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【埼玉】2007年以来18年ぶりに白岩集落を訪問してみた その4

上白岩の散策を終えて、最後に下白岩へ向かいます。

下白岩へ

まだ建物は健在ですね。

道を進むとなんともサイコパスな状況を目撃しました。

ナンデスカ?この状況

ナンデスカ?

ハンガーにかかったスーツ、いや背広と言ったほうが良いかな? 電柱や電柱支持ワイヤーに引っかかっていました。
さすがに廃墟歴四半世紀なワタシ、ビビリはしないけど、恐らくこの先の廃屋から持ち出して引っ掛けたいたずらでしょうね。
相応に汚れているので、つい最近の仕業ではないにしろ、この何ヶ月かで行われたことでしょう。こういういたずらは本当に辞めてほしいですね。

サイコパスないたずらを見つつ、廃屋を眺めます。

こちらの住宅は、2007年当時は窓も扉も閉ざされていて、中の様子を見ることは出来なかったと思われます。
現在では窓や扉が破損した結果、中が見える状態に。先程のサイコパスなスーツ、いや背広はもしかしたらこのお宅のタンスにあったものかもしれません。

2007年当時のこのお宅付近の写真は、あまり撮っていないようです。

2槽式洗濯機は変わらず現存していますが、やはり2007年と2025年では、窓や扉が徐々に壊れて言っている様子が見て取れますね。

もう1軒のお宅、表札がありお名前もありましたが、名字は伏せておきます。

誰かが写真を取ってきてこの縁側に置いたのでしょうね。2025年時点では扉が開いているし、雨戸もなくなって中が見える状態に。

2007年時点では扉は締まり、雨戸も全て存在しました。
しかし2階部分の一部の雨戸は外れていますね。こうして少しずつ雨戸も崩壊して外れていったのでしょう。
とにかく2007年時点では、閉ざされた廃屋で、内部をうかがい知ることは出来ませんでした。

時間の関係で2025年は訪問していない2007年の下白岩の写真も掲載しておきます。

現在では恐らく倒壊して失われた光景と思われます。

以上、4回に分けて記載した2007年と2025年の白岩集落の写真、如何だったでしょうか?
18年の時の経過は残酷ではあるけど、案外残っているものもあり、失われたものありと、それらを記録に残せたのは良かったかなと個人的に思います。

そして2007年の写真は当時のブログに掲載していたものを、解像度をアップして再掲しました。
また十年後にでも、機会がれば訪れてみたいと思います。

【埼玉】2007年以来18年ぶりに白岩集落を訪問してみた その3

上白岩地区でも象徴的な物件です。

かつては多くの残留物がありました。
しかし、時を経て痛みも激しくなり、床はほぼ崩壊してしまいました。そして残留物も流出消失が進みました。
少しずつ崩壊して風通しが良くなった結果ですね。

この状況を見ると、向こう数年で倒壊する可能性もありそうです。
レコードは石野真子のベストヒットアルバムで、1979年発売です。ジャケットはどこに行ったのかな? 以前は車雑誌も多く残されていましたが、今はケンメリが載っている雑誌が1冊かろうじて残っているだけです。
裏手から撮った2階部分にはNationalのテレビの箱が。高級品だったテレビですが、型式はTC-39Gとあり、検索すると19インチの真空管白黒テレビ、昭和38年(1963年)の製品ですね。箱が現存していることに驚きですが、テレビはすでに見当たらないですね。

そして2007年3月はと言うと…

こちらはフィルムで撮影↓

あの有名だったこの物件のペダルカー、スモールバードに子供用の自転車が。

そしてこちらはCOOLPIX 5400で撮影↓

スモールバードの隣には初代フェアレディZのおもちゃが。これも1969年~のものでしょうね。この家がいつまで使われたかが不明ですが、残留物は学習机など70年代のものが多く、その頃にお子さんがいたということでしょうね。やがてそのお子さんは成長して、車に興味を持つようになった、そんな背景が伺えます。
この撮影時点ではまた床も健在で、多くの生活の跡が残っていました。
18年の時の経過は、あらゆるものを無にしてしまいました。

National TC-39G 真空管白黒テレビ 精巧な人工頭脳搭載!

そして2007年、外に転がっていたテレビがまさに、現在も箱だけが残るNationalの白黒テレビTC-39G。なんとこの時代に”精巧な人工頭脳”を搭載していたのが売りだったようです。
残念ながら2025年にこのテレビは見当たらず、土に帰ってしまったのでしょう。

それでは2025年に戻ります。周辺の写真を撮りつつ、もと来た道を戻ります。

何故かウルフルズのCDが供えられていました。もと来た道を戻りながら何枚か。社有地につき~の看板、どれも会社撤退したために社名が塗りつぶされていましたが、よく見ると「JFEミネラル」と書かれていますね。

時間がまだあったので、下白岩へ行ってみます。

続く…(次回で最後です)

【埼玉】2007年以来18年ぶりに白岩集落を訪問してみた その2

前回の続きです。

上白岩地区に向けて、登山道を上がっていきます。

途中、電柱がありましたが、電力線は張られておらず、撤去されてリール上に巻かれていました。
鉱山施設が廃止されたためでしょうね。この上の集落も無人になって久しく、もはや電線は必要ないのでしょう。

重複しますが、2007年3月の写真では、当然電力線は使用されていました。

2007年3月当時はまだ電柱の電力線は使用されていた

やはり18年の差は大きいですね。

登山道も上白岩集落手前は割と勾配が大きくなり、足元も滑りやすいので気をつけてくださいね。

上白岩に到着です。

上白岩集落へ

やはり18年の時の経過は大きいですね。2007年当時よりも、当然ながらあらゆるものの崩壊が進んでいます。

上の家屋にはお子さんもいたのでしょうね。ラジコンは80年代と思われるハイラックス、アンテナの形状もあの時代のものですね。落ちていた靴も子供サイズでした。
引っ越した際に、かなりのものを残留させたまま出ていったのがわかります。車が入れないこの場所だと、あらゆるものは人力で運んでいたのでしょうから、荷物の搬出は難しかったのでしょうね。
でも、どうやって搬入したのだろう。やはり人力なのかな?

転がっているガス瞬間湯沸かし器。今20代以下の人は見たことがないのでは? 現在では給湯器で各蛇口に温水供給できますが、昔はこうした後付のガス瞬間湯沸かし器が台所に据え付けられて、ここがお風呂以外唯一お湯が出せました。自分の子供の頃はこういうのが使われていましたね。直ぐ温かいお湯が出るのは良かったですけど、点火が怖かったなぁ…。
型式はパロマのPH-5QBとあり、調べると製造は昭和57~59年(1982~84年)とありました。残留物は70~80年代製造のものが多いですね。

さて18年前の2007年3月の写真です。

2007年3月はやはり残留物は多く、子供の遊具が残っていたり、給湯器はまだちゃんと台所に据え付けられていました。後半の写真の建物は現在倒壊、または解体されたものです。
あの当時、来ていてよかったと思います。こうして写真として残せたのだから。
上の写真はいずれもフィルムで撮影しスキャンしたものです。

そしてCOOLPIX 5400での撮影はこちら。

やっぱりこの時代のデジカメは、色がフィルムと比較するとちょっと変。あえて補正せず掲載します。
車雑誌と無線機があったこの建物は、2025年倒壊してしまっています。

では2025年に戻り、奥に進みます。

2007年当時は雨戸で閉ざされていたお宅です。しかし18年の時の経過は残酷で、雨戸は崩壊して内部が見える状態になっていました。お風呂が離れになっているのは時代を感じさせます。冷蔵庫も2台ありますが、これを運ぶのは大変だったのではと思いますね。
残留物はやはり80年代を感じさせるもので、置かれていた雑誌のTVガイドをめくってみると、1982年の年末、1983年年始の情報が掲載されていました。あの時代のTVガイド誌はこんなに分厚かったのですね。インターネットが影も形もなかった時代ですからね。
広告もmagnaxのビデオテープ(VHSとベータ)で、magnaxはコニカでおなじみ小西六と米アンペックスの合弁会社小西六アンペックスのブランドでした。後にアンペックスが民生用磁気テープ事業から撤退したために合弁事業も解消され、コニカが単独でテープメディアを販売するに至ります。

2007年3月はと言うと…

2007年3月時点では落書きもなく、雨戸でしっかり閉ざされていた

この当時は雨戸でしっかり閉ざされていて、ここを引き払うときに入口もしっかり封鎖したのでしょうね。
しかし時の経過は残酷ですね。

ではお向かいに移動します。

続く…

【埼玉】2007年以来18年ぶりに白岩集落を訪問してみた その1

埼玉県飯能市のやまね酒造でお酒を買った後、せっかくここまで足を延ばしたので、18年ぶりに白岩集落の現状を見たくなって行ってきました。
ま、実は撮影の準備もしていたわけですが。この冬休み、予定が色々変わって撮影行けないと思っていましたが、2年ぶりに恒例の廃墟散策できました。

10年ひと昔と言うけれど、18年ともなればふた昔と言うことで、前回訪問時からの変化も大きいはず。

白岩集落へは旧JFEミネラル武蔵野鉱業所の脇の登山道を登っておおよそ30分弱のルートです。

JFEミネラル武蔵野鉱業所は2007年当時は稼働していましたが、武蔵白岩鉱山が2015年に閉山したために、鉱業所設備も同年に解体されました。

登山道の麓、現在と、かつてあったJFEミネラル武蔵野鉱業所の様子です。
この設備の脇にある登山道を登っていきました。

今回は、2007年5月に撮影した写真と合わせてご覧いただければと思います。当時はまだフィルム撮影がメイン(Nikon F90Xs)、デジタルはコンデジ(Nikon COOLPIX 5400)がサブカメラという立ち位置でした。

2025年1月現在では設備は解体され、基礎が残るのみです。
またこの土地は現在個人の私有地となっていて、立入禁止となっていました。

登山道を上がっていきます。
かつてはこの登山道から鉱業所内の様子をうかがうことができました。当時はまだ採取した石灰を運搬するトロッコが稼働していました。
現在ではその名残のレールが一部残っています。

1月に訪問にもかかわらず雪がない(気温は10℃近く)のは、温暖化の影響でしょうね。

では2007年3月の様子はと言うと…

2007年当時は現役稼働中の鉱業所、トロッコも現役でしたね。
上の写真のうち、同じようなアングルを比較してみましょう。

この建物は健在でしたが、左側にあった小屋は、18年後の現在は東海したようで見当たりませんね。

林道を更に奥へ進みます。

崩壊しかかった橋と代わりの橋
ここは登山道のため、歩けるようには整備されています。この橋は18年前にも健在だったはずなんですが、18年前は撮影していないようです。

この先を進むと、森林を抜けて一度開けた場所に出ます。

傾斜地運搬用のレールがかろうじて残っていますが、鉱業所施設は解体済みで基礎のみ残っていました。

18年前はと言うと…

建物が存在していますね。古いけど現役施設でした。

白岩集落へはまだまだです。続く…

【栃木】旧石裂小学校とその周辺(2007/2010/2012年)

栃木県鹿沼市に建造中の南摩ダム、そのさらに上にかつてあった石裂集落は、かつて鉱山があったことから栄えていましたが、戦後鉱山の採掘量が減少したことから、次第に人口減少していきました。
そこにあった旧石裂小学校は、人口減少とともに1964(昭和39)年に閉校し、しばらくは集会場として使われていたものの、それも1980年代に別の建物ができてからは、この旧石裂小学校は使われなくなりました。使われなくなってから四半世紀、建造からは果たして何年経過したのか?

2007年7月

初めてこの旧石裂小学校に出会ったのは2007年、南摩ダム建造予定地や旧梶又小学校を散策した後、たまたま道を上がって走っていて見つけました。

また周辺には良い感じに古びた建物や看板も残っていて、かつて集落として栄えていた面影を伺わせました。
この時点では右側の教員棟はボロボロになりながらまだ健在でした。

2010年6月

3年後の2010年。校舎は窓ガラスの損壊が進んでいるものの建物は健在。しかし教員棟は更に崩壊が進みつつありました。

また向かいのお寺の建物も崩壊が始まっていました。

校舎と元愛車のアコードユーロR

2012年8月

そして最後に撮影した2012年。枚数は少なめです。校舎は健在でしたが、規制線が張られていました。
隣りにあった教員棟は撮影していません。確かもうなかったような? 倒壊しっぱなしだったら撮っていたと思いますが、多分この時点で残っていなかった(解体された?)のでしょうね。

なお、古びた仏壇仏具のお店の看板は、2024年ストリートビューに写っていて健在のようです。

しかし、対岸にあったお寺の古い家屋は2014年時点までかなり崩壊が進んだところまでは存在しましたが、かなり飛んだ2023年時点では存在せず、この間に解体されたようです。

2024年現在も旧石裂小学校は健在です。いつかは再訪したいですね。

【栃木】南摩ダム建造に伴い廃校となった旧梶又小学校、の跡地(2012年撮影)

の跡地、とあるように、前回の2010年の訪問の同年に、ついに旧梶又小学校は解体されました。
なので、どちらかというと、南摩ダム建造で通行できなくなる旧道の様子です。

2012年夏、転勤で栃木から東京に引っ越すことになりました。間もなく引っ越しという8月後半、もうしばらく来ることもないだろうと訪問しました。

この時点で、旧道は走行できましたが、ダム建造に向けた新道の建造も進んでいました。上の写真はダム建設地そのもの、GPSデータを付与していますので、然るべき方法でご確認いただければと思います。

真夏の南摩川は、相変わらず流量も少なかったですね。
そして、県道177号線新道のトンネルが既に完成しているのを確認したので、近づいてみました。面白いことに、新道はまだアスファルトが敷かれていない砂利道でしたが、特に通行止めにされてはおらず、トンネルの近くまでは車で入ることができました。

ちょうど現在のGoogleマップではこの地点です。

トンネル名は西口笹トンネルで、ちょうどこの撮影の1ヶ月前の2012年7月に施工完了したようです。しかし実際に一般車両が通れるようになったのは2021年9月からで、建造から実に9年以上も通ることができなかったようです。
世の中には完成しながらも道路計画中止で使われなかったトンネルもあるので、ここはまだマシですが、南摩ダムの構想が半世紀以上に渡り、あまりにも長期化しすぎたのは問題でしょうね。

そして旧梶又小学校前の南摩川は枯れていました。この年は雨が少なかったようですが、こんな状況ですから、ここに果たしてダムが作って機能するのか?という疑問は最後まで払拭できませんでしたね。ただ、現在の構想を見ると、他の川からも取水して取り込むようなので、何が何でも水は溜め込むのでしょうね。
旧梶又小学校の面影は、学童の横断歩道の標識や鳥獣保護区の看板で残るのみでした。
2年前の撮影した土研式雨水曝露試験の容器は健在でした。

この撮影から9年後の2021年9月には新道が開通し、旧道は一部通行止めとなったようです。

さて、もう二度と通ることのできないこの旧道ですが、南摩ダム自体はまだ見たことがなく、いずれ何処かで訪問したいと思っています。今年何処かで行ってみたいけど…

【栃木】南摩ダム建造に伴い廃校となった旧梶又小学校(2010年撮影)

前回のブログで紹介した2007年撮影の栃木県鹿沼市にあった旧梶又小学校と南摩ダム建造地ですが、2010年6月にも訪問し撮影しています。
前回と違うのは、当時まだデジタル一眼レフを持っていなくて、古いコンデジのCOOLPIX 5400での撮影でしたが、2010年はデジタル一眼レフのNikon D300を導入済み、加えてGPSユニットも導入して撮影地のGPSデータを写真に付与できるようになったこと、これはダムで水没する地域の水没前の姿を捉える貴重なデータになるかなと思っています。撮影当時も今も。

まずはダム本体建造予定付近から。写真にGPSデータを付与していますので、適当な手段でご確認ください。今となってはダム本体の真下になっている旧道(当時は通行できた)です。もう二度と立ち入れない場所、風景です。

このときは、まだダム本体の工事は着工していないものの、南摩川の治水工事が始まり、またダム建設に伴う迂回のための新道の建造が進んでいました。ダム予定地手前の麓には工事の騒音を測るマイクが設置され、仮設の工事事務所も設置、ダム反対派の看板はなくなり、周辺の谷の補強整備工事も進められていました。

ダム本体の前に、護岸工事?が進められていて、もうこの時点でダム建造は概ね決まってはいたのでしょうけど、ダム事業再検証も同時に進められていた時期でした。

この場所は水没予定地ですが、工事用の車両が多く通るためか、道路が綺麗に整備されていました。ダムが完成すると水没します。

更に上がって旧梶又小学校へ。
小学校の道路を挟んで向かいにある南摩川は相変わらずこの程度の水量でした。
実際のダムはこの南摩川以外に、大芦川と、更に黒川からも水を取り込むようですが、それで間に合うのかしら?

旧梶又小学校の道路を挟んだ向かいの南摩川の様子

2010年の旧梶又小学校は工事用の資材や土研式雨水曝露試験の容器が置かれていました。
そして規制線が貼られていましたが、実はこの2010年の1月に、この梶又小学校の井戸から死体が発見されるという死体遺棄事件が発生ていました。蓋をされて石が積まれた下の写真が、該当の井戸なのかな? 前年の2009年に鹿児島県で行方不明になった方が、不動産関係のトラブルで殺害され、何故か遠い栃木県の山奥のこの井戸に遺体を息されたという事件でした。

井戸の蓋に石が積まれているのはそういう意味だったのか…わかりませんけど。

前回の訪問から3年、経年による一部破損が見られ始め、雑草も伸びた状態。2007年にいた猫たちは姿を消し、火災報知器のランプも消灯していることから、電気も切られてたようです。

そして更に2年後の2012年にも訪問しています。この時転勤が決まり、東京に引っ越す間近での撮影となりました。
それはまた次回に。

4本のNIKKOR 35mm

NIKKOR Zの35mmはf/1.2が出るとの噂もありますが、スナップはf/1.8で十分と思っているので、NIKKOR Z 35mm f/1.8 Sはいつか欲しいと思っていたレンズの1つです。

これで手持ちの一眼用の35mmは4本となりました。好きなんですねぇ。

左から右へ行くにつれ新しくなっていく、そして大きくなっていく…f値が違うから一概に言えませんが

Nikkor-S Auto 35mm F2.8
AI AF Nikkor 35mm f/2D
AF-S NIKKOR 35mm f/1.8G ED
NIKKOR Z 35mm f/1.8 S

どのレンズもNikon Zマウント機なら使えます。FマウントレンズはマウントアダプターFTZ IIを介して取付可能。厳密には一番古いNikkor-* Auto(通称オートニッコール)はFTZ IIは公差の問題で公式には取付不可能としているものの、そのNikon自身がNikonミュージアムの企画展で、自己責任の下FTZ IIにオートニッコールを取付けて撮影していて、個体差で取付が渋いものがあるようですが、概ね問題ないと思っています。

ということは…4本のレンズで撮り比べできちゃうんですよね。
これは撮影が結構大変なので、そのうちやろうと思いますが、まずはNIKKOR Z 35mm f/1.8 Sの特性をつかんでいきたいと思います。


ところで…Photomic FTNの電池がついに切れてしまいました…。アダプタ買わないと。

【栃木】五十里(いかり)の廃墟 – 2009年撮影

今から15年前の2009年1月に撮影した、栃木県日光市五十里(いかり)の廃墟。
こちらは廃墟検索地図さんにも掲載のない物件です。

五十里ダムのダム湖は凍結していました

この辺りは、西側に遡ると、平家の落ち武者が住み着いた湯西川があり、湯西川ダムが上流に存在します。この写真の撮影当時は、まだ湯西川ダムは建造中で、現在水没してしまった道路も、当時はまだ走行できましたが、非常に密が狭くて曲がりくねっていて、冬季はなかなかの難所でした。今は道路が整備されそんなことはなくなりましたが。

話を戻すと、物件は国道121号線の旧道から入ったところにありますが、現在この旧道は通行止めになっています。撮影当時は通行可能でした。

この分岐の右側を上がる

わずかに雪が残っていますね。今年の状況はどうなんだろう? 温暖化の影響か、栃木県の北部も以前よりは雪も少ないようで、スキー場も難儀しているようです。

なかなか立派な家屋です。しかし反対側は写真の通り崩壊して中が丸見えになっていました。東北や北海道ほど雪は降らないにしろ、昔はもっと降っていたのでしょうから、積雪によるダメージはそれなりにありますね。

たばこ販売店の表示、昔は藤原町大字五十里337番地だったようです

犬を飼っていたようです。昭和38年度(1963年)のプレートが最後でした。少なくとも、この建物は昭和30年代には存在したことになります。築年数は撮影当時の2009年で半世紀は経過していることになります。
たばこ販売店だったようですが、建物が大きいので、たばこ販売以外も行っていたのかもしれません。

扉には板を打ち付けてあり、ある時点から閉鎖し、それから長い年月が経過した、そんな感じに見えます。旧道化した国道を通る車は極端に減り、ここでの商売を断念したのでしょうか? ただ、旧道化したのは2004年のようで、それよりもっと前に廃屋化した印象です。

それにしても現役当時は立派で建物だったのでしょう。丸窓の意匠もなかなか雰囲気が出ています。

たばこ屋は自販機化が進み、現在ではあまり見かけなくなりました。かつてたばこの看板が出ていたお店は、今はほぼ絶滅してしまいましたね。

今やめっきり見かけなくなった「たばこ」の看板

私も栃木を離れて12年。宇都宮まで出向くことはあっても、日光方面まではなかなか行けなくなりましたし、まして湯西川方面ともなると、かなり遠くなってしまったので、現在のこの場所がどうなっているかはわかりません。が、15年前に崩壊が始まっていたのを考えると、現在は原型を留めていない可能性が高そうです。

【2008年撮影】三峰ロープウェイ旧三峰山頂駅舎

過去に撮影した写真を、新たにRAW現像し直してみました。RAW現像ソフトの進歩は日進月歩ですね。今回はLightroom Classicで実施しました。

埼玉県は三峰山の山頂までの三峰ロープウェイの歴史は古く、1939年(昭和14年)に初代のロープウェイが開通しました。
初代区間は1964年(昭和39年)にロープウェイの搬器(いわゆるゴンドラ)の変更(定員21名から71名に大型化)に伴い運行区間も若干変更されたため、駅舎も変更されました。
麓の駅舎の場所は新旧とも同じ場所でしたが、山頂駅は駅舎の場所が異なっていて、旧駅舎は新駅舎よりもやや下った場所にありました。
三峯神社まで少し遠かったのもあって、恐らくもう少し神社に近い場所に新駅舎設置の要望があったのでしょうか? 搬器(ゴンドラ)の大型化も、戦後の混乱期から落ち着いて、観光客が増えたためと聞いています。

さて旧山頂駅は新駅舎に移転した後は、長らく放置されていました。新駅舎で運行していたロープウェイは2006年に設備の老朽化と金属疲労の発見により運休となり、改修更新に多額の費用がかかることから、そのまま2007年にロープウェイ自体の廃止が決定、2007年12月より、新駅舎とともに旧駅舎も取り壊されることになりました。

皮肉なことに、旧駅舎は廃駅から40年以上放置された挙げ句、新駅舎と共に取り壊されることになったのです。山頂旧駅舎は、2009年12月から取り壊しが始まりました。
その直前の2009年11月に旧駅舎を撮影しました。

解体準備のため、長いこと放置されていたと思われる旧駅舎へのアプローチのために樹木の伐採が行われていました。

旧駅舎は40年以上放置されており、落書きや空き缶も時代を感じさせるものでした。

旧駅舎までのゴンドラは、新駅舎までの索条(ワイヤロープ)、支持鉄塔が設置された際に恐らく撤去されたのでしょう。ロープウェイらしきものは駅舎以外残っていません。
麓を望遠レンズで覗くと、大輪駅が見えました。すでにこの時点で、新経路の索条も撤去されて、まだ駅舎だけが残っている状態でした。

木造で趣のある建物、戦前の建築で、私の通っていた小学校も昭和9年建造だったため(卒業と同時に取り壊されて鉄筋校舎になりました)、ペンキの色合いや窓枠など、昭和初期を感じさせる駅舎は懐かしさを感じました。

すでにこの建物は取り壊しから十数年が経過しました。こうした昭和初期の建物は21世紀も20年を超えた現在、非常に少なくなっています。
自社をモチーフとしたという建物は趣があり、現存しなくなってもなお、写真として語り継げたらなと思います。

撮影はNikon D300にAF-S DX 18-70mm, AI AF 35mm f/2D, AI AF24mm f/2.8D, AF-S 80-200mm f/2.8Dです。
RAW撮影していたため、現代のソフトでしっかりとした画質で再現像できました。色やAWBの転び方などは、時代を感じさせる部分もありますが、最終的な出力は問題ない品質ですね。

なお、麓の大輪駅と新山頂駅の写真はこちらにまとめています。