「建築物」カテゴリーアーカイブ

鎌北湖の周辺を散策した

ふと思い立って、埼玉県入間郡毛呂山町にある鎌北湖に行ってきました。初めての場所です。

目的はこれ。廃ホテル「山水荘」ですが、まずは湖畔を散策することに。
鎌北湖は、1935年(昭和10年)に完成した人口の農業用貯水池で、なかなか歴史のあるダムのようです。
数年前には、耐震化工事のため「池の水全部抜く」を実施したそうで、検索してみると、この写真からは想像もつかないくらいかなり深い貯水池のようです。
こちらのブログに、水を抜いた状態の写真があります。これを見ると、せき止め部分が台形型のフィルダムの形状のようですね。

洪水吐は独特の形状で、ゴミが流れ出にくい形状なんですかね? 流れ出た水はトンネルに吸い込まれていきます。

一見ダムに見えないのですが、柵のない道路部分はダムの頭頂で、湖の対岸はご覧のように緑に埋め尽くされていますが、均一に傾斜しているので、人口物と分かります。
鎌北湖レイクビューホステルの看板があちこちにありましたが、こちらは後で訪問するとして、もう少し湖周辺を散策します。

取水施設はおしゃれな建物ですね。

ボート乗り場にはスワン型と通常のボートが固定されていて、町のHPの写真では、ずらりとボートが並んでいますが、現在はボート故障のため営業中止しているようです。


ボートも長い事使われた形跡がないですね。毛呂山町観光協会が運営していたようですが、故障を直す予算はないのでしょうか?
鎌北湖の案内看板も文字が見えなくなっています。
以前はもう少し観光客がいたようなのに、どうしてこんなに荒廃した雰囲気になってしまったのかな?

ボート乗り場の対岸、鎌北湖の入り口付近にあったる「おたか 湖畔荘」は閉店していました。
プロパンガスも外されていて、ストリートビューを見ても、一番古い2011年の時点でプロパンガスは取付けられておらず、もっと昔に廃業したようです。
調べてみると「おたか」自体は同じ毛呂山町の別の場所で営業しているようです。ここがいつまで営業していたかの情報は、調べてもわからなかったです。

湖畔を少し歩きます。湖の管理棟らしき場所に人は不在でしたが、カレンダーは現在のものが内部にかけられていました。

福寿亭というお店は閉まっていましたが、車が置いてあるのはどうやらこの辺りがヘラブナの釣りスポットのようで、恐らくその釣り人の車でしょう。

福寿亭は閉業したようです

ここはかつては入漁券を販売していたようで、ある2010年の釣りブログに、ここで入漁券が買えるという旨書かれていましたので、その辺りまでは営業していたと思われます。
ただストリートビューで一番古い2011年の時点でも営業している様子はありません。

こちら側からも「山水荘」が見えますね。この湖、対岸がすぐ見えるのであまり深そうに見えないけど、実際はかなり深いのは水を抜いた際の写真を見るとよく分かります。

ダム堤防まで戻ります。わき道があり、ここからダム堤防下まで降りることができ、さらに先はそのまま林道につながっています。

ダム堤防脇に下まで降りられる階段があった

降りてみました。
この人工の川は、どうやら洪水吐のトンネルに吸い込まれた水がここから出ているようです。


そしてここから荒川水系の大谷木川の始まりとなるようでした。

大谷木川起点

降りた先に大谷木川に沿った林道があります。そのまま麓も街まで行けるようです。

時間があれば散策してみたいところですが、今日の目的ではないので戻ります。

ということで、ここからはやっと本題というか、本来の目的地を散策しますが、それは次回に。

【栃木】南摩ダム建造に伴い廃校となった旧梶又小学校、の跡地(2012年撮影)

の跡地、とあるように、前回の2010年の訪問の同年に、ついに旧梶又小学校は解体されました。
なので、どちらかというと、南摩ダム建造で通行できなくなる旧道の様子です。

2012年夏、転勤で栃木から東京に引っ越すことになりました。間もなく引っ越しという8月後半、もうしばらく来ることもないだろうと訪問しました。

この時点で、旧道は走行できましたが、ダム建造に向けた新道の建造も進んでいました。上の写真はダム建設地そのもの、GPSデータを付与していますので、然るべき方法でご確認いただければと思います。

真夏の南摩川は、相変わらず流量も少なかったですね。
そして、県道177号線新道のトンネルが既に完成しているのを確認したので、近づいてみました。面白いことに、新道はまだアスファルトが敷かれていない砂利道でしたが、特に通行止めにされてはおらず、トンネルの近くまでは車で入ることができました。

ちょうど現在のGoogleマップではこの地点です。

トンネル名は西口笹トンネルで、ちょうどこの撮影の1ヶ月前の2012年7月に施工完了したようです。しかし実際に一般車両が通れるようになったのは2021年9月からで、建造から実に9年以上も通ることができなかったようです。
世の中には完成しながらも道路計画中止で使われなかったトンネルもあるので、ここはまだマシですが、南摩ダムの構想が半世紀以上に渡り、あまりにも長期化しすぎたのは問題でしょうね。

そして旧梶又小学校前の南摩川は枯れていました。この年は雨が少なかったようですが、こんな状況ですから、ここに果たしてダムが作って機能するのか?という疑問は最後まで払拭できませんでしたね。ただ、現在の構想を見ると、他の川からも取水して取り込むようなので、何が何でも水は溜め込むのでしょうね。
旧梶又小学校の面影は、学童の横断歩道の標識や鳥獣保護区の看板で残るのみでした。
2年前の撮影した土研式雨水曝露試験の容器は健在でした。

この撮影から9年後の2021年9月には新道が開通し、旧道は一部通行止めとなったようです。

さて、もう二度と通ることのできないこの旧道ですが、南摩ダム自体はまだ見たことがなく、いずれ何処かで訪問したいと思っています。今年何処かで行ってみたいけど…

【栃木】南摩ダム建造に伴い廃校となった旧梶又小学校(2010年撮影)

前回のブログで紹介した2007年撮影の栃木県鹿沼市にあった旧梶又小学校と南摩ダム建造地ですが、2010年6月にも訪問し撮影しています。
前回と違うのは、当時まだデジタル一眼レフを持っていなくて、古いコンデジのCOOLPIX 5400での撮影でしたが、2010年はデジタル一眼レフのNikon D300を導入済み、加えてGPSユニットも導入して撮影地のGPSデータを写真に付与できるようになったこと、これはダムで水没する地域の水没前の姿を捉える貴重なデータになるかなと思っています。撮影当時も今も。

まずはダム本体建造予定付近から。写真にGPSデータを付与していますので、適当な手段でご確認ください。今となってはダム本体の真下になっている旧道(当時は通行できた)です。もう二度と立ち入れない場所、風景です。

このときは、まだダム本体の工事は着工していないものの、南摩川の治水工事が始まり、またダム建設に伴う迂回のための新道の建造が進んでいました。ダム予定地手前の麓には工事の騒音を測るマイクが設置され、仮設の工事事務所も設置、ダム反対派の看板はなくなり、周辺の谷の補強整備工事も進められていました。

ダム本体の前に、護岸工事?が進められていて、もうこの時点でダム建造は概ね決まってはいたのでしょうけど、ダム事業再検証も同時に進められていた時期でした。

この場所は水没予定地ですが、工事用の車両が多く通るためか、道路が綺麗に整備されていました。ダムが完成すると水没します。

更に上がって旧梶又小学校へ。
小学校の道路を挟んで向かいにある南摩川は相変わらずこの程度の水量でした。
実際のダムはこの南摩川以外に、大芦川と、更に黒川からも水を取り込むようですが、それで間に合うのかしら?

旧梶又小学校の道路を挟んだ向かいの南摩川の様子

2010年の旧梶又小学校は工事用の資材や土研式雨水曝露試験の容器が置かれていました。
そして規制線が貼られていましたが、実はこの2010年の1月に、この梶又小学校の井戸から死体が発見されるという死体遺棄事件が発生ていました。蓋をされて石が積まれた下の写真が、該当の井戸なのかな? 前年の2009年に鹿児島県で行方不明になった方が、不動産関係のトラブルで殺害され、何故か遠い栃木県の山奥のこの井戸に遺体を息されたという事件でした。

井戸の蓋に石が積まれているのはそういう意味だったのか…わかりませんけど。

前回の訪問から3年、経年による一部破損が見られ始め、雑草も伸びた状態。2007年にいた猫たちは姿を消し、火災報知器のランプも消灯していることから、電気も切られてたようです。

そして更に2年後の2012年にも訪問しています。この時転勤が決まり、東京に引っ越す間近での撮影となりました。
それはまた次回に。

【栃木】南摩ダム建造に伴い廃校となった旧梶又小学校(2007年撮影)

2024年執筆現在、栃木県鹿沼市に建造中の南摩ダム。その構想は思川開発事業に基づき1969年(昭和44年)にダム建設の計画が始まったものの、建設反対運動もあり長年建造工事が着工されませんでした。

しかし「長年の地元住民との交渉の末、2001年には補償交渉が妥結し、全80世帯の住民は2008年(平成20年)までに地元の代替地や宇都宮市などへ移転していった。」となっており、ダム建設予定地の住人は2000年代には転居し、同地区は無人となりました。

2007年7月当時「南摩ダム全体反対」の看板が掲げられていた

2007年7月当時、上流地域では移転が決まっていたとは言え、ダム建設予定地の麓(移転しない地域)ではまだダム反対の看板が掲げられていました。
2000年代は景気後退や公共事業見直しなどで、ダム建設の中止が次々と決まっていて、南摩ダムも計画続行か中止かの間で揺れていた時期と思われます。

民主党政権化の事業仕分けなどもあり、長らく計画延期され、それでも中止決定ではないことから、水没後の道路が先に建造されていました。
そして2020年にやっとダム本体工事の着工が決まり、2025年の完成を目指しています。

2024年5月のストリートビューでは、既にダム建設が進んでいて、この先の道路は通行止めとなっています。
2007年当時はこの先のストリートビューはなく、一番古い2013年のストリートビューでは、既に「南摩ダム絶対反対」の看板やその付近の建物もなくなっています。

2007年の写真に戻ります。この当時はまだダム建設予定場所がこの辺りなのかな、とかろうじて分かる程度で、道路の架替えもまだ始まっておらず、旧来の道路は全面通行。可能でした
ダム建設予定場所から梶又小学校のある場所まで、ところどころ撮影しながら車で上っていきましたが、既に住宅は取り壊されて残っておらず、かろうじて倉庫らしきものや消防団の建物が残されている程度でした。まさに森に飲まれた感じでした。

電柱や電線はまだ健在ですね。
当時のブログは画像フォルダのサーバー移転で画像がリンク切れになっていますが、せっかくなので今回の記事用にに再編集と、一部はNikon COOLPIX 5400のRAWで撮影しているので、今回改めてRAW現像し直し、一部はAIによる解像度補完を行ったうえで、本ブログにアップしました。
このカメラのRAW撮影は非常に遅く、1枚撮ると10秒くらいは処理と書き込みで次の撮影ができないカメラでした。フィルムカメラより遅い、なんとも遊牧的なカメラでしたね。今みたいに連写で毎秒ン十枚撮影できる時代とは大違いです。

若い頃のワタシは、当時の南摩ダム計画に対しては反対の立場でしたね。何せ、上の写真は雨が降った後で増水した状態で、あの程度の流量しかない川なんですから。
今はもう少しドライな視点になり、もうほぼ完成が近いダムを見てみたい気持ちと、ちゃんと貯水できるのか、そちらに興味が移っています。

かなり上がったところにある梶又小学校は、2004年(平成16年)3月に閉校となりました。閉校から3年後の旧梶又小学校は当時まだ存在していました。
なお、2024年現在はダム建造も佳境を迎えており、梶又小学校があった場所の道路は現在工事車両用となっており、一般車は通ることができなくなっています。
なので、この道路はストリートビューのデータもないわけですね。
Googleマップにも地点情報はありません。

2007年の旧梶又小学校は廃校となったものの、まだ建物は残っており、火災報知器のランプも光っており、通電され管理されている状態でした。
何匹かの猫が住み着いているのが印象的でした。植物を育てているなど、まだ人の手で管理されていました。

少しづつ緑に飲まれつつありましたが、まだ廃校歴3年、きれいな状態が保たれていたと思います。

さて、2010年2012年にも同地を訪問していて、当時のブログは写真もちゃんと表示される状態ですが、改めて編集して記事にしたいと思います。

池袋のキリン堂薬局

昨日は人間ドックがあり、午前中池袋で受診していました。初の胃カメラ、苦しかったな(苦笑

その道中見かけた素敵な廃墟(十数年前に閉店とのこと)を見かけました。

落書きが残念ですが、古き良き昭和30年代の建物が今もこうして池袋の駅からすぐ近くに残っていることは驚きです。
店名のフォントといいネオン管といい、本当に古き良き昭和。

キリン堂薬局ですが、広島発祥と大阪発祥の2つあったようで、年代から後者の方ではないかと思われます。
薬剤師の名前が表札になっているのもまた時代を感じさせますね。

今でも取り壊されずに残っているのは何かしらの理由があるのでしょうけど、末永く残ってほしいと思いつつ、老朽化による崩壊もあるので、難しいところですね。


写真はZenfone 11 UltraでRAW撮影、1枚目は超広角、2,3枚目は望遠レンズですが、どうやら以前問題として挙げたRAWで撮影した際の階調不良は、望遠カメラのRAW撮影のみで発生している模様です。JPG画像は問題ない。これはASUSのサポートの報告しておこうと思います。改善されるとよいのですが。

日本の不動産王と呼ばれた川本源司郎氏が亡くなっていたと知った

最近廃墟、建築物関係のアンテナをあまり張っていなかったのですが、かつて日本の長者番付にも載るほどの不動産王(有名なのは銀座の丸源ビル)として知られた川本源司郎氏が、2024年2月に亡くなっていたことを知りました。

廃墟Explorer管理人の栗原氏のツイートの記事には、不動産王の川本源司郎氏が所有している熱海の別荘が荒らされている現状が書かれています。
この記事の過程で亡くなっていることが書かれていました。

一時は、総資産1300億円の不動産王として、名をはせた川本氏だが、2013年には巨額の脱税事件で逮捕され、実刑判決を受けた。
そして、出所後の2024年2月に亡くなった。

熱海の“伝説の廃墟”に不法侵入相次ぐ ソファ座りピース・無数の落書きも…不動産王「丸源ビル」オーナー別荘が無残な姿に(FNNプライムオンライン) – Yahoo!ニュース

川本氏が逮捕され収監されていた事は知っていましたが、出所したこととなくたったとの報道は知らなかったです。

Yamaroが川本源司郎氏と丸源ビルに興味を持ったのは、たまたま2016年7月、友人の結婚式で福岡に行ったときに、こんなビルを見つけてしまったからです。
旧ブログにリンクします。

旧上新川端ビル

【福岡の廃墟】上新川端ビル 

当時のブログの写真はやや小さい画像のため、再掲します。
旧上新川端ビルは撮影当時丸源ビルが所有していましたが、その後売却され、現在は再生されてギラギラのビルになっているようです。

ギラギラ過ぎて、前のビルの面影はほぼありませんね (^^;

しかしあんな古びた築50年超のビルが、建て替えではなくこんな姿に改装されるとは…恐るべし!
そしてアーケード側の看板に、未だベビーセンター福岡が残っているのですが、実は復活している? 法人格としては現存しているようですが。

丸源36ビル

福岡の光と影「丸源ビル」 

博多の丸源ビル36、ミロのヴィーナスらしき像が飾られた、ザ・スナック雑居ビルで、まさにこれが70年代から80年代を象徴していましたが、これがまさか21世紀でも現役だのが2016年。

そして今はどうなったかと言うと…

2022年には改装されている姿がストリートビューにあり、2023年には「三経建物93」にリニューアルされていました。三経ビルディングが現在の所有者のようですね。
管理物件のリストに「三経建物93」は存在しませんが(HPの更新が滞っているようです)、いずれ掲載されるかな?
看板が変わった程度で、外観デザインやミロのヴィーナスはそのままです。このまま、スナックビルとして今後もやっていくのでしょうね。

川本源司郎氏は、獄中で丸源ビルの売却を「丸源」の社長を任せていた人物に指示していたのでしょうか? 2023年10月から銀座の丸源ビルも相次いで売却したとされており、また同時期に出所したとされています。すでに高齢であることから、出所後死期を悟っての売却だったのでしょうか?
すでに丸源ビルは全て売却済みで、不動産の手に渡っており、今後改装または建て替えが進むのでしょうね。特に丸源ビルは築年数が経過しており、管理放棄されたような物件も多かったこと、また銀座の地価は現在も高いことから、建て替えが現実的かもしれませんね。

今後もその動向を追ってみたいと思います。


現代ビジネスのこの記事が、丸源ビルのその後について詳しいですね。

「銀座の大家」亡き後の「丸源ビル」衝撃の現在…3ヵ月で400億円近くのカネが動いた(伊藤 博敏) | 現代ビジネス | 講談社(1/4) (gendai.media)

【山梨】富士大石ハナテラスに行ってきた

週末家族旅行に行ってきました。5年前と同じ行程です。まず行ってきたのは大石公園、富士大石ハナテラスです。

大石公園にある河口湖自然生活館

ちょうどこの時期はラベンダーが見頃の時期のようです。子供たちはと言うとソフトクリームを頂いていまして。花より団子ですな。

しかし天気はどんよりでした。お陰で気温はそれほど高くなかったのが幸いでしたが。

どんより河口湖

ハナテラスだけに、様々な花が咲いていました。そして何より外国人観光客の多さ! 日本人より多い印象。コロナ禍以前は中国人観光客ばかりが目立っていたけど、今はアジア系全般(東南アジア系が多い印象)、欧米人かなと思う方々も多かったですね。

コスモスってこの時期に咲くんだね、とまあぐるっと花を見て巡ったわけですが、私、昔山梨県民だった頃、まだハナテラスはなくて、こういうのばっかり撮っていたような、ってのがテラスのお隣りにありまして。

なかなかのテイストのアパート。実はここは20年以上前から知っていまして、当時からこんな印象でしたが、今もあるとはね。そして廃墟ではなく現役です。よく見るとサッシは新し目だったりします。建物外装はリフォームしていないけど、住人は各々リフォームしている感じかな?

ハナテラス自体は、花だけでなくお店も結構充実していました。飲食店やお土産屋さんもあるんですね。
そしてもうすぐ七夕、短冊が飾られていて、お願い事を書いてみました。
私も一筆、家族のことを。


早目の時間に行ったハナテラスでしたが、11時過ぎに移動しようと駐車場に戻ったら、もうお客さんも車もわんさか、入口は大渋滞していました。午前の早目の時間がおすすめですね。

Rollei RETRO 400Sで撮る足尾銅山の風景

GW休み中、十数年ぶりに行ってきた足尾銅山。変わった風景あり、変わらぬ風景ありで、デジタルの写真はブログで紹介済ですが、デジタルだけでなくフィルムでも撮影しています。

撮影日は天気予報が雨のち曇り、であればISO感度400が良いかなと持って行ったRollei RETRO 400S、ただ結果的に曇りでも時々晴れ間も出る天候で、Nikon Photomic FTNの高速側シャッタースピード1/1000を多用することも多かったです。
日中撮影は、ISO100で十分だと改めて思った次第。

↑シックナーとその周辺から

とは言え、今回スキャンしてみて、このフィルム、気に入りました。まずスキャンしやすいです。ベースフィルムが透明なのもありますね。
コントラストの出方もよいし、適度な粒状感も良い塩梅です。
RolleiはRollei 35シリーズで有名なドイツのカメラメーカーでしたが、現在は写真用アクセサリを中心に販売しているようです。ただ、自社製造というよりはOEMで供給されたものが多いようです。
このRollei RETRO 400Sも、製造国はベルギーなので、製造しているのはAGFA-Gevaert(アグファ・ゲバルト)と言われています。AGFAも元々ドイツのフィルムメーカーでしたが、ベルギーのGevaertと合併し、現在本社はベルギーとなっています。
ドイツの写真関連のメーカー事情は複雑で、それこそ倒産や合併等を経て現在の形となっていますね。

↑通洞変電所から

RETROを謳うだけあり、FujifilmやKodakのモノクロフィルムよりも粒状感は少し多め、コントラストの出方もやや古めかしさは感じます。
このフィルムは、近赤外光の750nmの波長までの分光感度を持っているため、赤外線フィルタ装着による赤外写真にも対応するようです。
KodakのモノクロフィルムであるT-MAX 400では、630nmを境に急激に分光感度が低下するため、確かにRETRO 400Sのほうが赤外写真には向いているフィルムでしょうね。
今回は特別フィルタは装着せずに撮影していますが、このフィルムの独特のコントラストは、この近赤外線の感度が高い事によるものかもしれませんね。

↑足尾駅の展示車両

フィルムって今時のデジタルの写真よりずっと解像度は低いですが、逆にこの情報量の少なさと適度な粒状感が、写真として良い場合もあるかもな、と今回Nikon Z 8と一緒に撮影していて思いました。
現代は写真でも動画でも、選択肢としての情報量がまずもって30年前とは桁違いに多いですし、その1つ1つの写真や動画にしても解像度も高いため、あらゆる面での情報量が多すぎるのかもしれません。
レトロに写る色調のフィルムや古いコンパクトデジカメがもてはやされているのも、そんなのが理由かもしれませんね。

デジタルで撮った写真と合わせてご覧ください。同時に撮ったとは思えないくらい時代が違って見えますね。
そして今回の撮影で、水銀電池の互換電池を使ったフォトミックファインダーの露出計も問題ないことがわかって一安心。安心して露出系任せで撮影できますね。

35mmレンズで撮ったこの風景が好き

今回はレンズはNikkor-S Auto 35mm F2.8の1本だけ。やっぱり35mmが一番好きだというのも再認識した1日でした。

Rollei RETRO 400S、なかなか良いね

先日現像から上がったモノクロフィルム、取り急ぎスキャンしました。群馬県の草木ダムから。

Nikon Photomic FTN + Nikkor-S Auto 35mm F2.8 (Rollei RETRO 400S)

ISO400なのでそれなりに粒状感はありますが、このコントラストの出方、好きです。

Nikon Photomic FTN + Nikkor-S Auto 35mm F2.8 (Rollei RETRO 400S)

露出計の電池を互換電池に交換したNikon Photomic FTNの露出計は問題なしかな。ややアンダー目に撮った写真もちゃんと反映されている感じ。その他の写真も随時ご紹介します。

【栃木】十数年ぶりに足尾鉱山遺構を巡る その4

足尾銅山の遺構を巡る旅も今回にて終了。

Nikon Z 8の予備バッテリを忘れ、残量10%になったため、もうバッテリ温存のためにはスマホで撮るしかなくなりまして。

こちら方面へ移動。本山高山神社のあった場所です。ただ、そろそろ帰らなければならない時間、神社までは上がらず、最初の鳥居までにとどめておきました。こちらの写真はスマホです。

やはりちゃんと説明や当時の写真の看板や立っているのが足尾の良いところ(しつこいですが何度も書いておきます)。往年の様子と現状を重ねることが出来ますね。

ここからは最後の残量で再びNikon Z 8で撮ります。

ここは昔から変わらぬ風景。今も使われてきれいに改装されている建物もあれば、写真のように朽ちるに任せている建物も。でもこちらはまだ健在で何より。これからも残っていて欲しい。

最後に、古河機械金属足尾事業所周辺を撮影。旧貨物線の架橋と旧古河橋は健在です。

ここの風景も昔から変わらないですね。
門柱には古河機械金属と足尾製錬の看板が掲げられていますね。今でもこの2社がこの場所の管理運営を行っています。

本当はもっと色々見たい場所があったのですが、やっぱり時間がなかったな。また時間を作って撮影に行きたい。ちゃんと予備バッテリも持ってw