日産60型ファイアパトロール

懐かしのボンネット消防車。ボンネット消防車というと、絵本では「しょうぼうじどうしゃじぷた」が有名ですが、写真はジープではなく、日産ファイアパトロール60型です。

撮影は、2004年8月撮影、山梨県は東山梨郡(現山梨市)の牧丘町と思われます。消防団の車両だったようで、牧丘町はテープで消されているものの、うっすら見えます。

ドアのない車内を見ると、四駆らしく副変速機付きです。都市部用に二駆モデルもあったようですが、ここは山梨ですから、流石に四駆モデルですね。

「甲斐(かい)日産納」というステッカーが、山梨だなぁと感じさせますね。

ベースとなった日産パトロールは、1960~80年まで販売されていたようですが、写真の消防車仕様のファイアパトロールは、前照灯(ヘッドライト)の突き出しが大きいという特徴から、1975~80年の間の製造と思われます。

この撮影当時は、車齢24~29年ということになりますが、消防団の消防車ということで、恐らく現役当時は消防団の車庫保管、走行距離も一般乗用車より極端に短い場合が多く、写真の車両も現役を退いてなお、状態は比較的良さそうでした。
まだ現役を退いてからそう経過していなかったのでしょうね。

Googleストリートビューで、撮影場所を探してみたのですが、残念ながらそれらしい場所は特定できず、もちろんこの車両も見つけられませんでした。写真に映る送電線と橋から推測してみたのですが…。

恐らくもうないのでしょうけど、案外海外に買い取られて活躍していたりするのかもしれませんね。

奥多摩湖の廃ロープウェイ(2003年撮影)

ブログネタがないときは、過去撮影アーカイブを再編集してアップしています。

今回は恐らく関東で現存する廃墟では最も有名な廃墟の1つ、奥多摩湖の 「奥多摩湖ロープウェイ」(川野ロープウェイ )。

高度経済成長に進む1962年(昭和37年)に、奥多摩湖の小河内(おごうち)観光開発株式会社が運営を開始しました。
当時は湖の対岸へ移動するには、湖畔を大回りするしかなかったため、観光客で賑わったようです。
しかし、数年後には橋ができたために、利用者が激減し、わずか4年後の1966年(昭和41年)には運行の一時停止、そしてそのまま1975年(昭和50年)には運行休止申請が提出されたそうです。

1つの疑問「深山橋」「三頭橋」架設年

ロープウェイの建造開始から数年後橋が出来た…というのは、この奥多摩ロープウェイが運行休止につながる要因とされているのですが、調べてみたところ、この奥多摩ロープウェイ近くの橋である「深山橋」は、架設年1957年(昭和32年)となっている資料を見つけました(表15参照)。
この情報が正しければ、ロープウェイより橋のほうが先に建造されていることになります。

一方、もう1つの近隣の橋である「三頭橋」も、調べたところ架設年1969年(昭和44年)となっています。ロープウェイの運行一時停止より3年も後になります。

つまり、従来言われていた、橋の完成により利用客が減ったというのは、違うのではないか?という疑念があるわけです。

Wikipediaによれば、奥多摩湖ロープウェイの利用者数は、1962年で約6万人、一時休止する1966年では9.7万人と増員しているものの、例えば私の地元の函館にある函館山ロープウェイは、年間100万人以上の観光客を乗せています。
もちろんロープウェイの規模は全く違いますが(とは言え昔は函館山ロープウェイも45人乗りの小さなゴンドラでした)、年間10万人に届かない利用者数が、不採算になっていた可能性も否めません。

奥多摩湖観光株式会社の実態は不明

現在、この奥多摩ロープウェイの運営会社は奥多摩湖観光株式会社の所有とされているものの、会社自体が実態不明、つまり実質の所有者が不明であること、また自治体からの撤去費用も高額になるために捻出も難しく、現在もそのまま放置されているとのことです。

2003年撮影の川野駅

撮影は2003年11月となります。当時は川野駅へのアクセスはさほど難しくありませんでしたが、その後、柵の設置などで侵入はできなくなっています。周囲は一般の建物もありますから、無理な侵入は避けましょう。

続いて対岸へ移動しました。三頭山口駅側は、現在でもアクセスは難しくはないようですが、その分荒らされているため、情緒という点では、川野駅に劣るような気もします。

あと、この撮影時はまだデジタルではなくフィルムでしたが、2本目のフィルムがモノクロ(IRFORD XP2 SUPER)でして…。

ということで、唐突にモノクロになりますが、当時の雰囲気をお楽しみいただければと思います。

最初の2枚は、奥多摩周遊道路からの撮影。走り屋がたくさんいました。

2003年撮影の三頭山口駅(みとうさんくち駅)

【百里基地】20/2/7の記録

今年初の百里基地撮影です。

仕事の形態が変わって、以前は休日出勤が月に1,2回はあったので、代休で平日休みがあったのですが、それがなくなった今は、休みをとって撮影に行くことに。これがなかなか難しくて。とまあ事情は置いておいて、まもなく終焉を迎える偵察機舞台の501SQ、そして来年度いっぱいでファントムも全機退役というこの時期、三沢からの3SQのF-2の百里移転と、色々変わっていく百里基地を、少しでも撮れたらなぁと思っております。

珍しくE-2Cが来ていました。

RFも909号機は3本タンクともスペマ。もう1ヶ月後には飛ぶ姿を見られなくなるんですね…

RF-4Eは、他にトルコとイランが運用していますが、どちらも現物を見て撮影はなかかな難しいでしょうから、先進国でRF-4Eを見られる事自体貴重です。そら外国からもファンが多く撮影に訪れるわけです。

午後は別ポイントから。晴れているけど、たまたま機体に雲がかかっちゃったかな…。コントラストのない絵に。

ファントムが当たり前だった自分にとっては、これが後1年ってのが信じられませんが、それが現実。

F-2BのSFO(Simulation Flame Out)訓練だそうです。初めてみました。

F-2戦闘機は単発機ですから、エンジンが止まれば(フレームアウト)、推力が失われます。フレームアウトした際の滑空着陸訓練として、エンジンをアイドル状態にして、ギアダウンして旋回しながら、急角度で降りていくのだそうです。

F-2戦闘機は事故率が極めて低く、その事故もエンジンに起因するものは過去になかったと思います。それでも、万が一に備えて、この種の訓練は必要不可欠です。同じ単発機のF-35Aも、同様の訓練は行うのかな?

洋上迷彩のRF-4Eもそうですが、同様にF-2A/Bも撮影が難しいですね、特に色、コントラスト、視認性を落とすための迷彩ですが、撮影する者にとっては、これがパリっと映える写真にするのが中々難しいです。

撮影ポイント移動。E-2Cは午前の機体と機番が違いました。

この辺りから、体調悪化。実は、百里に向けて移動中から、お腹を下し気味で、途中薬局で正露丸を買って服用していました。
が、だんだん体に力が入らなくなって、吐き気とめまいの症状が。

ここで気づきました。先日、子どもたちが胃腸炎になっていたのです。明らかに感染したなと?

もうこの後の撮影はボロボロで、シャッタースピードの間違いやら、フレーミングが明らかに間に合っていないとか、もう色々だめでした。

まだまだ撮りたかったのですが、明らかに体調不良を感じたので、ここで同行者にご挨拶して撤収。

撤収後、F-2の低い上がりが見えて、ああこれ撮りたかったなぁと思いつつも、多分あの体調ではまともに撮れなかった気もします。

ってことで、帰りの運転も結構しんどく、途中仮眠をとってやっとこさ帰宅しました。

早く体調回復させて、次の撮影に備えないとですね。

嫁カメの11 NIKKOR VR 10-30mmの絞り不調

Nikon 1 J3 + 1 NIKKOR VR 10-30mm f/3.5-5.6

先日妻から、Nikon 1 J3で写真が暗く写っちゃう、このレンズ(10-30mm)のときだけ、という相談を受けまして、調査をしていました。

同じ環境下で、 1 NIKKOR VR 10-30mm f/3.5-5.6 を装着したときだけ、確かにプレビュー画像も暗いし、同じf値で明らかに自動感度の上がり方が違います。

室内だと、例えば1 NIKKOR 10mm f/2.8では絞りf5.6でISO1600程度なのに対して、 1 NIKKOR VR 10-30mm f/3.5-5.6だと、同じ焦点距離10mmのf5.6に設定して、最大感度のISO6400まで上昇、多分それでも足りないようで、プレビュー画像が暗くなってしまいます。

やはり10-30mmレンズ、何かおかしいです。このレンズ、以前より不具合は多く、Nikonからもレンズエラーの不具合無償修理が発表されています。

ただし、このレンズはレンズエラーのリコールは既に対応済みで、今回はそれとは別ですね。

よく聞かれる不具合として、絞りエラーがあります。このレンズの絞りの不具合は結構多いようです。

1 NIKKOR 10mm f/2.8 電源OFF時は絞りが全閉となる

上の写真は、1 NIKKOR 10mm f/2.8の電源OFF時の絞りの状態で、電源OFF時(レンズをボディから外した状態も同様)は絞りが全閉となります。
これは、絞りが開きっぱなしだと、太陽光などでセンサやシャッターユニットを焼いてしまうための対策でしょう。比較的小さなレンズとセンサのカメラだと、こうした太陽光などの影響は大きいのかな?

絞りの動作を比較する

というわけで、絞りの動作状態を見てみることに。

まず絞り開放。10mmレンズと比較すると、10-30mmレンズは明らかに絞りが開放になっていません。開放であれば、絞りは開ききっているので、ほぼ円形になるはずです。ところがある程度絞られたままの状態です。もちろん、カメラ上では絞り開放に設定しています。何らかの不具合で、絞りが開ききっていないようです。

ただ、電源OFFにすると、絞りが全閉となるので、絞りが全く動かないわけではなく、全開にならない不具合のようです。

多くのミラーレス用のAFレンズがそうだと思いますが、プレビュー時はある程度絞ると、それ以上は設定値以上には絞られない状態となります。これは、プレビュー時に絞りすぎると、感度が上がりすぎてノイズだらけ、あるいは電子シャッタースピードが極端に下がってしまうので、一定以上は絞られず、シャッターを切るときだけ実絞りとなります。

写真はいずれもf8まで絞った時の状態で、10mmレンズはこれがプレビュー状態で一番絞られた状態です。10-30mmは、より絞りが絞られている感じです。

いずれにしろ、10-30mmは絞りが開ききらないので、不具合には間違いないですね。なんという分かりづらい不具合…。晴天ばかりの撮影だと気づかないですね。

1 NIKKOR VR 10-30mm f/3.5-5.6 は、既に販売が終わった1 NIKKORシリーズのキットレンズですから、中古でも安いですが、妻のJ3のクリーム色と同じ色のレンズは、キットレンズのみでしかなかったために、レンズ単体ではまず出回りません。

ということで、修理に出すしかないですね。中古で買った方が安いですが、中古も同じ不具合が出る可能性が高いですから。

ネットで修理依頼

ってことで、Webで修理依頼をして、レンズを発送してきました。

早いことに、次の日には修理ステータスが更新されましたが、修理代が現時点で、当初見積もりの¥8,760から¥0になっています。

6年前に買ったレンズですが、修理代0円に

不具合が多いレンズだけに、メーカーも保証期限が過ぎても無償修理しているということか?
とりあえず、まだ完了ではないので、最終的に¥0のままになるのか、修理代がかかるのかは不明です。さてどうなるやら?

【豊島屋酒造】屋守(おくのかみ) 純米無調整生 おりがらみ

新規開拓もいいけど、定番もたまには飲みたくなる。

ということで、今回はアサブロ時代から度々紹介しています、東京は東村山の豊島屋酒造、屋守(おくのかみ)の純米無調整生 おりがらみを。

【豊島屋酒造】屋守(おくのかみ) 純米無調整生 おりがらみ

自分がよく言う、うすにごり系は「飲む前から美味い」。このおりがらみもまさにそうで、透明な瓶越しに見えるうっすらとした米の澱を見ながら飲めます(飲めていないw)。

とまあ冗談はさておき、屋守の定常酒として、普通に買えますし、爽やかな吟醸香で、飲み口も甘みも辛さも強すぎずバランスが良い。日本酒入門にピッタリのお酒なんです。

酒米は八反錦

広島県産の八反錦を使用し、精米歩合は麹米50%、掛米55%と純米吟醸と言っても良いのですが、あえて吟醸とは呼んでいないようですね。お値段も高くなく、いつでも買えて美味しい。最高じゃないですか。

なかなか手に入りづらい日本酒も、手に入れた時の喜びは大きいですが、結局は味ですからね。普段から買えるなら、それに越したことはないわけです。

山梨県河口湖畔「ホテル小曲園」の外観 2002年8月撮影

20世紀末から21世紀初頭にかけて、関東甲信越圏の廃墟サイト界隈では絶大な人気を誇った物件が、山梨県は河口湖畔にかつて存在した「ホテル小曲園」でした。

ホテル小曲園の歴史は古く、戦後7年が経過した1952年(昭和27年)に創業し、小曲園グリルといった食堂やパブなども併設していて、高度経済成長とともに増改築を繰り返したそうです。

特に有名だったのは、河口湖を見下ろせる宝石風呂でした。1994年(平成6年)に廃業後、割と短期間で傷んでいったのも、有名観光地だったのもあると思いますが、増改築を繰り返し、古い部分も相応に残っていて、元々老朽化が激しかったものと思われます。

廃業からわずか数年のうちに、有名な廃墟として名を馳せるくらいに、老朽化が進んでいたのでしょう。

Wikipediaその他の解説では、廃業理由として、

手抜き工事により増築に増築を重ね、避難を困難にした複雑な構造だったためにホテルニュージャパン火災以降厳しくなった安全基準の「適合マーク」を取得できなかったためであった。

Wikipedia「小曲園」

としていますが、適合マークってこの時代からありましたっけ? という疑問がありまして。いわゆる「既存不適格建築物」だったのではないかと想像しています。その辺りの法律に詳しい方がいらっしゃいましたら、コメントいただければと思います。

安全に対する法律がまだまだ緩かった1952年創業ですから、その後繰り返し増築するも、いざ老朽化した部分を改修しようにも、その時点での法律により困難、もしくは多額の改修費用がかかることになった思われます。なにせ、斜面に建てられたホテルですから。

個人的に、今写真を見ても、建物の構造物が全体的に華奢に見えるんですよね。

そんなこんなで小曲園ですが、ここは有名観光地で、当時でも撮影は比較的リスクが高かったので、外から眺めるに留めました。
撮影から1年後には、河口湖町の方針により解体が決定し、2004年には完全に解体されました。現在では小曲展望台として開放されています。

オマケ、小曲園の右側のホテル群。ストリートビューで確認したところ、執筆時点では下の写真の建物は、現在でも現役で何よりです。ただ、手前のENEOSは廃業して、取り壊されたようです。

ちなみに、左下に映っているアコードSIRが、当時の愛車でした。
このくらいのサイズの車が丁度いいんだよなぁ…

【追記】2004年2月解体中の小曲園

上の写真撮影から1年半後の2004年2月1日の撮影した、小曲園解体途中の写真が出てきましたので、追加掲載します。

撮影は、フィルムではなくデジタルでしたが、デジカメ黎明期のコンデジ、Nikon COOLPIX 2500での撮影、200万画素のカメラですから、今ならそのまま解像度を落とさなくても、Webに掲載できます。

黎明期故のコンパクトデジカメゆえ、画質は今見るとかなり悪いですが、解体中の雰囲気をご確認できればと思います。

山梨県甲州市「焼山集落」2002年8月撮影

過去写真のアーカイブ、2000年代初頭を中心にアップしております。

今回は、2002年8月に撮影した、山梨県は現甲州市(旧大和村)にある廃村、焼山集落をアップします。

当時、社会人になりたてのYamaroは、山梨の会社に務めており、高校の同期のなべ氏と夏休みに合流し、撮影に出かけました。その後、なべ氏とは、彼が地元に戻る2010年代後半まで、度々廃墟撮影に行ったものです。

現在は道路が整備されたと思われる焼山沢までのルートは、この当時まだ工事中の区間もあり、CF4アコードSIRに乗っていたYamaro、下回りを擦りつつ現場に向かったものです。その当時はまだカーナビも積んでいなかったかな。当然スマホどころか、ガラケーにもGPSが付いていなかったと思います。まっぷる片手に移動したものです。なので助手席にナビがいるほうが、何かと都合が良いんですよね。

最近の焼山集落の様子を検索しましたが、未だ健在のようで、降雪地域とはいえ、比較的積雪が少ないからでしょう。とは言え、2002年から比べると、今では部分的崩壊や、残留物も少しづつなくなっているようです。

それでは2002年の夏、草が生い茂りすぎてかき分けながら撮影した写真を御覧ください。

Nikon F90XsにレンズはAI AF Nikkor 35mm f/2D、状況によってSIGMA 28-70mm F2.8-4 UCを、フィルムはリバーサルでFujichrome TREBI 100Cという、価格は安いけど、あまり息の長くなかった初心者向けのリバーサルを使用しています。ちょっと色がね…。

一部崩壊しているところがあるものの、この当時はまだガラス窓や扉は健在でした。
夏の盛りの撮影は、草や虫との戦いだと、この時知りました。
建物は扉が開き、ウェルカム状態でしたので、お邪魔させていただきました。

玄関にはなぜか釜が転がっていました。囲炉裏が時代を感じさせます。
鳥かごが置いてある台所は、最近の写真を拝見する限り健在のようですが、この撮影の2002年当時とは食器や調味料などの位置が変わっていて、残留物が少なくなっていました。

また、畳はこの時まだ存在していましたが、現在では土に帰っているようです。

焼山集落の象徴でもある、三菱ミニカ、夏なのですっかり緑に覆われていました。
ミニカエコノターボは、1984年から5年間販売されていた、4ナンバーバンながらターボ、しかも軽自動車初のインタークーラー付きターボで、ボンネットにダクトがあるのが特徴でした。

この撮影時点で屋根は潰れていて、雪の重みに耐えられなかったのでしょうね。
最近の写真では閉じているボンネットも、この当時は全開でした。

それでは別の建物へ。ここは小料理屋っぽい感じでしたが、一般住宅だったのか、果たして?

大量の一升瓶やお猪口があったことから、一般住宅というよりは、住宅兼小料理屋っぽい雰囲気でした。
一升瓶は、今は日本酒か焼酎のイメージですが、この時代はまだペットボトルが普及していなかったため、お醤油などの調味料でも一升瓶が使われていました。なので、大量の瓶も、酒ではなく調味料だった可能性もあります。処分が大変だったので、ある程度溜め込まれているのは、山奥の廃墟ではよく見かけました。

「三和のかまど」は、現在の三和金属のかまどなのかな?

今見ると色々興味は尽きませんが、また見に行く機会はあるかな?

北海道苫小牧市の廃…ではなかった市営アパート 2000年11月撮影

過去写真の再編集アーカイブです。

時は2000年11月、この時代、ネット界隈では廃墟撮影がちょっとしたブームになりつつありました。元々廃墟写真は好きでしたが、自分でも撮影してみたい、と思い、まずは身近なところから、ということで、当時一時期だけ住んでいた、苫小牧市内にある、廃市営アパートを撮影しに行きました。
これが、Yamaroの廃墟撮影第一号…になるはずでした。実際には完全な廃墟ではなく、まだ住んでいる方がいて、結果的には不法侵入になってしまいました。今は時効ということで、お許し願えれば。

昨今、高度経済成長期に建てられたアパートやマンションの老朽化問題が深刻になっていますが、人口が急増し、昭和30年代から40年代にかけて多く建てられた市営アパートも、20世紀末、一部は老朽化が始まっていた時代です。

この当時、すでに苫小牧市内には、老朽化した市営アパートが多くあり、この撮影地以外にもいくつか存在していました。
今では、それらのほとんどは建て替えられています。

このとき撮影した市営アパートは、1階がかつて商店が入っていたと思われますが、固く閉ざされていました。

そしてこの撮影から数日後、夜通った際には、2階に2世帯、3階に1世帯の明かりが確認でき、現役であることが確認できましたが、3階の廊下は照明もなく、3階の住人は夜は怖いかもなぁと思った次第。

この撮影の半年後の2001年には、入り口と窓はベニア板で塞がれ、住人が完全に撤退して本当の廃墟になったことを確認しました。
また、その頃はすでに自分も苫小牧市を離れていました。(お隣の千歳市に引っ越し)

それでは、2000年撮影の写真を御覧ください。
当時は、Nikon F90XsにAI AF Nikkor 35mm f/2D、フィルムはFujifilmのNEOPAN PRESTO100で撮影。これをフィルムスキャナで取り込んでいます。

公開当時は長編方向800ピクセルの解像度でしたが、時代に合わせて1920ピクセルで再編集しています。

鉄格子の廊下の窓枠は、昭和30年代建造のアパートでよく見られるものですが、見た目には冷たく閉ざされた印象を与えます。

入り口のドアガラスは割れ、ペンキは剥がれ、鉄の扉も郵便受けも激しく錆びていて、とても現役には見えませんでしたが、廊下の明かりが点灯しているので、現役とわかりました。
そして撮影中、

カツッ、カツッ、

と足音が聞こえ、新聞配達らしき人と遭遇。お互いビビったと思います(笑

上の最後の鉄格子のわきから外を眺めた写真、当時の愛車だったホンダドマーニが写っています。そしてこの写真がヒントとなり、現在の様子がわかりました。ドマーニの後ろに、白い2枚シャッターのガレージが写っていますが、これがヒントとなりました。

2012年のストリートビューで健在のガレージ

ストリートビューで、撮影当時と同じガレージを発見。ストリートビュー自体の撮影日が古いので、現在も存在するかは不明です。

なお、アパートは取り壊され、現在は別の施設が建造されています。ストリートビューで見ても、2000年当時の建物自体が少なく、わずか十数年で、景観は変わるのだなと感慨深くなりました。

「入居停止住宅」とあるように、すでに住んでいない部屋に新たに住人が入ることはなく、このアパートは用途廃止がすでに決まっていたのでしょう。郵便受けも大半はガムテープで塞がれていました。

現在も、このような老朽化したアパートは多く存在しますが、古くても現役の物件も多いので、そのような建物への侵入は辞めましょう。

秩父山奥の廃山荘「鹿の湯山荘」2010年1月撮影

過去写真のアーカイブとなります。

2010年1月、埼玉県秩父市の熊倉山にある廃山荘「鹿の湯山荘」を撮影しました。

細く荒れた山道を登って途中で車を止め、少し歩くと見えてくるのがこの旅館。
アクセスも良くなく、駐車場もなく、日当たりの悪い立地ですが、現役当時は奥にスキー場もあったそうで、いわゆる山奥の鄙びた宿として、現役当時はそこそこ人気だったようです。
一部建物の崩壊が激しく、この撮影当時でも、倒壊も時間の問題と思われました。

平成初頭、つまり90年代までは営業していたようで、色々調べると、山奥の山荘らしく、猪鍋や山菜料理がでる、おばあちゃん3人が仕切っていた、という宿のようでした。

この撮影後、やはり倒壊してしまった(崩壊が激しく意図的に倒壊させた)との情報もあり、Googleマップの衛星写真を確認したところ、建物のあった場所は確認できましたが、すでに建物はなく、撤去されているように見えます。また、撮影当時残っていた山荘の看板も撤去されているようです

HP公開当時は、場所と山荘名は非公開としましたが、すでに建物は現存しないと思われることから、公開することとしました。

当時の写真を再現像するとともに、画像の解像度もアップしました。また、非公開だったモノクロフィルム撮影の写真も同時公開します。

TCT Japan 2020にいってきた

昨日、お仕事の商談…というよりは情報収集で、東京ビッグサイトで開催されていたTCT Japanに行ってきました。

東京ビッグサイト

国内最大級3Dプリンティング & AM技術の総合展

と銘打っています。

仕事で使えそうなフィラメントやら機械やらを調査。知っている営業さんから「大きな声では言えませんが…」という裏情報もらったり、色々サンプルいただいたり。

その中で気になっていたにがこちら。

Nikon Lasermeister 100A

画像はNikonのHPより引用

Nikonも光加工機 Lasermeister 100Aを展示していました。加工機、というので、てっきり3次元加工機なのかと思ったら、指向性エネルギー堆積法(Directed energy deposition)による3Dプリンタなのですね。名称が「加工機」となっているので、ちょっと誤解を招きやすいかなと思いました。

指向性エネルギー堆積法とは、簡単に言うと、肉盛溶接みたいなもので、レーザーを当てて、そこに金属粉を噴出させて、金属粉を溶かしながら造形していく方式です。なので、元々ある物体に肉盛りで追加工を行うこともできます。例えば、穴の空いた金属部品の穴埋めや、既存のものに3Dデータよる追加造形も出来るそうです。

カタログを頂きました

お値段は5千万円程度で、従来の同様なプリンタの半額。自社のレーザーを活用できるので、ライバルより安くできるとのことでした。この辺りは、さすが光学メーカーですね。

金属の粉末を噴射させるので、金属のプリンタで一般的な、槽内の窒素ガス充填は必要ですが、焼結は不要だそうで、別途焼結炉が不要だそうです。

金属の粉末を敷き詰めて焼結させる方式と違って、この1台でプリントを完結でき、場所も従来よりとらないのが強みだそうです。

同様の方式のプリンタでは、低価格だそうです。

これに限らず、従来より造形品質が良くなっていながら、価格が大幅に下がっている製品が多く、まだまだこれからもこの市場は伸びそうですね。

もっとも、もの作りが完全に3Dプリンタに置き換わる訳ではなく、もの作りの可能性が広がると言えるでしょうね。

他の技術展も同時開催していて、母校の大学も出展していて、懐かしくお話しさせていただきました。

では帰ります。

帰ります~

アサブロから移転して、2020年よりこちらをメインとします