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【写研埼玉工場】解体動向(20/7/7)

梅雨時期でなかなか撮影が難しい季節です。九州は大雨で大変なことになってますし…。

そんな中、雨の切れ間?ということで、朝時間があったので、またまた写研埼玉工場撮影してきました。

まずは厚生棟。ここは何も変化なしです。雨が多かったからか、外壁が薄汚れています。よく見ると、ミラーに自分が写ってるw
1階の駐車スペースは、工事関係者の駐車場になっているのは変わらず。

工事予定のパネルは、担当者が書き忘れたのか、先週のままでしたので、今回は未撮影です。

メインビルは大きな変化はありませんが、足場のネットと、1階部分の防音壁はが追加されて、着々と解体準備が進められている様子です。

第二工場は大きな変化なし

第二工場はすっぽり防音壁に覆われているため、内部の作業進捗は不明です。かつて箱の上に大きな「写研」と書かれた看板があった場所です。ここは早々に撤去されたようで、最初に撮りに行った先月半ば時点で、既にありませんでした。

足場固定のため、一部窓ガラスは割られている

メインビルのクローズアップ。足場を固定するため、一部の窓ガラスは割られていました。大きく開けられなかったからなんでしょうね。

裏手からはネットが張られて、ネット越し写真ばかり載せていましたが、今回はネットの切れ間から、第二工場の奥のメインビルを撮ってみました。
裏手はこのまま足場や防音壁は取り付けないのかな?
エアコンももう稼働できないでしょうから、一部窓は恐らく換気のために開放されています。この蒸し暑い時期に、大変ですよね。

ところで、トマソンな鉄扉が最上階にあります。間違えて開けたら終わり…ですね。この手の扉は、恐らく大きめの重量物の搬入とかで使うのでしょうけど。意味があるから設置しているのだと思いますが。

ところで、Googleのストリートビューでは、恐らく解体工事着工直前となる、2020年3月に撮影された写研埼玉工場を見ることが出来ます。

2020年3月に撮影された写研埼玉工場のストリートビュー

このアングルからは、2010年からのデータがありますので、見ていくと、2010年は写研の看板も、まだそれほど色あせていなくて、10年の時の流れを感じさせます。
ストリートビューで周辺を見てみると、2010年も、メインビル入口に警備員はいますが、他に社員らしき人の姿はなく、厚生棟も使われているようには見えませんでした。
2007年時点で、埼玉工場の社員数は30名、それから3年後の2010年で人気がない感じなので、その間に多くの社員が退職してしまったのでしょうか?
ストリートビューには、既に解体されてしまった第一工場も見られます。

色あせた写研埼玉工場看板

この看板は、象徴として毎回撮りたくなります。最後まで残って欲しいですね。


写研埼玉工場の記事も増えてきたので、カテゴリーに「建築物」、サブカテゴリに「解体」を追加しました。

【写研埼玉工場】解体動向(20/6/29)

なんだかシリーズ化しつつある、写研埼玉工場の解体動向ですが、この日もたまたま出社前に時間があったので、チャリンコでひとっ走りしてきました。

写研埼玉工場

今週の作業はこんな感じです。

廃材搬出や内装解体が主な作業

建物も大きいため、内装撤去作業はかなり時間をかけて行うようですね。

メインビルも防音・防塵壁が取り付けられている

メインビルにも、徐々に防音・防塵壁が設置されていて、徐々に建物が外から見えなくなりそうな感じです。周辺はマンションが多いため、騒音にはかなり配慮している様子です。

メインビルの足場の設置も進み、第二工場は防音壁で全体が覆われています。

第一ビルは解体済み?

第二工場とメインビルの間の、第一工場があったと思われる場所は、既に解体済みのようです。
資材置き場になっていました。

裏手に回ってみました。メインビルは、裏手側はまだ足場も組まれていませんが、第二工場は防音壁で完全に覆われていました。
まだしばらく内装撤去作業がメインのようですが、状況的に先に第二交渉が解体されるのだろうと思います。
工期はまだ半年以上あるので、建物自体の解体着手はもう少し先でしょうか?

看板の撤去は最後か?

古びた写研の看板は、まだ撤去される様子はありませんが、これがなくなると、知らない人は、もうここが何のビルだったかもわからなくなりそうです。

引き続き、時間を見つけてウォッチしていこうと思います。

写研埼玉工場が解体されるとのことで見に行ってきた

この記事に反響を多く頂いており、書いた本人も少し驚いていますが、当方、デザインやDTP、フォントについては素人で、書かれている内容に間違い誤解があるかもしれませんので、その点、ご容赦、ご指摘いただければと思います。


昨日、たまたまTwitterを見ていたら、こんなツイートを見かけまして。

写植、と言うキーワードから、久しぶりに「写研」と言う会社を思い出しました。

実は何年か前、表題の「写研」埼玉工場の横をたまたま通って、人気のない大きなビルなのに、ちゃんと維持管理されているっぽい感じだったので、何の会社だろう?と調べだしたところから、写植の会社であること、写植って何?となって、写研について調べたりしていました。
昔は写植・フォントといえば写研だった、その後デジタル時代になりDTPが主流になっていくも、現代に至るまでデジタルでフォントを販売しないこと、今どきHPを持っていない(2019年7月にドメインは所得)など、色々と逸話のある会社のようです。調べれば調べるほど、面白い会社だなと。
そして、今はかなり減ったようですが、道路の青色看板のフォントなども、ちょっと前までは写研のフォントが用いられていたとのことで、実は知らず識らずに我々は写研に触れていたということも。

※現時点では、まだ道路の青看板のフォントは、法令で写研のナールが用いられているとのご指摘がありましたので、訂正させていただきます。

写植の話題をツイートしたら、フォロワーさんより…

貴重な経験談も頂きました。写植機、昔は一般的だったということなんですね。

元々廃墟写真が趣味で、古い建物そのものが好きだったりしますが、写研の埼玉工場、立派で管理されているのにほぼ無人(入り口に警備員はいた)、というのになにか惹かれるものがありまして。

ところで、この一連の流れから、ふとWikipediaの写研の項目をたまたま見たところ、

2020年4月15日、写研の埼玉工場の解体が開始された。

という項目が追記されているのを見て、タイムリーでいても立ってもいられなくなりまして。
そんな中、たまたま昨日買い物担当になり、車に乗る機会が得られたので、お買い物ついでに写研埼玉工場を見てきました。

写研埼玉工場の看板、もちろんフォントは自社製で、後にこれをベースに「ファン蘭」という書体が販売されたそうです

雨降っていて、あまり写真は撮れなかったけど、この看板が写研を象徴するものとなっています。しかし、だいぶヤれてしまった看板ですね…。

この写研の看板のフォントも、もちろん自社製フォントで、後にこれをベースに「ファン蘭」と言う書体が作られ販売されたようです「任天堂」のフォントにも用いられているようですね。
※「任天堂」の書体は、ファン蘭ではなく、よく似たファンテール体に分類される、とのご指摘をいただきました。

一部足場が組まれている

建物はまだなくなっていませんでしたが、足場が組まれていて、敷地内に目隠しもされていて、確かに解体工事が始まっているようです。

この日は日曜日ということもあって、作業は行っていないようでした。が、この雨の日にも窓は開放されていて、もはやビルとして機能していないことがわかります。
写真右隅の窓には、以前からこんな感じで箱が積み上げられているのがすりガラス越しに見えましたが、この箱が写植機の部品、あるいはフォントの型である写植文字盤とかが入っているのでしょうか?

入り口の守衛所も目隠しで屋根しか見えない

なかなか大きく立派な建物で、入り口付近の構造も金がかかっている印象。以前は、この門は開いていて、写真右手前に屋根だけ見える建物には守衛さんが在中していました。なので、そこだけ見ると、普通に工場の入口なのですが、ビル自体には以前から人気はまったくなく、倉庫として使っているのかな?と言う感じでした。ただ、倉庫だとしても、あまりに人気がなかったんですよね。

写研埼玉工場は、第一工場が1963年(昭和38年)に、第二工場が1965年(昭和40年)に建造され、さらに5年後第二工場は増築されたということで、当時写植機が非常に多く売れていたということがわかります。
今でこそB to Bという言葉が一般的になりましたが、いわゆる一般への販売をしない、会社対会社の業務、そして当時トップシェアを誇っていたわけですから、これだけ立派なビルを建てられるのも納得です。

4階部分まで足場がかけられていた

ちなみに写真のこの茶色のビルは、工場ではなくメインビル、とのことです。写真は撮っていませんが、このビルの向かいには、厚生棟というビルがあり(帰ってから調べたらわかりました)、当時はかなり大きな会社だったということがわかります。
また天気の良いときに、写真は撮りたいですね。

電話番号が書かれていたり、あらぬ憶測や問い合わせがあると良くないので、このブログで特段必要ない情報は隠しました。

解体は、誰しもが知っている大手建設会社の名前が書かれていました。メインビルは、工場より建造が新しいイメージですが、それでもやはり半世紀前の建造だからか、アスベスト(石綿)が使われているようで、まずは内装とアスベストの除去が行われたようです。
大手建設会社による解体、しっかりと計画を立ててアスベスト除去や内装解体から進められていて、解体費用もしっかりと計上されている印象を受けました。
まだ会社としては継続している写研ですから、倒産による解体ではなく、計画的な解体なんですよね。

またまたフォロワーさんからの情報(Twitterって特定分野に詳しい人が多く集まっていてすごいなぁと)です。

とても有益な情報を頂きました。調べると、確かに創業以来ずっと同族会社だった写研が、2018年に石井裕子社長が逝去後、同族の後継者ではなく、同社の顧問税理士の南村員哉氏が就任しています。
南村氏は、現在も税理士事務所を経営しており、フォロワーさんの解散準備…と言う話も一理あるなと思います。もちろん、このツイートを持って、解散準備中であると断言はできませんが。(フォロワーさんを信頼していないとかではないので念の為)

HPも2019年にドメイン取得しています。会社の解散準備しているのであれば、あえて今ドメインを取得するのは? フォントのデジタル化はすでに完了しているということで、最後の最後にデジタル販売を開始する…可能性も否定できませんよね?

特にフォントに思い入れはなかったYamaroですが、日本のフォントを支えてきた写研という、かつて大きな企業だったのが、今や風前の灯、というのは感慨深いものがありますね。

ちなみに、24年くらいまでは電算写植は残すとの情報ですが、電算写植機と接続されているISDN回線(写植機の使用による課金データを送っているそうです)が2024年で終了するとのことで、そこまでは稼働を維持する、逆に言うとそれ以降はISDN回線ではない代替手法を用いない限りは、写研の課金システムは継続できないということになるから、ということです。
しかしながら、すでに電算写植の新規開発などは終了し、社員も殆ど残っていない(現在何人の社員が残っているか不明)となると、現状を維持することが精一杯、ということなのでしょう。すでに電算写植機も製造しなくなって久しいですから。
ただ、個人的には、HPドメイン取得で、最後の最後に大どんでん返しのDTP化!ってのも期待しちゃいます。デザインに無知なYamaroでさえ、確かに写研のフォントは見やすくきれいだと思いますし、デザイン業界では未だファンも多いようですから。

第二工場はネットとシートで覆われていた

すでに10年以上前から稼働していなかったとされる第二工場は、ご覧のように解体に向けたネットと防音シートが張られていました。

かつては、この工場に上に誇らしげに「写研」と掲げられていましたが、今はそれも見えません。ちなみに、第一工場は、この第二工場と、先程の茶色のメインビルの間にありますが、目隠しシートに寄って現在はどうなっているのか分かりません。元々、第一工場はそんなに大きくはなかったかと思います。

ネット越しにメインビルの裏側を望む

解体工事は、2021年1月までの予定ということで、現状、まだ内部の廃材撤去中のようですが、梅雨が開けたら解体工事も本格化しそうな感じです。

これはちょこちょこ見に行かないとですね。


追記:社員数ですが、過去情報で厚生労働省のページに、こんなPDFを見つけました。労基案件っぽい内容は中身を読んで頂くとして、ピックアップすると、すでに平成19年7月(2007年)の社員数は109人、埼玉工場は30名(p12の一番下記述)、50歳以上の社員が7割ということだそうです。
つまり、それから13年経った現在、2007年当時50代だった社員はすでに退職していると思われますから、新入社員をこの間採ったかは分かりませんが、現在の社員数はそう多くないことが伺えます。

卒園式に行ってきた

早いもので、娘もこの春、保育園を卒園して小学生になります。

新型コロナウイルス(COVID-19)の影響で、様々なイベントが中止されている昨今、卒園式もどうなるかと思いましたが、規模縮小し、保護者1名のみの参加、毎年参加していた在園生は不参加、演目も一部取りやめとなりましたが、式自体は行われました。

4K動画からのスチル切り出し

流石に6歳児ともなると、大人の想像以上にしっかりしているな、という印象でした。自分が同じ頃どうだったんだろうな?

例年、1人ずつ卒園証書授与らしいのですが、今年は規模縮小ということで、代表の園児1人が授与でしたが、なんとその役がウチの娘でした!
しっかりやれていました。

プライベートな写真ばかりなので、載せられそうなのは、上のGX7MK2で撮った4K動画のスチル切り出しくらいですが、もはやWebにフルHDの解像度に落として掲載するくらいの画質に耐えうるのだから、技術は進歩したものです。8K動画なんてのは、まだまだ一般には不要ではないかと…。

というわけで、無事卒園式も終了、といっても保育園なので、3月末までは登園します。それより、4月以降、どうなるやら。

それまでにある程度COVID-19騒ぎも落ち着くといいのですが。

東京ディズニーシーに行ってきた

行ってきました。早起きして。

職場のイベントなので、入場料自体はかかっていないのですが、駐車場代、中での飲食とお土産、行けば結構かかりますよね…

とまあ、現実的なお話はこれくらいにして、夢の国のお話を。といってもそこは私の視点ですから(笑

TDS入り口の地球
TDS入り口の地球

入場は8時半以降に。この日は8時から入場開始でしたが、どのみちその時間運んでいて入場が流れないので、しばらくしてからのほうがスムーズです。と言っても手荷物検査もあり、時間がかかることに変わりはないですけど…。

S.S. COLUMBIA(コロムビア号)は、1900年代前半当時の客船を模した建物で、タートル・トークの待ち時間、中の展示を色々見ると、ちゃんと作り込んであるんですよ。設計図面とか、当数とか新聞広告とか。

この時代の蒸気タービン客船は、煙突の大きさと数が豪華さの象徴で、デザインの一部でした。中にはダミーの煙突を搭載する船もあったくらいです。

実際の船より若干寸詰まり感はありますが(土地の広さの制約?)、船体のリベットとか、よくできています。

この鴨、遠目にはきれいに並びすぎていて、TDSが並べたダミーかと思ったら、普通に生きている鴨でした! ここで餌付けしているのか、自然と寄ってきたのか?

レジ番号C-3O

レジ番号がC-3POの複葉機の飛行艇。紅の豚を彷彿とさせますが、あの映画のポルコロッソの機体は、架空のものなので、この機体が現実の何かを模したのかは不明です。世界観は1920年代ですね。

ミッキーと写真撮りましたが、並んでいると時々顔を出してくれたりシます。

プロカメラマンのお姉さんたちは、CanonのAPS-C機を使用していました。(メーカー機種名パーマセルテープらしきもので隠していました)はレンズはEF-S 15-85mmで、ズーミングが多いせいか、レンズは鏡胴がテカテカになっていました。自分たちのカメラでも1枚撮ってくれます。

ホライズンベイ・レストラン

お昼! ちなみに写真のステーキは、娘のです…。自分は余りをいただきました。だって全員分頼んだら高いんですもの…。

何だかんだで結局夜までいまして、帰ろうと思ったら娘がお腹へったと…。ええ結局中で食べまして。

カフェ・ポルトフィーノ

これ食べたいと。最近肉も好きな娘さんですです。美味しゅうございました。

プロメテウス火山

最後に火山のドッカン撮りたかったなぁ… くすぶっているけどなかなか火を吹いてくれません。結局20時近くまでいましたとさ。

所沢航空記念公園へ行ってきた

正月休みも終わり、今日から平常運転ですね…。子供がいると、なんだか休んでいるのか休んでいないのかよくわかりませんね。

とは言え、当ブログのWordPressで色々いじれたのとか、行きたい飲み会、酒屋に行けたとか、そこそこ充実していたかな。

というわけで、もう2日前ですが、先日土曜日は、妻が出勤だったので、子どもたちを連れて、所沢航空記念公園へ行ってきました。

午前中は天気が良くて少し暑いくらい。この周辺は渋滞がひどいので、あまり通りたくないのですが、今回は午前中に行ったのと、比較的広い公園東側の駐車場だったので、並ばず駐車できました。記念館側や、国道463号線沿いの南駐車場は混むので、避けたほうが無難ですね。

凧揚げができる!

凧遊びができる

記念館の前では、凧揚げをする家族が沢山いました。近年は凧揚げ禁止な公園も多い中、ここは大丈夫なようですね。今度はタコを買って持っていきたいですね。

カーチスC-46A(EC-46D)

所沢航空記念公園といえば、屋外展示機のカーチスC-46Aコマンドーです。展示機の91-1143号機は、自衛隊に中古として導入後に、電子線訓練用の国産電子戦装置J/ALQ-1を搭載したEC-46Dに改造された機体です。

ちょこんと黒いレドームが機体上部にありますが、他に機体はさらに機種にも黒いレドームを装備していたようで、写真を検索すると、3機改造されたEC-46Dはそれぞれレドームの形状や装備位置が異なります。色々試行錯誤していたのでしょうか?

出初式準備中

記念館周辺には、多くの消防車が停まっていて、出初式の準備中でした。1月7日(火)に所沢消防署の出初式があるようですね。

とにかく広くて遊具もたくさん

南側には遊具もあります

とにかく広い所沢航空記念公園。マラソンをする人、野球やサッカー、バスケにテニスをする場所もあり、遊具もあります。夏は人工の小川に水が流れるようですね。

結局1日いっぱい子どもたちは遊んで、帰りの車はぐっすりでした。

放送塔をGX7MK2のダイナミックモノクロームで撮影

さて全然疲れが取れていませんが(笑)、今日から本格始動と行きましょう。

百里基地航空祭2019 最後のファントム祭り

2019年12月1日に開催された、航空自衛隊百里基地航空祭の写真です。

ファントム部隊最後の航空祭となった今回は、今年度いっぱいで解隊され、全機退役する、第501飛行隊のRF-4E/RF-4EJ偵察機、そして2020年度いっぱいで退役となるファントム最後の戦闘機部隊、第301飛行隊が主役です。

ファントムファンにとっても特別な航空祭で、国内のみならず、海外からのファンも多く訪れていました。

ファントムを現在も運用する国は、自衛隊以外ではお隣韓国、トルコ、ギリシャ、イランがありますが、とりわけカメラを向けやすいのは、自衛隊のファントムが随一と言っていいでしょう。

早朝は、地上展示機を中心に撮影。生憎の曇り空で、時折晴れ間が指す微妙な天候、前日の事前特別公開では晴れだったので、やはり本番は曇るというジンクスは、昨年に引き続きあるようです。

午前中のフライトは、まずファントム2機による気象状況確認、そして戦闘機型と偵察機型ファントム6機による経過飛行、捜索救難隊のU-125とUH-60Jの救難捜索展示、ゲスト機のF-15Jの機動展示でした。

部分的に晴れたりする場面もありましたが、やや残念な天候ながら、303SQのイーグルもなかなかどうして、ファントムに負けない前回飛行で展示してくれたのが良かったです。A/B全開での展示でした。

途中、飛ばしてはいけないはずのドローンを飛ばした観客がいたようで、予定時間が変更され、一時はどうなるかと思いましたが、演目自体はやや時間がずれたものの、全て行われたようです。

そしてブルーインパルス。昨年は来なかったブルーインパルスですが、今回は百里基地にも訪れました。しかも、午前中最後の時間でのプログラム、つまり、ファントムに花を持たせて、アンカーを譲った形になります。

口の悪い人に言わせると、ブルーインパルスが来ることで、観客数が増えてしまう、他にフライト時間が短くなる、なんて声もありましたが、まあこれはこれで。

残念ながら、雲が厚く、お割くらいに晴れ間が出てくるという、やや残念な展開となりました。それでも、区分はいくつか知りませんが、割とよく演目をやってくれたように思います。

そして午後、晴れました! 時々雲が来るので、状況によりけりでしたが、元々曇りの予報で飽きられめていましたが、晴れただけでも満足。ただし、百里基地の場合、エプロンからの撮影は、午後は逆光になってしまうため、写真的には辛い部分もあります。

とは言え、機動飛行、スクランブル発進を模した展示とAGG、リコンファントムによる偵察飛行、どれも良かったです。

色々撮影位置を移動した結果、撮り逃したものもなくはないですし、失敗も多々ありましたが、最後のファントム主役の航空祭、思う存分撮れたと思います。

今回は地上展示に、昨年度いっぱいで解隊、退役した第302飛行隊のオジロスペマファントムも展示されていて、これらに再び会えたのが良かったです。また、リコンファントムのスペマも、航空祭直前に退役した905号機を含め展示されていました。

終わってみれば、後半は晴れて予想外によく撮れた(天候的に)印象です。

これでファントムがメインの航空祭は終了。第301飛行隊は来年度いっぱいまで飛ぶので、来年度も他の基地の航空祭では見ることができると思いますが、百里基地は2020年度は航空観閲式のため、航空祭は実施されないため、今回が最後となります。そして2年後には、F-2の基地として、F-2メインな航空祭になることでしょう。

ファントムの一時代が幕を閉じる最後を、今後も見届けたいと改めて思った航空祭でした。

令和元年度自衛隊音楽まつり リハーサル

令和元年度の自衛隊音楽まつり、2019年11月29日(金)のリハーサルですが、チケットが当選しましたので、行ってきました。

今回、調子に乗って、動画を取りまくったら、中盤で32GBのSDカードのメモリが一杯になるというハプニングも。4K動画だと、32GBでは全然足りませんね。慌ててかばんにあった骨董品のメモリカードで、動画は諦めてスチルに専念しました。

今回は、海外からはベトナム軍やドイツ軍も参加していて、どちらも初めて見ることが出来ました。

令和元年度自衛隊音楽まつり オープニング動画

演奏もさることながら、演出もとても良かったです。本当に素晴らしかったです。

抽選でしか行けないため、なかなか見る機会はないかもしれませんが、運良く行ける機会があったならば、是非足を運んでみてください。音楽による平和外交の重要性を感じた次第。