再掲載したいと思います。


おまけ「ドライブイン土湯峠茶屋」

横向温泉ロッジの近くにあった廃ドライブイン、こちらは2013年ころに解体され現存しません。上記写真と同じ日に撮影です。

2009年1月撮影「宇都野火薬庫跡」

先日、Twitterにも少し画像を載せましたが、2009年1月に撮影した、栃木県は足尾銅山関連施設、宇都野火薬庫跡の写真を掲載します。

足尾鉱毒事件で歴史的にも有名な足尾銅山ですが、発破作業のためのダイナマイトや信管の保管、火薬類の梱包作業所として1912年(明治45年)に石造りの建物、1917年(大正6年)にレンガ造りの建物が、そして1934年(昭和9年)に火薬類の梱包作業所が建造され、1954年(昭和29年)まで稼働していました。

その後長らく放置されていましたが、現在は国指定史跡となって保存対象となっています。

保存対象とは言え、10年一昔、経年で痛みも変わってくるはずです。というわけで、2009年当時の様子を、再掲載したいと思います。

どの建物も、木造の屋根は崩壊、または穴が開きつつあり、おそらく現在は更に崩壊しているでしょう。一方、石造り(大谷石?)や煉瓦の壁は、流石に頑丈で、最近の写真を検索しても健在のようですね。

万一の爆発事故に備えて、窪地に建物が立っているのが印象的でした。おかげで、丘から建物を見ることができます。

現在、定期的に見学会もあるようなので、機会があったらまた行ってみたいですね。