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【福島】高小沼グリーンランド 2006年6月撮影 フィルム編

高子沼グリーンランドの廃墟、フィルム編です。

昨日、フィルムスキャンしなければ…なんて書いていましたが、スキャンしたデータ見つかりました。というかHPに掲載済みでした。忘れてた…。逆に、デジタルで撮ったほうが初掲載だったようです。

が、せっかくなので、解像度をアップしたフィルム写真を再掲載ということで、お茶を濁します。
やっぱりこの当時は、フィルムのほうがデジタルより圧倒的に画質が良かった、ということですね。

撮影当時のカメラはNikon F90Xs、カラーの方はFujichrome Velvia 100 (RVP)、モノクロはILFORD PAN F PLUS50での撮影でした。

VMWareにWindows XPを入れて古いソフトを動かす

メインPCのOSを入れ直した後、しばらく仮想マシンでのWin XPを構築していなかったので、先日からVertualBoxをインストールして、Win XP Home SP2(Professionalのディスクが見当たらない…)をそこにインストール。

ところが、VertualBox、今まで問題なく動かせていたのに、今回に限っては、Win XPのフリーズ、ブルースクリーン、設定色々変えて、何とかインストール成功しても、今度はWin XPがあまりに遅くて使い物にならない…。以前はこんなことなかったのですが…。

どうしようもないので、VertualBoxをやめて、同じ仮想マシンソフトのVMWareを使ってみると、こちらはあっさり成功しました。しかも設定もVertualBoxより簡単な印象。

VMWare上で起動するWindows XP Home

Professionalのディスクも持っていたはず…なのですが、見当たらない。まあやりたいことはHomeでも問題ないので、まあ良いか。

さて、Win XP環境を再構築した理由はこちらです。

当HPにも掲載している記事、F90X/F90フォトセクレタリーのインストールのためです。

Nikon F90Xsもしばらく使っていませんが、セッティングの自由度はF100よりもありますし、撮影データの取り込みも可能です。
フォトセクレタリーは、フロッピーディスクによるソフトウェアと、カメラの10ピンターミナルとPCにRS-232接続できる、専用ケーブルMC-31で構成されています。

フロッピーディスクを読めるうちに、すでにデータはHDDに落としてあります。
販売時の対応環境は、Windows3.1またはWindows95/NT3.51と、骨董品レベルです。そりゃそうですね。1996年頃に販売されたソフトです。同様に、F5用とF100用のフォトセクレタリーも存在します。

F90X/F90フォトセクレタリーについては、その後のOSのWin2000やXPまでは、メーカーとしては対応としていますが、F5用だけは、Win2000以降に非対応でした。まあ、今となってはどうでも良い情報ですかね。ケーブルさえあれば、サードのSoftTALK2000で同様の機能を使えます。

さて、Win XPもSP2からSP3にアップデートしたので、フォトセクレタリーをインストールします。

無事、インストール完了しました。

なにせ四半世紀前のソフトですから、拙いフォントやこれ以上大きく出来ないデータのウインドウとか、当時の解像度ではこれで十分だったのでしょうね。VMWareでもシリアル接続は対応しているので、これで問題なくつながるはず…(まだ試していない)。

また、インストールさえしてしまえば、そのインストールファイルそのものをWin10機にコピーすれば使えてるはず(Win7 64bitでは使えました)。ようは、インストーラーが動かないだけの話なので(インストーラーはWin95互換モードでもダメでした)。

ま、今となってはあまり意味のない情報かもですが、ソフトウェアも時が経てば歴史であり、資料価値はあると思うので、F90Xを持っている限り、このソフトは動かしていきたいと思います。

2005年11月の栃木県足尾銅山周辺

今回は、今から15年ほど前に撮影した、栃木県は足尾銅山周辺の写真をアップします。

15年も経てば、今はもうない建物や、あっても状態が異なる建物や風景は多々あります。

この当時は、まだ本山の精錬所跡が残っていました。写真に映る建物の多くは、現存していません。

鉱山らしくシックナーが稼働中の風景、今は歴史の中の1つとして遺跡となっている場所など、当時とりとめもなく撮影してきた写真です。

2005年当時は、まだメインカメラはフィルムのNikon F90Xsを使用していました。おかげで、現在でもスキャンして十分な解像力の写真となっております。

それでは当時の足尾の雰囲気をお楽しみ下さい。
ああ、転勤して何年も足尾方面は行っていません。今度どこかで撮りに行きたいですね。

日産60型ファイアパトロール

懐かしのボンネット消防車。ボンネット消防車というと、絵本では「しょうぼうじどうしゃじぷた」が有名ですが、写真はジープではなく、日産ファイアパトロール60型です。

撮影は、2004年8月撮影、山梨県は東山梨郡(現山梨市)の牧丘町と思われます。消防団の車両だったようで、牧丘町はテープで消されているものの、うっすら見えます。

ドアのない車内を見ると、四駆らしく副変速機付きです。都市部用に二駆モデルもあったようですが、ここは山梨ですから、流石に四駆モデルですね。

「甲斐(かい)日産納」というステッカーが、山梨だなぁと感じさせますね。

ベースとなった日産パトロールは、1960~80年まで販売されていたようですが、写真の消防車仕様のファイアパトロールは、前照灯(ヘッドライト)の突き出しが大きいという特徴から、1975~80年の間の製造と思われます。

この撮影当時は、車齢24~29年ということになりますが、消防団の消防車ということで、恐らく現役当時は消防団の車庫保管、走行距離も一般乗用車より極端に短い場合が多く、写真の車両も現役を退いてなお、状態は比較的良さそうでした。
まだ現役を退いてからそう経過していなかったのでしょうね。

Googleストリートビューで、撮影場所を探してみたのですが、残念ながらそれらしい場所は特定できず、もちろんこの車両も見つけられませんでした。写真に映る送電線と橋から推測してみたのですが…。

恐らくもうないのでしょうけど、案外海外に買い取られて活躍していたりするのかもしれませんね。

山梨県河口湖畔「ホテル小曲園」の外観 2002年8月撮影

20世紀末から21世紀初頭にかけて、関東甲信越圏の廃墟サイト界隈では絶大な人気を誇った物件が、山梨県は河口湖畔にかつて存在した「ホテル小曲園」でした。

ホテル小曲園の歴史は古く、戦後7年が経過した1952年(昭和27年)に創業し、小曲園グリルといった食堂やパブなども併設していて、高度経済成長とともに増改築を繰り返したそうです。

特に有名だったのは、河口湖を見下ろせる宝石風呂でした。1994年(平成6年)に廃業後、割と短期間で傷んでいったのも、有名観光地だったのもあると思いますが、増改築を繰り返し、古い部分も相応に残っていて、元々老朽化が激しかったものと思われます。

廃業からわずか数年のうちに、有名な廃墟として名を馳せるくらいに、老朽化が進んでいたのでしょう。

Wikipediaその他の解説では、廃業理由として、

手抜き工事により増築に増築を重ね、避難を困難にした複雑な構造だったためにホテルニュージャパン火災以降厳しくなった安全基準の「適合マーク」を取得できなかったためであった。

Wikipedia「小曲園」

としていますが、適合マークってこの時代からありましたっけ? という疑問がありまして。いわゆる「既存不適格建築物」だったのではないかと想像しています。その辺りの法律に詳しい方がいらっしゃいましたら、コメントいただければと思います。

安全に対する法律がまだまだ緩かった1952年創業ですから、その後繰り返し増築するも、いざ老朽化した部分を改修しようにも、その時点での法律により困難、もしくは多額の改修費用がかかることになった思われます。なにせ、斜面に建てられたホテルですから。

個人的に、今写真を見ても、建物の構造物が全体的に華奢に見えるんですよね。

そんなこんなで小曲園ですが、ここは有名観光地で、当時でも撮影は比較的リスクが高かったので、外から眺めるに留めました。
撮影から1年後には、河口湖町の方針により解体が決定し、2004年には完全に解体されました。現在では小曲展望台として開放されています。

オマケ、小曲園の右側のホテル群。ストリートビューで確認したところ、執筆時点では下の写真の建物は、現在でも現役で何よりです。ただ、手前のENEOSは廃業して、取り壊されたようです。

ちなみに、左下に映っているアコードSIRが、当時の愛車でした。
このくらいのサイズの車が丁度いいんだよなぁ…

【追記】2004年2月解体中の小曲園

上の写真撮影から1年半後の2004年2月1日の撮影した、小曲園解体途中の写真が出てきましたので、追加掲載します。

撮影は、フィルムではなくデジタルでしたが、デジカメ黎明期のコンデジ、Nikon COOLPIX 2500での撮影、200万画素のカメラですから、今ならそのまま解像度を落とさなくても、Webに掲載できます。

黎明期故のコンパクトデジカメゆえ、画質は今見るとかなり悪いですが、解体中の雰囲気をご確認できればと思います。

山梨県甲州市「焼山集落」2002年8月撮影

過去写真のアーカイブ、2000年代初頭を中心にアップしております。

今回は、2002年8月に撮影した、山梨県は現甲州市(旧大和村)にある廃村、焼山集落をアップします。

当時、社会人になりたてのYamaroは、山梨の会社に務めており、高校の同期のなべ氏と夏休みに合流し、撮影に出かけました。その後、なべ氏とは、彼が地元に戻る2010年代後半まで、度々廃墟撮影に行ったものです。

現在は道路が整備されたと思われる焼山沢までのルートは、この当時まだ工事中の区間もあり、CF4アコードSIRに乗っていたYamaro、下回りを擦りつつ現場に向かったものです。その当時はまだカーナビも積んでいなかったかな。当然スマホどころか、ガラケーにもGPSが付いていなかったと思います。まっぷる片手に移動したものです。なので助手席にナビがいるほうが、何かと都合が良いんですよね。

最近の焼山集落の様子を検索しましたが、未だ健在のようで、降雪地域とはいえ、比較的積雪が少ないからでしょう。とは言え、2002年から比べると、今では部分的崩壊や、残留物も少しづつなくなっているようです。

それでは2002年の夏、草が生い茂りすぎてかき分けながら撮影した写真を御覧ください。

Nikon F90XsにレンズはAI AF Nikkor 35mm f/2D、状況によってSIGMA 28-70mm F2.8-4 UCを、フィルムはリバーサルでFujichrome TREBI 100Cという、価格は安いけど、あまり息の長くなかった初心者向けのリバーサルを使用しています。ちょっと色がね…。

一部崩壊しているところがあるものの、この当時はまだガラス窓や扉は健在でした。
夏の盛りの撮影は、草や虫との戦いだと、この時知りました。
建物は扉が開き、ウェルカム状態でしたので、お邪魔させていただきました。

玄関にはなぜか釜が転がっていました。囲炉裏が時代を感じさせます。
鳥かごが置いてある台所は、最近の写真を拝見する限り健在のようですが、この撮影の2002年当時とは食器や調味料などの位置が変わっていて、残留物が少なくなっていました。

また、畳はこの時まだ存在していましたが、現在では土に帰っているようです。

焼山集落の象徴でもある、三菱ミニカ、夏なのですっかり緑に覆われていました。
ミニカエコノターボは、1984年から5年間販売されていた、4ナンバーバンながらターボ、しかも軽自動車初のインタークーラー付きターボで、ボンネットにダクトがあるのが特徴でした。

この撮影時点で屋根は潰れていて、雪の重みに耐えられなかったのでしょうね。
最近の写真では閉じているボンネットも、この当時は全開でした。

それでは別の建物へ。ここは小料理屋っぽい感じでしたが、一般住宅だったのか、果たして?

大量の一升瓶やお猪口があったことから、一般住宅というよりは、住宅兼小料理屋っぽい雰囲気でした。
一升瓶は、今は日本酒か焼酎のイメージですが、この時代はまだペットボトルが普及していなかったため、お醤油などの調味料でも一升瓶が使われていました。なので、大量の瓶も、酒ではなく調味料だった可能性もあります。処分が大変だったので、ある程度溜め込まれているのは、山奥の廃墟ではよく見かけました。

「三和のかまど」は、現在の三和金属のかまどなのかな?

今見ると色々興味は尽きませんが、また見に行く機会はあるかな?

北海道苫小牧市の廃…ではなかった市営アパート 2000年11月撮影

過去写真の再編集アーカイブです。

時は2000年11月、この時代、ネット界隈では廃墟撮影がちょっとしたブームになりつつありました。元々廃墟写真は好きでしたが、自分でも撮影してみたい、と思い、まずは身近なところから、ということで、当時一時期だけ住んでいた、苫小牧市内にある、廃市営アパートを撮影しに行きました。
これが、Yamaroの廃墟撮影第一号…になるはずでした。実際には完全な廃墟ではなく、まだ住んでいる方がいて、結果的には不法侵入になってしまいました。今は時効ということで、お許し願えれば。

昨今、高度経済成長期に建てられたアパートやマンションの老朽化問題が深刻になっていますが、人口が急増し、昭和30年代から40年代にかけて多く建てられた市営アパートも、20世紀末、一部は老朽化が始まっていた時代です。

この当時、すでに苫小牧市内には、老朽化した市営アパートが多くあり、この撮影地以外にもいくつか存在していました。
今では、それらのほとんどは建て替えられています。

このとき撮影した市営アパートは、1階がかつて商店が入っていたと思われますが、固く閉ざされていました。

そしてこの撮影から数日後、夜通った際には、2階に2世帯、3階に1世帯の明かりが確認でき、現役であることが確認できましたが、3階の廊下は照明もなく、3階の住人は夜は怖いかもなぁと思った次第。

この撮影の半年後の2001年には、入り口と窓はベニア板で塞がれ、住人が完全に撤退して本当の廃墟になったことを確認しました。
また、その頃はすでに自分も苫小牧市を離れていました。(お隣の千歳市に引っ越し)

それでは、2000年撮影の写真を御覧ください。
当時は、Nikon F90XsにAI AF Nikkor 35mm f/2D、フィルムはFujifilmのNEOPAN PRESTO100で撮影。これをフィルムスキャナで取り込んでいます。

公開当時は長編方向800ピクセルの解像度でしたが、時代に合わせて1920ピクセルで再編集しています。

鉄格子の廊下の窓枠は、昭和30年代建造のアパートでよく見られるものですが、見た目には冷たく閉ざされた印象を与えます。

入り口のドアガラスは割れ、ペンキは剥がれ、鉄の扉も郵便受けも激しく錆びていて、とても現役には見えませんでしたが、廊下の明かりが点灯しているので、現役とわかりました。
そして撮影中、

カツッ、カツッ、

と足音が聞こえ、新聞配達らしき人と遭遇。お互いビビったと思います(笑

上の最後の鉄格子のわきから外を眺めた写真、当時の愛車だったホンダドマーニが写っています。そしてこの写真がヒントとなり、現在の様子がわかりました。ドマーニの後ろに、白い2枚シャッターのガレージが写っていますが、これがヒントとなりました。

2012年のストリートビューで健在のガレージ

ストリートビューで、撮影当時と同じガレージを発見。ストリートビュー自体の撮影日が古いので、現在も存在するかは不明です。

なお、アパートは取り壊され、現在は別の施設が建造されています。ストリートビューで見ても、2000年当時の建物自体が少なく、わずか十数年で、景観は変わるのだなと感慨深くなりました。

「入居停止住宅」とあるように、すでに住んでいない部屋に新たに住人が入ることはなく、このアパートは用途廃止がすでに決まっていたのでしょう。郵便受けも大半はガムテープで塞がれていました。

現在も、このような老朽化したアパートは多く存在しますが、古くても現役の物件も多いので、そのような建物への侵入は辞めましょう。

秩父山奥の廃山荘「鹿の湯山荘」2010年1月撮影

過去写真のアーカイブとなります。

2010年1月、埼玉県秩父市の熊倉山にある廃山荘「鹿の湯山荘」を撮影しました。

細く荒れた山道を登って途中で車を止め、少し歩くと見えてくるのがこの旅館。
アクセスも良くなく、駐車場もなく、日当たりの悪い立地ですが、現役当時は奥にスキー場もあったそうで、いわゆる山奥の鄙びた宿として、現役当時はそこそこ人気だったようです。
一部建物の崩壊が激しく、この撮影当時でも、倒壊も時間の問題と思われました。

平成初頭、つまり90年代までは営業していたようで、色々調べると、山奥の山荘らしく、猪鍋や山菜料理がでる、おばあちゃん3人が仕切っていた、という宿のようでした。

この撮影後、やはり倒壊してしまった(崩壊が激しく意図的に倒壊させた)との情報もあり、Googleマップの衛星写真を確認したところ、建物のあった場所は確認できましたが、すでに建物はなく、撤去されているように見えます。また、撮影当時残っていた山荘の看板も撤去されているようです

HP公開当時は、場所と山荘名は非公開としましたが、すでに建物は現存しないと思われることから、公開することとしました。

当時の写真を再現像するとともに、画像の解像度もアップしました。また、非公開だったモノクロフィルム撮影の写真も同時公開します。