先日現像から上がったモノクロフィルム、取り急ぎスキャンしました。群馬県の草木ダムから。
ISO400なのでそれなりに粒状感はありますが、このコントラストの出方、好きです。
露出計の電池を互換電池に交換したNikon Photomic FTNの露出計は問題なしかな。ややアンダー目に撮った写真もちゃんと反映されている感じ。その他の写真も随時ご紹介します。
足尾銅山の遺構を巡る旅も今回にて終了。
Nikon Z 8の予備バッテリを忘れ、残量10%になったため、もうバッテリ温存のためにはスマホで撮るしかなくなりまして。
こちら方面へ移動。本山高山神社のあった場所です。ただ、そろそろ帰らなければならない時間、神社までは上がらず、最初の鳥居までにとどめておきました。こちらの写真はスマホです。
やはりちゃんと説明や当時の写真の看板や立っているのが足尾の良いところ(しつこいですが何度も書いておきます)。往年の様子と現状を重ねることが出来ますね。
ここからは最後の残量で再びNikon Z 8で撮ります。
ここは昔から変わらぬ風景。今も使われてきれいに改装されている建物もあれば、写真のように朽ちるに任せている建物も。でもこちらはまだ健在で何より。これからも残っていて欲しい。
最後に、古河機械金属足尾事業所周辺を撮影。旧貨物線の架橋と旧古河橋は健在です。
ここの風景も昔から変わらないですね。
門柱には古河機械金属と足尾製錬の看板が掲げられていますね。今でもこの2社がこの場所の管理運営を行っています。
本当はもっと色々見たい場所があったのですが、やっぱり時間がなかったな。また時間を作って撮影に行きたい。ちゃんと予備バッテリも持ってw
十数年ぶりの栃木県足尾銅山遺構を巡るシリーズ、いよいよ本山精錬所のあった赤倉・愛宕下地区へ移動します。
かつては精錬所の廃墟が頂上にあったこの場所も、多くの建物が解体され、その後にはソーラーパネルが設置されました。
しかしこの精錬所を象徴する巨大な煙突は、現在も遺構として解体されずに存在しています。
この場所の管理は、主に古河機械金属から分社した関連会社である足尾製錬株式会社が行っています。
同じ場所の2007年末に撮影しています。まだ精錬所の建物が多く廃墟として残っていました。
十数年前はこれだけ建物が残っていたのです。これが廃墟好きにはたまらなかったのです。
かつて足尾銅山の従業員社宅が多く存在した愛宕下。2007年末にはまだ多くの鉱山社宅が廃墟として残っていました。
この地区ですでに住居しているものはほとんどなく、ある家屋では1978年(昭和53年)のカレンダーが飾られていたので、この撮影時点で30年近く廃墟として残されていたことになります。
上が2007年末の様子です。
その後、これら鉱山住宅は取り壊されて、現在では整地し植林されています。下が2024年の様子です。
2007年と2024年、この17年でも大きな変化がありますね。植林された木もだいぶ成長しています。やがてこの場所も森に戻るのでしょうね。
一般車両はここで行き止まりとなります。この先は、かつて鉱毒で枯れた森林を再生しています。
この渓谷を見下ろした先に、精錬所の煙突が見えるのが、最高のロケーションですね。
今回の撮影で大失敗したことが。なんと、カメラの予備バッテリを忘れてきたのです。バッテリ食いのNikon Z 8、この時点で残量は13%でした。まさか、こんな初歩的な失敗をするとは…。クルマのUSB充電器はPD給電できないためか、これで充電することもできず、モバイルバッテリも持っていかなかった…これは痛いです。
次回、渾身の残量バッテリを振り絞って撮影したものが今回の撮影のラストになります。
こちらの続きです。
シックナーと通洞変電所の次に訪れたのは足尾駅。とても雰囲気の良い駅です。
現在は第三セクターのわたらせ渓谷鐵道の路線となっていますが、かつては国鉄の路線であり、足尾鉱山で採掘された銅の輸送を行う路線として、精錬所のある足尾本山駅までつながっていましたが、現在はこの1つ向こうの精錬所の手前の間藤駅が終点となっています。
この日は天気は良くなかったのですが、この場所に居たときだけ、少し晴れ間が出たんですよね。お陰で良い写真が撮れました。
展示されいる車両は、展示しているというよりは置かれている、といった感じですね。これは十数年前に初めて見た時からあまり変わっていないです。駅舎はきれいなんですけどね
更に移動します。わたらせ渓谷鐵道の間藤駅が現在の終着駅ですが、その先はかつて貨物専用線で、精錬所の足尾本山駅までつながる路線がありました。
その廃線となった路線の旧踏切のある場所へ移動します。
まず始めに定番のここ。
足尾の良いところは、歴史遺産の一部を保存し、かつ説明書きの看板がいたるところにある事ですね。1890年(明治23年)にできた間藤水力発電所は、ドイツのジーメンスの発電機を使用し、それまでの木炭発電に変わりポンプや巻揚機、構内電車用に電力を供給していました。
現在もの当時の配管などの遺構が残されています。
銅山精錬所のあった足尾本山駅へとつながる貨物船だった路線は、1970年(昭和45年)に廃線となりましたが、現在でもその遺構は残されています。
4月30日だったので、鯉のぼりが印象的でした。線路内は立入禁止です。現在もわたらせ渓谷鐵道の所有地なんですね。
踏切の横に橋があったのですが(以前から渡れないよう立入禁止になっていた)、なんと、ちょうど解体工事の真っ最中でした。
こうして少しずつ、遺構はなくなっていくんですね。
十数年ぶりの足尾でしたが、やはり定期的に通うべきかな、と改めて思った次第。今回、見れなかった場所も多くあり、また機会を見て再訪せねば。
続く…
東京に転勤となって今年で間もなく12年となりますが、それまでは栃木県在住だったため、よく足尾銅山関連の遺構・廃墟を撮影しに出かけていました。
しかし東京転勤となり、更に子供も生まれると、なかなかそうした撮影に足を向けにくくなりましたが、子どもたちも小学生になり、少し手離れし始めたので、十数年ぶりに足尾鉱山まで足を伸ばしてみることに。
でも、東京からなので、実際はそんなに遠くないんですよね。東北方面となると少し二の足を踏むけど、栃木までなら日帰りで撮影して帰れる距離ですね。
今回始めて群馬県側から行ったので、まず手始めは、足尾の町中で現在も稼働するシックナーとその周辺を観察。
ここは自分が初めて訪れた時からあまり変化していません。
わたらせ渓谷鐵道の路線をくぐった先に現在も1基は現役稼働、もう1基は大昔から稼働しない状態となっています。
鉱山住宅は今でも現役で使われています。
そして稼働中のシックナー、シックナーとは水分中の汚泥などをタンクのような場所に流して、沈殿分離させるためのものです。
足尾鉱山と言えば、日本の歴史の教科書に必ず出てくるであろう足尾鉱毒事件で有名ですが、過去形ではなく現在進行系で鉱毒(銅やカドミウムなど)による影響は残っているようで、水田がこの地域で存在しないのもうなづけます。
しかしながら、シックナーに流れる水は一見きれいです。もっとも上流には汚泥を堆積させるダムが今も存在ます。
上の右側の写真の先には古河機械金属(株)の事業所と通洞選鉱所跡があります。
さてシックナーのすぐ近く、古河機械金属の事業所向かいにある通洞変電所へ移動します。
通洞変電所は、鉱山施設へ送電するための変電所です。なんと1903年(明治36年)に建てられた、110年を超える現役変電所です。はい、現役です。現在も稼働しています。1枚目の写真の白い車は、まさにこの建物の管理をされている古河機械金属の方々のものです。お仕事中お邪魔しました。
「特高圧」の看板が掲げられていますが、この特高圧は7000Vを超える高圧で送電された電気を降圧する変電所です。
大きな工場などではこうした変電所が存在しますが、銅山としては閉山した足尾鉱山ですが、今でもこうして設備に電気を送るためにこの建物は使われています。
現役だけに、ブーンという低い唸り音が建物からかすかに聞こえてきます。
その先には、かつて存在した通洞動力所跡・新梨子油力発電所跡があります。現在は更地です。
ここで2005年に現役(すでに廃墟でしたが)で存在した頃の写真をば。
この跡、通洞動力所は一部崩壊してしまいました。
この写真を含む2005年11月の足尾鉱山周辺の写真はこちらのブログにありますので、よろしければお楽しみください。
再び変電所と、通洞選鉱所跡を。この風景だけは、2005年から殆ど変わっていません。
それでは移動します。
続く…
現像はとっくの昔にしていたのですが、スキャンし忘れたままだったフィルムをスキャンしました。
上のブログと同じ日にフィルムで撮った写真です。今回はフィルムはリバーサルのFujichrome PROVIA 100F(RDPIII)だったので、カメラはF100を使用。
なのにレンズはすべてMFのAI Nikkor 24mm f/2, PC-Nikkor 28mm f/3.5, AI Nikkor 50mm f/1.2Sと揃いも揃って非CPUレンズ。
そう言えば、F100では非CPUレンズはマルチパターン測光が使えないことを、撮影途中に気づきまして。ええ、中央部重点測光になることを忘れていました(汗
よって今回は露出がやや思い通りになっていなかったのと、やっぱり古いMFレンズ、絞り開放付近は結構厳しいなと。最近のデジタルカメラで撮るよりもレンズの素の性能が出てしまいますからね。そう、昔は基本絞って撮るのが当たり前でしたね。
横着せず三脚を使ってじっくり撮らなきゃなぁと反省。フィルム時代の作法を忘れつつありますね。
今回はNikon COOLSCAN V EDでRAWでスキャンしたものを、Lightroom Classicで少しだけ補正しています。なぜか純正のRAW現像ソフトであるNX Studioでは、COOLSCANのRAWデータは調整ができないんですよね、以前は多少は出来たのですが。Lightroom Classicのほうが調整可能な項目が圧倒的に多いのです。
そういえば、最近はデジタルは写りすぎるなんて話を聞きますが、確かにフィルムをスキャンして、このくらいがちょうどいいときもあるよな、と思った次第。
デジタルで撮った写真(上のブログのリンク先)とも比較してみてください。
連休恒例の撮影、去年は山梨でしたが、今年は同じ都内にすることに。ただし奥多摩ですが。
車を走らせること2時間、都内だけどちょっぴり遠い。奥多摩方面の国道411号線から更に山奥に入っていきます。道路は細く、すれ違いできない箇所が多い。
仮に雪が降ったり大雨が降ったら通行止めになるようです。
駐車場に車を停めて、500円を払って撮影開始です。
名目としては、この先にある日原鍾乳洞の臨時駐車場とのことですが、実際にはここから鍾乳洞は歩いていくには遠いです。なお、鍾乳洞の近くの駐車場は無料です。
廃校となった小学校校舎。こちらは廃校後も利用されているようで、しっかりと管理されていました。
山間の地域だけに、高低差が大きく、体育館は1階部分が道路となっている面白い構造。
この道路を歩いて先に進みます。
この日原で石灰石の採掘を行っている現役の会社、奥多摩工業のかつての寮です。
航空写真では、70年代には存在しているようですが、いつ頃建造されたかは不明です。
道路と後ろの傾斜地からの撮影のため、引いて撮影することが困難、広角レンズでの撮影となりました。
老朽化により壁などが剥がれて道路に散乱しないよう、ネットが張られていました。
背後にある傾斜地から撮影、窓から内部の様子が伺えましたが、かなり老朽化しているようです。感覚としては、廃墟歴40年近くでしょうか。
ただこの最後から2枚目の写真をクロップしてみると…
中森明菜なんて貼ってありますね。もちろんあの中森明菜さんのお部屋ではありません(当たり前
ただ、これが貼られているということは、住人はファンだったのでしょう。そうなると、1990年前後までは住んでいた可能性は高そうです。
天井からは鍾乳管から形成された白いつらら石が形成されていて、使われているコンクリートは石灰質を含んだものが使われていたのでしょうか。
いずれにしろ、廃墟歴は30年以上と思われます。
独身寮の道路を挟んだ反対側には、いかついコンクリ壁の建物が。ここはかつて映画館だったようです。
それにしても、渓谷の斜面に建てられているため、屋上部分と1階部分との高低差を大きく感じさせますね。建物の作りも複雑です。建物の壁と道路の高低差で出来た壁の細い道も、かつては人が通れるようになっていたようで、後ろから3枚目の写真の奥にはドアがありました。
従業員の福利厚生のための施設も充実していた奥多摩工業の寮、今の時代は大手企業の一部には独身寮が残っていますが、家族持ちの世帯寮というのは殆ど聞かなくなりましたね。
ただ、現代であってもこうした山間の職場だと、民間アパートを借りるのも一苦労でしょうから、寮があるのは有り難いことですね。
この世帯寮は比較的最近まで使われていたという話です。ほんの数年前まで1世帯は住居していたようですが、マンションに1世帯だけというのもなんだか寂しいですね。
BSアンテナもあり、衛星放送が始まった80年代後半以降のものであると思われ、独身寮よりは比較的最近まで使われていたことが伺われます。
とはいえ、徐々に入居者が減ってから建物に痛みが出て来ている感じでした。
3枚目の右側の建物がダンスホールだったようですが、とても大きく立派ですね。左側が映画館とのこと。
世帯寮ですが、割と傷んでいて、本当にここ最近まで人が住んでいたのか?と疑いたくなりますが…
電気メーターを見てビックリです。2022年製とあります。2032年4月まで有効となっています。ということは、電気は契約されているということか?
ただ、メーターの表示は0.5kWhとなっていて、設置してからほぼ電力は使用していないようです。やはり現在は人は住んでいないようです。
が、奥にナンバープレートの付いた、さほど古くない原付が停まっていました。管理者のものかな? 人の気配はなかったのですが。
町人とは3人ほど会いましたが、正月時期もあって、あまり人気がない感じでしたね。
古びた住宅は、きれいに管理されているように見えましたが、人気はない感じでした。
近くにあった旅館も正月時期だからか休業中の様子。
フジカラーや懐かしいオロナミンCの看板が素敵な酒屋さんも休業中。古いけどきれいなので、閉店しているようには見えず、休業中なのかな?
ということで2時間ほどの散策でしたが、このくらいがちょうどよいですね。若い頃と違って体力も落ちたので、1日廃墟散策は疲れます。こうして外観を眺めるだけで満足ですね。
過去に撮影した写真を、新たにRAW現像し直してみました。RAW現像ソフトの進歩は日進月歩ですね。今回はLightroom Classicで実施しました。
埼玉県は三峰山の山頂までの三峰ロープウェイの歴史は古く、1939年(昭和14年)に初代のロープウェイが開通しました。
初代区間は1964年(昭和39年)にロープウェイの搬器(いわゆるゴンドラ)の変更(定員21名から71名に大型化)に伴い運行区間も若干変更されたため、駅舎も変更されました。
麓の駅舎の場所は新旧とも同じ場所でしたが、山頂駅は駅舎の場所が異なっていて、旧駅舎は新駅舎よりもやや下った場所にありました。
三峯神社まで少し遠かったのもあって、恐らくもう少し神社に近い場所に新駅舎設置の要望があったのでしょうか? 搬器(ゴンドラ)の大型化も、戦後の混乱期から落ち着いて、観光客が増えたためと聞いています。
さて旧山頂駅は新駅舎に移転した後は、長らく放置されていました。新駅舎で運行していたロープウェイは2006年に設備の老朽化と金属疲労の発見により運休となり、改修更新に多額の費用がかかることから、そのまま2007年にロープウェイ自体の廃止が決定、2007年12月より、新駅舎とともに旧駅舎も取り壊されることになりました。
皮肉なことに、旧駅舎は廃駅から40年以上放置された挙げ句、新駅舎と共に取り壊されることになったのです。山頂旧駅舎は、2009年12月から取り壊しが始まりました。
その直前の2009年11月に旧駅舎を撮影しました。
解体準備のため、長いこと放置されていたと思われる旧駅舎へのアプローチのために樹木の伐採が行われていました。
旧駅舎は40年以上放置されており、落書きや空き缶も時代を感じさせるものでした。
旧駅舎までのゴンドラは、新駅舎までの索条(ワイヤロープ)、支持鉄塔が設置された際に恐らく撤去されたのでしょう。ロープウェイらしきものは駅舎以外残っていません。
麓を望遠レンズで覗くと、大輪駅が見えました。すでにこの時点で、新経路の索条も撤去されて、まだ駅舎だけが残っている状態でした。
木造で趣のある建物、戦前の建築で、私の通っていた小学校も昭和9年建造だったため(卒業と同時に取り壊されて鉄筋校舎になりました)、ペンキの色合いや窓枠など、昭和初期を感じさせる駅舎は懐かしさを感じました。
すでにこの建物は取り壊しから十数年が経過しました。こうした昭和初期の建物は21世紀も20年を超えた現在、非常に少なくなっています。
自社をモチーフとしたという建物は趣があり、現存しなくなってもなお、写真として語り継げたらなと思います。
撮影はNikon D300にAF-S DX 18-70mm, AI AF 35mm f/2D, AI AF24mm f/2.8D, AF-S 80-200mm f/2.8Dです。
RAW撮影していたため、現代のソフトでしっかりとした画質で再現像できました。色やAWBの転び方などは、時代を感じさせる部分もありますが、最終的な出力は問題ない品質ですね。
なお、麓の大輪駅と新山頂駅の写真はこちらにまとめています。
午後は駐屯地内を散策。
横浜消防のヘリは先にお帰りでした。
オスプレイはローターを前に向けた固定翼モード、更にその状態からローターと内側に畳んだモード、ローターを上に向けた回転翼モードの3形態で展示されていました。
こうしてみると、固定翼モードはローター直径は機体規模に対して大きく見えますね。逆に回転翼モードでは小さく見えるのが不思議です。ティルトローター機にとって、ちょうど良い塩梅の直径ということなんでしょうね。
木更津駐屯地と言えば、古い建物が結構多いのも魅力。
結構古い建物が残っていますね。海沿いだけあって、いい感じの錆びっぷりも観られます。
羽田空港も近いので、上空をひっきりなしに羽田へ向かう旅客機が飛んでいました。ここの雰囲気、個人的に好きです。
さて展示機エリアに戻ります。オスプレイを近くでじっくり見てきました。まだスペマはないですが、デカールを貼られていたりと、今度少しづつ独自のマーキングを入れたりするかもしれませんね
海上保安庁のボンバルディアDHC-8-300は、2010年前後にYS-11の代替として導入した機体で、長距離捜索救難を任務としています。
後部ドアから救難物資を透過するため、風よけが付いているんですね。
こういう風よけは、軍用の輸送機では空挺部隊が降下する際におなじみなのですが、海保の機体にもあるとは知らなかったです。
YS-11より少し小さめの機体で、全高が低いため、YS-11より小型に見えますが、実質的にほぼ同規模の機体とのことでした。
そして珍しいゲスト機としては、海上自衛隊の多用途機U-36Aがわざわざ山口県の岩国基地から来たことです。
普段は岩国基地にいるため、関東圏のミリタリファンにとっては珍しい機体です。
今回は隊員さんが熱心に解説してくれました。
何でも、木更津飛行所に来たのは二十数年ぶりだったので、前回フライトしてきたときの隊員は引退していて、本当に着陸できるのか?(木更津飛行場の滑走路は短いため)、また離陸できるのか検討した所、着陸は出来るが、燃料満載で離陸できないため、この後の帰投は最小限の燃料で、同じ千葉県内の海上自衛隊下総航空基地を経由して帰るとのことでした。
自らが対艦ミサイルをシミュレートする機体ですが、搭載機器の多くが老朽化し、アンテナや通信機器類は他の機体からの転用も多いとのこと。
そして2022年にはU-36Aは防衛力整備計画にて削減対象となることが閣議決定したため、今後用途廃止となるようです。
既に初号機が7月に退役し、残り3機のうちの1機である本機も、遠からず退役になるようです。
機体自体は頑丈で、特に主翼は胴体を突っ切った一体品で頑丈であることから、まだ何十年も飛ぼうと思えば飛べるそうですが、残念ですね。
個人的に、この機体は民間ビジネスジェットのゲイツ・リアジェット35ベースで、昔遊んだMSフライトシミュレーターで馴染みがある機体なのと、翼端に取り付けたミサイルシーカーシミュレータなど特徴のある機体だっただけに、ちょっと思い入れがあります。何しろ近くで見たのは、二十年以上前の千歳基地の航空祭以来ですし。
チーバくんに君津市のきみぴょん、固定翼モードで疾走するオスプレイもw
チヌークの気象レーダー、レドーム開けてるの初めて見ました。小さいなぁ…。
さて、いよいよ終盤。ゲスト機が帰投します。
ラストの百里救難のUH-60Jは、いつも通り(笑)派手に上がっていきました。
初めての木更津航空祭でしたが、登場機体が多く楽しめました。
オスプレイも、今後の飛行展示に期待したいですね。
先日、栃木の自宅を見に宇都宮市内で最近開業したLRTの路線を見てきました。残念ながら車両は遠巻きにしか見れなかったです。
日本では75年ぶりに新規に開設された路面電車ということで注目を集めていますが、Yamaroは市電の街函館が地元なので、どうしても比較してしまいます。
宇都宮駅の東口から、隣町の芳賀工業団地まで伸びている路線、函館市電が市街地を巡回するのと比較して、宇都宮のLRTは街の中心部の宇都宮駅から郊外へアクセスするための路線、というところが根本的に違う感じですね。
LRTが通ることにより、自動車の車線は2車線から1車線に減少し、この部分での渋滞は避けられない感じです。が、宇都宮市内でもLRTが走る場所は限定的で、致命的な交通渋滞とはならなそうな印象です。
この日は土曜日の昼前だったので、電車自体はあまり多く走ってないようでした。現実的には乗客は平日出勤のために、清原工業団地、芳賀工業団地方面への移動手段と見るべきでしょう。
芳賀方面はこの10年で住宅も増えたため、そこから宇都宮市街地へのアクセスは便利になったと思います。
栃木は車社会とは言え、郊外から宇都宮駅周辺へアクセスする場合や。さらに宇都宮駅から遠出する場合は、車でなくLRTが有効でしょうね。
ランチは宇都宮時代に行きつけだった所で。マスターも元気そうでした。
久しぶりに宇都宮の福田屋にも行きましたが、その近くに昔からある廃墟(とはいえ管理物件ですよ)。
ここ、栃木に済んでいた十数年前から廃墟でしたが、管理物件なので、時々選挙事務所か何かで一時的に使われたりもしていました。が、さすがに入り口も蔦に覆われたこの状態だと、しばらく使われていなそうです。
場所は良いところで、建物外観も古いながらオシャレで個人的に好き。現役時代は喫茶店とか飲食店件住宅だったのかな?
そんなこんなで、短い栃木帰省でしたが、自宅の雑草取りの件もあり、今月末か来月にはまた行くことになりそうです。