「廃墟 ruins」カテゴリーアーカイブ

【埼玉】2020年の日窒鉱山から(モノクロ編)

8月に撮影した日窒鉱山の廃墟ですが、デジタルと同時に、BRONICA S2を使用したフィルム撮影も行っていました。
現像とスキャンが完了したので、掲載いたします。

広角のNikkor-50mm F2.8だけで撮ったので、もう少し引き目の写真に仕上げるつもりでしたが、少し中途半端になってしまいましたね。

撮影場所は傾斜地が多く、またあまり引いて撮影できない状況、三脚の設置が難しい状況で、思うように撮影できなかったかな。

とまあ少し言い訳しましたが、中判フィルムの立体感は良いですね。
加えて、フィルムはこれが手持ち在庫最後の旧ACROS(現在ACROS IIに移行)でしたが、このフィルムの諧調性の豊かさと粒状感のなさは中々ですね。

ACROS IIも手に入れているので、そのうちリベンジ撮影したいですね。

【岩手】国民宿舎山王閣 2009年4月撮影

アサブロにのみアップしていた、国民宿舎山王閣の写真を、再現像しました。
アサブロのコメントに、当時の写真を頂きたいとの書き込みがあり、再現像を行いました。

当時は、撮影量に対して、Web化が間に合っておらず、また当時のアサブロでは写真を多く掲載することに限界があり(現在もですが)、またHP掲載にもWordPressのようには簡単にきれいに作れるわけではなかったので、アサブロに選んで掲載する、くらいしかしていりませんでした。

撮影から10年以上経過し、その当時の写真が、今となっては貴重に、となってくる時期でもあります。写真の面白さは、撮った直後だけでなく、こうして10年20年、あるいは100年後にも違った支店で楽しめるということでしょう。半世紀前の写真なんて、今見ると全てが新鮮ですからね。

1974~78年の航空写真から、国民宿舎山王閣 国土地理院

さて、国民宿舎山王閣は、岩手県宮古市の三王岩を眺望できる高台に、1965年に開業しました。
国民宿舎ということで公営の宿泊所で、4階建てのコンクリートにプールの付いた、当時としてはモダンなリゾート宿泊施設だったかと思います。
国民宿舎は、1956年の制度化以降、1960~70年代にかけて、全国各地で開業し、廉価で整った宿泊施設を提供しましたが、70年代以降は民間の宿泊施設も多く建造されると、90年代以降は国民宿舎の老朽化と陳腐化により、閉業や民間譲渡される施設も多くなりました。

山王閣も1995年に民間に無償貸付されたものの、恐らく設備の老朽化も進み、改築に見合う営業収入を得ることが難しかったのでしょう。2001年に閉業しました。

海沿いの施設ということで、廃墟と化して8年後の撮影でしたが、その1年後の2010年には解体されたとのことです。そして、そのさらに1年後の2011年3月11日、東日本大震災により、宮古市も津波により多くの被害が出ました。

多分宮古市のホテルだったと思うが、どのホテルだったか思い出せない… ここも津波被害はあったと思われる

この撮影の前日、宿泊したのは宮古市のホテルでしたが、海沿いでしたから、震災による津波被害は恐らくあったと思われます。残念ながら、ホテルの写真はこの1枚のみで、周辺写真は撮っていません。
たろう観光ホテル…だったかも知れません。もし、この写真を見て、どのホテルかわかる方がいましたら、コメントいただけるとありがたいです。

撮影は、田老鉱山撮影後で、三王岩を見たいと思ってたまたま行ったら、山王閣があった、という偶然で撮影したものです。疲れていて、あまり気合の入っていない写真ですが、よろしければご覧いただければと思います。
なお、現在は前述の通り建物は解体され、周辺は整備されて山王園地となっています。

山王閣からはそのまま海岸の遊歩道につながっていて、浪打崎まで降りることが出来ました。

残念ながら、2019年の台風19号の影響で、この遊歩道が使えない状態となっており、現在(2020年9月時点)でも通行禁止となっているようです。実は、その復旧工事関係者より、復旧にあたり、山王閣のプールがあった平場が崩壊したため、プールがあった当時の状況を資料として使用したい、との連絡があり、今回写真の再現像に至りました。

写真って、こうして過去を示す資料でもあるんですよね。お役に立てばと思います。

【埼玉】2020年の日窒鉱山から

日窒鉱山に最初に訪れたのは2007年頃かな?、以来定期的に訪れていますが、Webに掲載しているものでは、2014年が最後となっていました。また、Web掲載分も、古いものはjava scriptやFlashでHP作成したものもあり、今では見られないものもあるため、過去の写真については、いずれ現代の環境に見合った解像度で再掲載したいとは思います。

この十数年の間に、既に取り壊された建物や、老朽化による倒壊した建物、まだかろうじて残っている建物等色々ありますが、他の方のHPなど、更に昔の画像と比較すると、随分時間が立ったために、老朽化がさらに目立つ建物が増えてきて、すっかり風景も変わってきました。

毎年、この時期は、後輩と廃墟撮影ツアーを組んでいましたが、今年はCOVID-19が蔓延しているため、1人での撮影となりました。立ち寄り地も極力少なくし、片道移動3時間ほどかけてやってきました。

2007年の写真と比較すると、ここからの風景だけは昔のままでした。

日窒鉱山は、現在でも(株)ニッチツ結晶質石灰石を採取している現役の鉱山施設があり、当然その部分は立入り禁止です。
お盆期間中ですが、平日だけあり通常通り操業していました。

BRONICA S2でも撮影

この日は、BRONICA S2による最後のNEOPAN ACROS(現行のII型になる前のフィルム)を使用し撮影、そちらの写真は現像仕上がってスキャンしたら掲載するとしましょう。
※スキャン完了しましたので、モノクロ編も御覧ください

慰霊之碑

お盆時期だけあり、慰霊之碑には飾りとお供え物が置かれ、そして殉職したニッチツ職員の霊を慰めていました。

鉱山住宅の廃墟も、年々老朽化が進んでいますが、残る遺構を撮影します。廃住居には、かならずある一升瓶。今では一升瓶と言えば日本酒ですが、昔は醤油など調味料も一升瓶でしたね。酒屋に空き瓶を持っていくと、10円程度で引き取ってくれたものです。

猛暑日が続く中、日窒鉱山付近の気温は30℃程度と、40℃に迫る関東圏の中では涼しい方ですが、湿度がかなり高く、不快指数MAXな状況でした。

鉱山住宅を訪れる

日窒鉱山住宅は、渓谷の斜面に建てられている物が多く、現役だった頃は、もう少し木々も少なかったのでしょうが、ベランダからすぐ下が傾斜地、というのも、今では中々考えられない立地です。よくこんな場所へ建てたなと感心します。

写真のこの住宅は、残留物から、恐らく子供のいる家庭が住んでいたのでしょう。女児向けの靴や、小学校の教科書が残っていました。
しかし、ほとんどの家具は、引っ越す際に持っていったのでしょう。本のようにかさばるもの以外は、比較的残留物はありませんでした。
電気信管の木箱は、日窒鉱山ではよく見かけるもので、箱を再利用していたのでしょうね(まさか家庭に信管を持っていくとは思えないですし…)

ビデオテープが重ねられていた部分、トリミングすると、「ご自由に、お持ち帰り下さい。」のテプラが貼られ、その上には懐かしいタイトルのテープが。特に上から3本目、ご存知のあなたは間違いなくオッサンです(笑

建物的には、90年代後半に使われなくなったと推察します。

公衆浴場跡へ

公衆浴場跡、昔は入口に木の板で封をされてもいなかったのですが、不法侵入対策ですね。もっとも、横の扉は開きっぱなしですが…

公衆浴場横の鉱山住宅は、ここの中では比較的新しい部類のものですが、アクセスしやすい場所のせいか、ベランダのガラスを割られたりするなどあったため、現在は明確に立入禁止としています。遠くから眺めるだけにします。

日窒鉱山住宅の象徴だった住宅は今

かつては、日窒鉱山住宅でも最も規模が大きい建物だったここは今、建物の半分が倒壊して撤去され、残った建物も倒壊の危機にさらされています。

2013年までは健在だったこの木造アパートは、翌2014年2月の大雪で、ついにその半分が倒壊してしまいました。その前後は、こちらの写真をご確認いただくとして、その後、倒壊したアパートの廃材は撤去されました。残る半分も、横から見ると、建物がくの字に変形しており、いつ倒壊してもおかしくない状況です。

鉱山住宅も、重機が入りやすい建物については、10年ほど前に大幅に解体されたものの、傾斜地など重機が入りづらい住宅については、解体が難しいためか、現在もそのまま残されています。ここも倒壊を待つだけの感じでしょうか。これが最後かなと思って毎回撮影しています。
ちなみに、白い結晶質石灰石が積まれている場所も、かつては鉱山住宅があり、この木造アパートよりはずっと新しいものでした。

売店跡周辺

売店跡、ここも老朽化が進み、窓ガラスの欠損が増えています。中には以前はスロットゲーム機など残されていましたが、今はどうなのだろう?
このあたりから、ピーカンだった空は少しずつ雲が広がってきました。この日の天気予報は午後2時位から雨になるとの予報。早めに撮影を進めます。

売店後ろの廃住宅群

売店の裏手には、解体されずに残った古い鉱山住宅が今でも残っています。売店裏手の建物は平屋なので、倒壊しても危険は少ないという判断でしょうか? 更に奥の傾斜地にも何軒かの鉱山住宅があり、ここは解体が難しいので放置状態のようでした。

さて、青空はすっかり雲に覆われてきました。そろそろ切り上げないと…

最も高台にある鉱山住宅

1枚目の写真、夏だと木が生い茂って、初めての人だと気づかないでしょう。ここにも鉱山住宅があります。今回は時間がないので、眺めるだけ。ここへのアプローチは結構な急斜面を上がらなければなりません。なお、2013年に、この鉱山住宅は訪れていますので、当時の写真をご覧ください

それにしても、今にも降り出しそうです。

大雨が降ってきた…

そしてついに雷が鳴り、慌てて車に戻ると大雨が。写真でわかるくらいの大粒の雨です。ということで、撤収します。何せここまでの道のりは断崖絶壁で落石注意の箇所が多く、雨で土砂崩れが発生したらひとたまりもありません。道路も川になっていたので、慎重に運転しながら帰路につきました。

撮影に2時間、往復で6時間…。

素掘りのトンネル

素掘りのトンネル

暑かったのが、一気に大雨で道路が冷やされて立ち込めるモヤがトンネル内にも。ここは日窒鉱山へ続く道の最後のトンネルで、素掘りです。電灯も一切ありません。初めて通ったときはかなりびっくりしました。暗くて怖いです。ちゃんと中央は道幅が広くなっていて、すれ違いに対応しています。

ということで、久しぶりの日窒鉱山でしたが、やはりもう少し撮影時間が欲しいですね。そして、真夏ではなく、春か秋口の天気の良い日に来たいです。

【福島】湯野上観光ホテル 2009年4月撮影

同じ福島の横向温泉ロッジの後に撮影した廃墟。どういう経緯で行ったかは、今となってはあまり記憶にないのですが、この当時はドライブがてら撮影しに行くことが多かったので、たまたま廃墟レーダーに感知した(笑)物件を撮影しに行くこともありました。

今と違ってまだガラケーの時代、ガラケーでもネットは見れたけど、携帯専用サイト以外では表示も崩れてあまり使い物にならなかったので、当時はまだカーナビとまっぷる片手に、、次はどの辺りに行こうかと思案しながら行ったものです。

ここも、温泉街と言えば廃物件もあると言うだろうという、そんな感じで行ったのだと思います。

廃墟探索地図によれば、1981年(昭和56年)に開業するも、2年後には閉業し、その後放置され続けている、とされています。オーナーが夜逃げしたのか?
年代的にはバブル景気が始まって、観光ホテルも全盛だった時代ですが、温泉街からはやや外れた場所にあること、プールもありましたが、この地域だとあまり使える期間は短く、温泉街にプールは少し似つかわしくない印象です。アメリカの西海岸みたいな気候ならまだしも、福島の山奥ですしね。

また、撮影当時は、現役時に火災にあったのか、廃墟化してから放火されたのか不明としていましたが、1999年(平成11年)2007年(平成19年)に放火があったようです。

現存するようですが、火災物件は痛みも早いですし、場所柄どうしても肝試し的に使われているようですね。

この撮影はNikon D300でしたが、撮影に際しては三脚使用のため、現在の水準でもハイライト飛びはひどいものの、アンダー部分の階調は割と残っており、今回の再RAW現像に関しては、以前は黒つぶれで再現しきれていなかった部分も、だいぶ表現できています。

やはりRAW現像は、最新のもので行えば、当時うまく表現できなかった部分も何とかできることも多いですね。

そしてこの撮影に関しては、三脚を使用し、基本感度ISO200固定でフィルムと同じ用に基本に立ち返って撮影、これが大きいですね。
ダイナミックレンジが、今のカメラよりは狭かったD300ですが、基本感度で撮影することで、ダイナミックレンジを最大限発揮できます。

もちろん、今のカメラで撮影はしてみたいですけどね。

【福島】横向温泉ロッジ 2009年4月撮影

2009年4月、福島県は横向温泉ロッジを撮影してきました。

当時は精力的に廃墟撮影を行っていて、HPにも掲載していたのですが、この横向温泉ロッジの写真は、どういう経緯か忘れてしまいましたが、Adobe Flash Playerで再生するスライドショー形式で作成していました。これをすっかり忘れていまして、先日Twitterで横向温泉ロッジの話題が出て、自分のHPを見てみたら、表示できない。IEでは表示できまして、Flashで作っていたことが発覚。当時はFlashはまだ当たり前だった時代ですし、Flash形式のHPだと、画像の保存が簡単には出来ない、というのもありまして。
周知の通り、AdobeはFlash Playerを2020年末で終了、以降はダウンロードもサポートもしないため、Flashで作られたページは、今後見ることはできなくなります。

そんなわけで、今回、再掲がてら、RAW現像も1枚1枚やり直しています。やはり、最新のRAW現像ソフトでは、主にノイズ面で改善が見られる他、暗部の持ち上げ方から中間諧調にかけては、大幅に改善している気がします。
カメラは当時D300、レンズは主にTokina AT-X 124PRO DXで、廃墟撮影はこの組み合わせで行っていました。今のカメラとレンズで撮り直したいですね。
D300は、今となっては白飛びが多いですし、当時の画像処理エンジンではコントラストが高めに出ている感じでした。これをRAW現像では、最新のピクチャーコントロールを使って再現像しました。


横向温泉ロッジは、1960年代に建造されたとされており、1984年(昭和59年)には廃業しています。撮影時点で四半世紀が経過しており、現在も現存しており、既に廃墟歴は30年を超過、建物としては半世紀を経過しています。積雪地であることから、痛みが激しいようで、撮影当時でも、ボイラー室は一部浸水して凍結、屋根も一部崩壊するなど、痛みが激しかったです。

安達太良山を望む横向温泉は、福島県で初めて湯治が始まった温泉とされていますが、周辺は猪苗代温泉など有名観光地があり、結構山奥な横向温泉は、あまり旅館やホテルはないようです。

横向温泉ロッジは、写真を見ると、温泉だけでなく、夏季は温泉プールもあったようで、今で言う総合リゾート宿泊施設的な感じだったのでしょう。ただ、同じ福島には、ハワイアンセンター、現ハワイアンズも存在しますから、山奥深い横向温泉ロッジは分が悪かったと思われます。

1960年代から70年代にかけては、日本の高度経済成長とマイカーブームにのって、全国各地に温泉リゾート施設が作られましたが、現在でも存続しているのは、先程挙げたハワイアンズなど、ごく少数に留まっています。

どちらかと言うと心霊スポットとして挙げられることの多い横向温泉ロッジですが、高度経済成長時代の生き証人として、これからも存在し続けるのでしょうか?
それでは、2009年当時の写真を御覧ください。

なお、当サイトでは廃墟散策を推奨するものではなく、また現状は撮影当時より風化が進み、状況は悪化していると思われます。

HPの古い写真は、様々なアルバム形式で掲載していて、作成当時のネット環境を考慮し、解像度抑えめの写真が多いため、時間を見つけて、WordPress版に再掲載したいと思います。


おまけ「ドライブイン土湯峠茶屋」

横向温泉ロッジの近くにあった廃ドライブイン、こちらは2013年ころに解体され現存しません。上記写真と同じ日に撮影です。

解体中の埼玉県志木市役所

なんだか最近、建物解体中をやたらブログネタにしている気がしますが、昨日は初めて通った道の、たまたま信号待ちに目についた建物を。

解体中の志木市役所

こうやって建物の断面を見られるのって、解体中くらいじゃないですか。作っているときも見られないですから。
なので、実は解体中の建物を見るのが好きだったりします。ああ、そういう構造なのかと。

そして今の時代は良いことに、Googleストリートビューで在りし日の姿も確認できることですね。

https://goo.gl/maps/6NiizMchWbizDRpf7

2017年当時の志木市役所。正面は扇型の建物だったのですね。
解体中の写真だと、既にその扇型の建物は解体済みのようで、その奥の建物が見えている状態みたいですね。
ご近所に解体中のビルがあれば、そういうのを何ヶ月かかけてタイムラプスで撮ってみたいですね。

2005年11月の栃木県足尾銅山周辺

今回は、今から15年ほど前に撮影した、栃木県は足尾銅山周辺の写真をアップします。

15年も経てば、今はもうない建物や、あっても状態が異なる建物や風景は多々あります。

この当時は、まだ本山の精錬所跡が残っていました。写真に映る建物の多くは、現存していません。

鉱山らしくシックナーが稼働中の風景、今は歴史の中の1つとして遺跡となっている場所など、当時とりとめもなく撮影してきた写真です。

2005年当時は、まだメインカメラはフィルムのNikon F90Xsを使用していました。おかげで、現在でもスキャンして十分な解像力の写真となっております。

それでは当時の足尾の雰囲気をお楽しみ下さい。
ああ、転勤して何年も足尾方面は行っていません。今度どこかで撮りに行きたいですね。

日産60型ファイアパトロール

懐かしのボンネット消防車。ボンネット消防車というと、絵本では「しょうぼうじどうしゃじぷた」が有名ですが、写真はジープではなく、日産ファイアパトロール60型です。

撮影は、2004年8月撮影、山梨県は東山梨郡(現山梨市)の牧丘町と思われます。消防団の車両だったようで、牧丘町はテープで消されているものの、うっすら見えます。

ドアのない車内を見ると、四駆らしく副変速機付きです。都市部用に二駆モデルもあったようですが、ここは山梨ですから、流石に四駆モデルですね。

「甲斐(かい)日産納」というステッカーが、山梨だなぁと感じさせますね。

ベースとなった日産パトロールは、1960~80年まで販売されていたようですが、写真の消防車仕様のファイアパトロールは、前照灯(ヘッドライト)の突き出しが大きいという特徴から、1975~80年の間の製造と思われます。

この撮影当時は、車齢24~29年ということになりますが、消防団の消防車ということで、恐らく現役当時は消防団の車庫保管、走行距離も一般乗用車より極端に短い場合が多く、写真の車両も現役を退いてなお、状態は比較的良さそうでした。
まだ現役を退いてからそう経過していなかったのでしょうね。

Googleストリートビューで、撮影場所を探してみたのですが、残念ながらそれらしい場所は特定できず、もちろんこの車両も見つけられませんでした。写真に映る送電線と橋から推測してみたのですが…。

恐らくもうないのでしょうけど、案外海外に買い取られて活躍していたりするのかもしれませんね。

奥多摩湖の廃ロープウェイ(2003年撮影)

ブログネタがないときは、過去撮影アーカイブを再編集してアップしています。

今回は恐らく関東で現存する廃墟では最も有名な廃墟の1つ、奥多摩湖の 「奥多摩湖ロープウェイ」(川野ロープウェイ )。

高度経済成長に進む1962年(昭和37年)に、奥多摩湖の小河内(おごうち)観光開発株式会社が運営を開始しました。
当時は湖の対岸へ移動するには、湖畔を大回りするしかなかったため、観光客で賑わったようです。
しかし、数年後には橋ができたために、利用者が激減し、わずか4年後の1966年(昭和41年)には運行の一時停止、そしてそのまま1975年(昭和50年)には運行休止申請が提出されたそうです。

1つの疑問「深山橋」「三頭橋」架設年

ロープウェイの建造開始から数年後橋が出来た…というのは、この奥多摩ロープウェイが運行休止につながる要因とされているのですが、調べてみたところ、この奥多摩ロープウェイ近くの橋である「深山橋」は、架設年1957年(昭和32年)となっている資料を見つけました(表15参照)。
この情報が正しければ、ロープウェイより橋のほうが先に建造されていることになります。

一方、もう1つの近隣の橋である「三頭橋」も、調べたところ架設年1969年(昭和44年)となっています。ロープウェイの運行一時停止より3年も後になります。

つまり、従来言われていた、橋の完成により利用客が減ったというのは、違うのではないか?という疑念があるわけです。

Wikipediaによれば、奥多摩湖ロープウェイの利用者数は、1962年で約6万人、一時休止する1966年では9.7万人と増員しているものの、例えば私の地元の函館にある函館山ロープウェイは、年間100万人以上の観光客を乗せています。
もちろんロープウェイの規模は全く違いますが(とは言え昔は函館山ロープウェイも45人乗りの小さなゴンドラでした)、年間10万人に届かない利用者数が、不採算になっていた可能性も否めません。

奥多摩湖観光株式会社の実態は不明

現在、この奥多摩ロープウェイの運営会社は奥多摩湖観光株式会社の所有とされているものの、会社自体が実態不明、つまり実質の所有者が不明であること、また自治体からの撤去費用も高額になるために捻出も難しく、現在もそのまま放置されているとのことです。

2003年撮影の川野駅

撮影は2003年11月となります。当時は川野駅へのアクセスはさほど難しくありませんでしたが、その後、柵の設置などで侵入はできなくなっています。周囲は一般の建物もありますから、無理な侵入は避けましょう。

続いて対岸へ移動しました。三頭山口駅側は、現在でもアクセスは難しくはないようですが、その分荒らされているため、情緒という点では、川野駅に劣るような気もします。

あと、この撮影時はまだデジタルではなくフィルムでしたが、2本目のフィルムがモノクロ(IRFORD XP2 SUPER)でして…。

ということで、唐突にモノクロになりますが、当時の雰囲気をお楽しみいただければと思います。

最初の2枚は、奥多摩周遊道路からの撮影。走り屋がたくさんいました。

2003年撮影の三頭山口駅(みとうさんくち駅)

山梨県河口湖畔「ホテル小曲園」の外観 2002年8月撮影

20世紀末から21世紀初頭にかけて、関東甲信越圏の廃墟サイト界隈では絶大な人気を誇った物件が、山梨県は河口湖畔にかつて存在した「ホテル小曲園」でした。

ホテル小曲園の歴史は古く、戦後7年が経過した1952年(昭和27年)に創業し、小曲園グリルといった食堂やパブなども併設していて、高度経済成長とともに増改築を繰り返したそうです。

特に有名だったのは、河口湖を見下ろせる宝石風呂でした。1994年(平成6年)に廃業後、割と短期間で傷んでいったのも、有名観光地だったのもあると思いますが、増改築を繰り返し、古い部分も相応に残っていて、元々老朽化が激しかったものと思われます。

廃業からわずか数年のうちに、有名な廃墟として名を馳せるくらいに、老朽化が進んでいたのでしょう。

Wikipediaその他の解説では、廃業理由として、

手抜き工事により増築に増築を重ね、避難を困難にした複雑な構造だったためにホテルニュージャパン火災以降厳しくなった安全基準の「適合マーク」を取得できなかったためであった。

Wikipedia「小曲園」

としていますが、適合マークってこの時代からありましたっけ? という疑問がありまして。いわゆる「既存不適格建築物」だったのではないかと想像しています。その辺りの法律に詳しい方がいらっしゃいましたら、コメントいただければと思います。

安全に対する法律がまだまだ緩かった1952年創業ですから、その後繰り返し増築するも、いざ老朽化した部分を改修しようにも、その時点での法律により困難、もしくは多額の改修費用がかかることになった思われます。なにせ、斜面に建てられたホテルですから。

個人的に、今写真を見ても、建物の構造物が全体的に華奢に見えるんですよね。

そんなこんなで小曲園ですが、ここは有名観光地で、当時でも撮影は比較的リスクが高かったので、外から眺めるに留めました。
撮影から1年後には、河口湖町の方針により解体が決定し、2004年には完全に解体されました。現在では小曲展望台として開放されています。

オマケ、小曲園の右側のホテル群。ストリートビューで確認したところ、執筆時点では下の写真の建物は、現在でも現役で何よりです。ただ、手前のENEOSは廃業して、取り壊されたようです。

ちなみに、左下に映っているアコードSIRが、当時の愛車でした。
このくらいのサイズの車が丁度いいんだよなぁ…

【追記】2004年2月解体中の小曲園

上の写真撮影から1年半後の2004年2月1日の撮影した、小曲園解体途中の写真が出てきましたので、追加掲載します。

撮影は、フィルムではなくデジタルでしたが、デジカメ黎明期のコンデジ、Nikon COOLPIX 2500での撮影、200万画素のカメラですから、今ならそのまま解像度を落とさなくても、Webに掲載できます。

黎明期故のコンパクトデジカメゆえ、画質は今見るとかなり悪いですが、解体中の雰囲気をご確認できればと思います。