「廃墟 ruins」カテゴリーアーカイブ

都内の空き家、もったいないよねぇ

都内の住宅地、土地代高いんだろうなぁと思いつつ、ふと目をやると、長いこと人が住んでいない、放置された空き家、ポツポツ見かけます。

この空き家も、公園のすぐお隣にありました。築年数は30~40年くらい? 遠目には、リフォームすれば、まだ使えそうな感じなのですが。

手前には物置?として使っていたような場所が。

大きな木桶、そしてお釜まで転がっています。

1階窓から室内のものが溢れている

しかし、よく見ると1階の窓から、室内にあったであろうものが溢れ出ています。
引っ越したと言うより、夜逃げしたかのように、室内にあったであろうものが、かろうじて網戸で抑えられている感じでした。
何があったのだろうか? やっぱり夜逃げ?

雨戸は全て閉じられている

お庭も、ゴミ屋敷のようには荒れていないけど、しばらく手は入っていない様子。
実はこのお隣も空き家になっていました。
場所的には、隣が公園ですが、大きな通りから奥に入った閑静な住宅街で、立地も日当たりも悪くない場所です。
もしここで建売住宅が売られていたら、5千万円台後半、といったところかな?

こうした住宅は、チラホラ見かけます。日本の空き家率は、2018年時点で14%程度だそうで、7件に1件は空き家ということになります。
今後、人口が減っていって、団塊の世代(ちょうどウチの親世代)が亡くなると、更に空き家は増えると言われています。
ウチの実家だって、妻の実家だって、10年後に人が住んでいるか、分かりませんからね。

以前は、空き家でも家さえ建っていれば、固定資産税はただの土地の状態よりも安くなりましたが、2015年以降、空き家対策特別措置法が制定され、長期間放置され、荒れた状態であったり、衛生状態が悪い、あるいは倒壊の危険性のある建物は、「特定空家等」に認定される場合があります。
それでも改善されない場合は、是正勧告がなされ、固定資産税の優遇特例が外れてしまいます。つまり、空き地と同等の、最大6倍の固定資産税が課せられます。

こうした空き家は、様々な事情により、空き家のままであったりしますが、特に所有者が行方不明、あるいは連絡がつかないといった空き家では、是正勧告を出しても、そもそも固定資産税すら納税されていない場合も多いようです。
もったいないですよね。


と、ここまで書いて、栃木の自宅の固定資産税を払う時期がもう少しで来るなぁとと思いだしたり、今年の年末には築10年になるので、屋根と壁を塗らなきゃとか、色々費用が嵩むわけですね。家って色々大変です。

【茨城】(株)K立工業

2009年に撮影した、茨城県某所の廃工場。
この当時まだGPSアダプタを持っていなかったため、撮影場所が現在となっては分かりません。

茨城県まではわかるのですが、廃墟検索地図さんのサイトにも未掲載、またこの会社の名前で検索しても、こことは関係のない現役の会社がヒットするだけでした。
Yamaroオリジナル物件と言えるかなと思うのですが、周りは畑しかない田舎道とは言え、道路沿いに面していただけに、誰も知らないというのも不思議な話。
恐らく現存していないと思われます。

事務所の日めくりカレンダーは、1997年(平成9年)5月で終わっており、この辺りで廃業、もしくは倒産したのかと思います。
カレンダーには栃木県の建築会社のものもあり、よく見ると以前住んでいた場所のすぐ近くで、しかも家を買う際に検討した会社の一つだったりしました。取引があったのでしょうね。

事務所の棚には、いくつかの物件の建設や解体に関わったと思われる、地面や書類の棚が。一方、机やリース機器は積み上げられていて、最後はどういう状況だったのか? 金庫は人為的にこじ開けられた跡がありましたが、恐らく地元のヤンキーの仕業でしょう、入っているはずもないのに。

一方工場は、ゴミの山で、恐らく廃墟になってから不法投棄された、または地権者が捨てたのか。
黒い大きな袋(酪農で見かける牧草を入れるような袋)が大量に積まれた部屋もあり、中身は謎です。とにかくごみの山でした。
割と大きな工場も、人がいなくなれば荒廃する典型ですが、どうしてこうなったか、思いを馳せてみるのも面白い。そんな感じの物件でした。

【埼玉】岩窟ホテル高壮館

1904年(明治37年)から、1人の男がノミを使って、独自に岩盤の採掘を始めた。「岩窟掘ってる」が訛って「岩窟ホテル」となった、とされており、ホテルとして建造し始めたわけではなく、洋風建築物としていたそうです。
彫り続けて21年後、その男性は逝去し、しばらく放置されていたものの、男性の息子が引き続き作業を継続、この場所は観光名所となりましたが、1980年代の台風による岩盤崩落により、1987年に閉鎖、以後再開されることなく現在に至っていっるとのことです。

現在も、採掘者の子孫が管理している場所となっています。

現在はフェンスに覆われ、門は閉ざされ、中に入ることは出来ません。
したがって外から見るだけとなります。
目の前の木が成長しており、冬でも全体像は見づらくなっています。夏だともっと見づらいでしょうね。

しかし、ノミだけで岩盤を何十年もかけて掘った建築物というのは、それだけで気迫がありますね。
現役時代は、岩盤に塗装を施していたそうですが、現在はすっかり元の岩盤に戻っています。Googleで現役時代の写真がいくつか確認できます。
このページでは、写真はかなり小さいですが、内部の写真も見ることが出来ます。
流石に30年以上経過すれば塗装も落ちますよね。

内部を伺いすることは出来ませんが、椅子やテーブルなど、調度品も岩盤を削って作ったのだからすごいです。
窓の鉄柵が、年月を物語っています。いやぜひ中を見てみたいものですが、崩落の危険があり、叶うことはないでしょうね。

お隣には岩室山龍性院が

ところで岩窟ホテルの隣には、岩室観音の岩室山龍性院がありましたので、そこも行ってみました。その紹介は次回に。

【埼玉】N医院

この場所は、目の前が住宅であることから、名称と詳細な場所は伏せさせていただきます。写真からもGPSデータは削除しています。
ま、調べればすぐわかるとは思いますが…。

なかなか美しい建築で、前から見たいとは思っていましたが、周辺は普通に住宅地なんですよね。ですから、ササッと見て撮影するに留めました。

何時頃建造されたかは不明ですが、建物の感じから、1950~60年代の建造かな?という感じです。写真の通り、建物の左側はレンガと石造りのしっかりとした美しい建物です。
すでに10年ほど前から、医院としては使われていない感じとのことです。
古びてはいますが、木造建築でない分、頑丈そうでです。お正月の飾り付けもされており、現在もしっかりと管理されていることが伺えます。立入禁止の看板も新しいですね。
入り口の医院の名前は、独特のフォントです。読めない(笑

一方、建物右側は木造建築です。
木造のため劣化が激しく、徐々に崩壊が始まっているようです。
この撮影の2,3年前の他の方の写真を見ると、入口部分には瓦づくりの立派な庇(ひさし)が存在していました。
が、現在は崩壊し、かろうじて建物に庇があったであろう三角形の取付部の痕跡が見られる程度です。
入り口の扉も外れており、2階の窓も一部外れているなど、状態はよくありません。こちらの建物の管理まではされていないのでしょう。

数分程度の撮影でしたが、見れてよかった建物ですね。


ところで、この撮影で使用したレンズ、AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR、旧製品になってしまったようです。2010年発売の、比較的新しいレンズでしたが、ディスコン。後継レンズは恐らくないでしょう。
値段の割に、解像力がもう一歩で、ニコンファンからも評価が分かれるレンズです。
広角で唯一、手ブレ補正VRを搭載し、三脚を使えない廃墟撮影用に買ったレンズです。解像力は、確かにこのクラスのレンズとしては今一歩の感じはあります。やや線が太い絵なのですよね。絞っても大きく改善しません。この辺り評価が分かれるところです。とは言え、使いやすい焦点距離なんですよね。
Zマウントで、14-30mm f/4 Sが出ており、評判も良いことから、このレンズが実質後継なのでしょう。フルサイズのZマウント機は、手ブレ補正もボディに内蔵していますしね。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

【訳ありアウトレット】ニコン AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR
価格:106000円(税込、送料無料) (2021/1/12時点)


【群馬】譲原小学校跡地

午前中の矢納発電所跡旧新井邸(新井さんち)撮影を終えて、昼食がてら立ち寄ったのが、道の駅上州おにし

そばを食べた後、この道の駅の駐車場横に残されている、旧譲原(ゆずりはら)小学校を見てきました。

【群馬】譲原小学校跡地

1874年(明治7年開校)、現存するこの校舎は、1934年(昭和9年)に建てられ、築90年近い建物となります。
ちなみに、私も小学生の頃は、2階建てですが、こんな感じの木造校舎で学びました。実はYamaroが通っていた北海道函館市の小学校も、同じ1934年に建築されたものでしたが、私が卒業と同時に取り壊され、鉄筋コンクリートの学校に生まれ変わっています。

譲原小学校は、1975年(昭和50年)には廃校となり、解体されることなく現在に至っています。

昭和初期の木造建築の美しさを今に残しています。
現在はほぼ使われていないようですが、管理されているため、閉校から46年経過した現在も、建物の状態は良好なようです。

いつまでも残って欲しいものですね。

【埼玉】旧新井邸

矢納発電所跡を後にして次に向かったのは、矢納発電所を運用廃止にした下久保ダム神流湖畔の道路に沿いにある廃墟。

ところが道中、通行止め。カーナビ上でも通行止め表示にはなっていたので、駄目なら諦めようとは思っていた。
いざ来てみると、通行止めは確かなのだけど、レンタルボート屋さん神泉ボートは営業中の表示。行けるのか行けないのか?
通行止めの理由は不明だけど、落石が多いようなので、道路状況が悪いのか。でも神泉ボートは営業中で矢印がこの先を示しているし…。

一休さんの禅問答みたいな状態ですが、本当に通行止めなら、車は通せないよう、鎖や門でもっとガードしているはず。
が、本当に道が荒れているのだとしたら、ミニバンのエスティマでは難しい? 実際、長年山道を走った経験上、車高を落としたアコードユーロR ですら、割と通れて立ち往生した経験はないけど、なにせ全長が長いミニバン、切り返しが難しい。

苦渋の決断の上、嫁車エスティマはここに置いて、歩いていくことに。

※「通行止め」は、法的には車両だけでなく人も通行できないことを示しています。車だけだと「車両通行止め」です。

距離的には、目的地までは徒歩20分程度で行けそうです。Googleストリートビューも確認済み(便利な時代です)。

幸い、お昼近い時間、寒いけど風はなく、歩いているとポカポカしてきますね。誰も居ない道を、カメラ1台だけで、トボトボと歩きます。道は…全然エスティマでも走れそうな状態。途中少し小さな落石があった程度。
途中、軽トラが停まっていました。荷台には猟犬用と思われるケージが。山の奥の方でガサゴソ音がしたので、猟を行っているのでしょうね。通行止めだけど、結局車で入っているじゃんと。

目的地到着。この看板が目印、ストリートビュー通り、ずっと置いてあるようです。車道からは、目的のものは見づらい。

旧新井邸、通称新井さんち。
何故この名称で呼ばれているかは、探偵ファイルさんの古い記事に、1988年(昭和63年)の地図に「新井別邸」と書かれていたからだそうで。
昔は、こうした地図に個人宅名まで書かれたものが、普通に出回っていました。個人情報保護の現在では信じられないかもしれませんが、自分の子供の頃は、ネットもないし、Googleマップも実用的になったのは21世紀に入ってからですからね。

ここは元々村だあったようで、この建物の新井さんちは、下久保ダム建設反対派の家だったという噂もあったようですが、定かではありません。
事実として分かっているのは、確かに新井さんの所有する建物であること(周辺は新井性が多いそうです)、元々母屋が車道側にあったのが、2011~2012年に解体されていること、今残っているこの2階建ての建物も、かつては障子が貼られていたようで(現在は枠のみ残っている)、昔の大きな家によくある、母屋と別邸という厚生だったようですね。

ご覧の通り、すでに土壁の多くは喪失、柱も根元部分は腐ってズレたり痩せたりしています。
横から見ると、建物が曲がっていて、倒壊も時間の問題でしょうか。と言いつつ、柱がしっかりしているので、割と頑丈そうではあります。

あまり残留物はなく、というより埋もれてしまっているのでしょう。
懐かしい2槽式洗濯機が転がっていて、その上には柚子?が生えていました。洗濯機のホースが劣化て、カールコードのように。
肥料の袋があり、畑もあったのでしょうね。

少し斜面に登って建物を確認。昔のしっかりした日本家屋という印象。積雪が殆どない地域なのも、ここまで倒壊せずに持っている要因の1つかも。ただ、これだけ斜めになっていると、あと数年か、といったところでしょう。

形状的に軽トラと思われる、テールランプが落ちていました。しかし、車体は見当たらないのですが、どこに行ったのだろう?

では戻ることに。
帰り道、神流湖と下久保ダムを見ながら来る前戻りました。

ダム反対運動は確かにあったようですが、一方で、よりよい場所に転居できるから、など様々な理由で賛成派もいたようで、こうしたダムは賛成派と反対派で人々を分断させてしまう、というのはあるようですね。

【埼玉】矢納水力発電所跡

埼玉県と群馬県の県境。

群馬県と埼玉県の県境

渓谷に存在した水力発電所です。前回は2013年に訪問しており、再訪となります。

1914年(大正3年)に武蔵水電株式会社が、川越電気鉄道と周辺地域への電力供給のために建設した、埼玉県発の水力発電所です。
出力1100kWでした。

矢納発電所跡を眼下に見下ろす

1966年(昭和41年)、下久保ダムの建設に伴い、運用廃止されました。廃墟歴は実に半世紀以上となります。

前回は5月でしたが、今回冬の1月の訪問なので、樹の葉にに遮られない状態で撮影できました。

今回は初めてPC-Nikkor 28mm F3.5も使用しましたが、建築物を歪まずに撮影できるのは、大きな収穫でした。
冬の澄んだ空気で撮影すると、2013年5月の撮影の時とは、随分印象が違います。
私にしては珍しく、デジタル一眼レフ撮影でしっかり三脚を使用し、ISO感度は64に固定。D810もD850も、標準感度はISO64からのため、往年の銘フィルム、Kodachrome64で撮るかのように、しっかりと1枚1枚撮りました。

後半は、三脚を外し、超広角で撮りたくAF-S 16-35mmに切り替えましたが、広角特有のバースが付きすぎてしまい、もっと広角のPC-NIKKORレンズが欲しくなりますね。

併設された木造の職員待機所は崩壊が進みつつありましたが、レンガ造りの発電所は、大正時代の面影を今なお残していました。

【福島】高小沼グリーンランド 2006年6月撮影 フィルム編

高子沼グリーンランドの廃墟、フィルム編です。

昨日、フィルムスキャンしなければ…なんて書いていましたが、スキャンしたデータ見つかりました。というかHPに掲載済みでした。忘れてた…。逆に、デジタルで撮ったほうが初掲載だったようです。

が、せっかくなので、解像度をアップしたフィルム写真を再掲載ということで、お茶を濁します。
やっぱりこの当時は、フィルムのほうがデジタルより圧倒的に画質が良かった、ということですね。

撮影当時のカメラはNikon F90Xs、カラーの方はFujichrome Velvia 100 (RVP)、モノクロはILFORD PAN F PLUS50での撮影でした。

【福島】高小沼グリーンランド 2006年6月撮影 デジカメ編

かつて福島県の福島市にあった遊園地、高子沼グリーンランドの廃墟です。

この撮影後、遊具が撤去されたため、この場所を印象づけていたジェットコースターや観覧車は、この撮影が最初で最後となってしまいました。撤去後も一度訪れたことがありますが、建物の一部が残るだけで、ただの空き地となっていました。

この時代、Yamaroはまだフィルム撮影がメインで、デジカメはサブ機という扱いでしたが、何故かこの時、フィルムは前の撮影で残ったポジフィルムの数コマと、その後モノクロで撮影していて、脈略が無くなってしまっています。その時のフィルムは未スキャンなので、今度スキャンしてみたいと思います。

今回は、コンデジのCOOLPIX5400での写真を掲載します。画質的には今見ると苦しいものがありますが、貴重なデータなので。RAW撮影に時間がかかる機種ゆえ、ほとんどのコマをJPG撮影していたのが悔やまれます。当時はRAW現像ソフトは持っておらず、RAWで撮るメリットが薄かったもので…。

それでは御覧ください。

百里神社に行ってきた

先日、百里基地の撮影は早々に終了したため、時間があったので百里神社でお参りしてきました。

百里神社入り口

百里神社、以前は森に覆われていて、そもそも存在すら知りませんでしたが、ある時から、木が伐採されて、看板も立つようになりました。

とても小さな神社で、木ではなくコンクリ作りの建物です。

看板にある通り、素鵞神社の系列の神社となりますが、事業資金の確保に窮しているとのことです。
奉賛募金は素鵞神社で募集とのことです。この日、恥ずかしながらあまり持ち合わせがなく(最近キャッシュレス決済メインなので、すっかり現金を多く持たなくなっています)、次回来るときは納めたいと思います。
あ、お参りしてお賽銭は入れておきました。

国土地理院の航空写真、1961~69年を埋め込んでみましたが、この当時から神社があったような地形に見えますが、如何でしょうか? しかし周りなにもないな(笑


次に、百里神社の近く、百里原海軍航空隊門柱跡を見てきました。

石碑は笹に埋もれていました。

百里原海軍航空隊の遺構はこれ以外にもいくつかあり、畑の中にぽつんと残る建物は、昔から百里に来るたびに見る印象的なものでした。
茨城新聞の動画を貼っておきます。

ところで、この石碑の隣に、廃屋らしきものがあります。

草と蔦に埋もれていました。先程の国土地理院の写真を見ると、1974~78年には、青い屋根の建物は存在しているように見えます。
そのお隣には現役の民家があるので、そこのおうちの所有なのかな?