「廃墟 ruins」カテゴリーアーカイブ

【山梨】ホテル大藪

2023年最初の廃墟撮影は、山梨県に行くことに決めました。
年明け早々、撮影地として選んだのがここでした。

身の上話になりますが、20年程前、当時山梨の会社に就職しており、実はここから車で30分程度の場所に住んでいました。
その当時、北海道から就職して、慣れない山梨県、知り合いも近くにはいなく、とにかく週末ともなると、友人のところに遊びに行く以外は、ひたすら通ったことのない道を車で走っていました。北海道にはあまりない山道のワインディングは、山梨県はそこかしこにあり、通勤路もそんな感じでした。

そんなあてのないドライブで、確かにこのホテルも一度見たことがあるのです。
当時は、まだ周辺は別荘地として整備されていなかったように思います。藪や岩の転がる斜面の向こうに、この建物が見えたのを覚えています。
ただ、その時の写真はありません。写真は撮っていませんでした。
学生の頃から写真は撮っていて、カメラは必ず持ち歩いていましたが、当時はまだフィルムカメラが主流。デジタルカメラもあったけど、まだ画質はフィルムに及ばない時代。今のように何でもとりあえず撮る、という時代ではなかったので、車で見て通り過ぎるだけだったように思います。
その時は天気も悪かったような…。
フィルムで三脚なしに写真を撮るコンディションではなかったように記憶しています。

あれから転職して栃木県に移住して結婚、家も建てたと思ったら転勤で東京へ来て現在に至っています。
山梨は東京都から遠くはないけど、どうもイメージ的に行きづらい感じでした。中央道しかまともな道がなく、混むと逃げ場がない、そんな印象を抱き、なかなか足が進みませんでした。
が、行ってみると案外遠くないのです。正月休み後半とあって、中央道もさほど混雑せず、予定よりも早く到着しました。

車を停めた山中で見つけた閉鎖中の温泉旅館はブログに掲載しましたが、そこからは徒歩で撮影地へ向かいます。
真正面は20年前と違って別荘地となっているので、正面から突っ切ることは困難。結局わき道からちょっとした崖を下ってアプローチ。

途中、別の温泉旅館もありました。こちらも後で調べたところ、3年ほど前までは営業していたようですが、現在は休館となっているようです。

このあたりは古くからの鉱泉があり、ここも質の良い鉱泉が楽しめたようです。道なき斜面を下って…

到着。小川を超えると、氷結した斜面が。上の小川とは別の方面から流れている水が凍ったようです。

円弧上にアーチを描いた建物は、現役時代は眼下に大武川が見える、見晴らしの良い風景を楽しめたのでしょうね。
ホテルは、国土地理院の1974~78年に撮影された航空写真には現存しており、60年代後半から70年代前半に建造されたと思われます。
最初に紹介した別の温泉(鉱泉)旅館も現存しています。

しかし、1982年(昭和57年)7月後半からから8月にかけての台風10号による土砂崩れで、ホテルに土砂が侵入、ホテルは再建を断念し閉業しました。
以来40年、この地に建ち続けています。
1970年代の航空写真にあるように、ホテルがあった頃は、大武川にかかる橋を渡ってまっすぐホテルに通じる道路があったようです。
橋は現在の写真では、新しいものが出来たため、古いほうはその名残が残っています。では入口よりお邪魔します。

この時点で既に、2階部分(傾斜地の建物のため、正面入口とフロントのあるフロアは2階となっている)には土砂が侵入しており、現在もそのまま残っています。


入口からはすぐ右手には、かつてフロントがあったようで、立派な金庫も残されていました。もちろん中身は空でしょうね。
またフロント横の部屋は、従業員やオーナーが待機していたと思われる部屋があり、法律関係の本や雑誌が残されていました。
また、食品会社の名刺が驚くほどきれいな状態で残っていて、調べると、今でも山梨県に存在する「テンヨのビミサン」でおなじみの会社の名刺でした。旧社名「武田食糧株式会社」だそうで。

フロントのあった場所の火災警報のパネルには、プレートはいくつか脱落しているものの、「旧館1階105-108」「新館3階」と書かれており、新館を後から増築したと思われます。外観は、1つの建物に見えたのですが、うまく増築したようです。

入口から向かって右側の廊下は土砂で埋まっており通行不能、ここは客室があったようです。客室内にも少し土砂は侵入していました。
一度外側に出てみると、かつて土砂が到達したであろう1階部分は、表側の土砂はその後長年にわたって流出したと思われますが、ホテル内に侵入した土砂は、そのまま残っている状況です。

土砂崩れが発生した斜面

ホテル入口の反対側の斜面。ここが土砂崩れで崩落し、ホテルに土砂が侵入したようです。現在も小川が流れていたりと湿地のようになっており、確かに大雨が降ると地盤が緩みそうな感じです。しかしこのホテルの廃墟が現存することで、下の別荘地を守っているとも言えます。

土砂どころか岩までもが今でも残っています。部屋番号は107、108が確認され、ここがどうやら旧館側にあたるようです。
当時のニュースを検索しましたが、ここで死傷者が出たという情報はありませんでした。台風の際には避難していたのかもしれませんね。

フロント正面から見て左側はホテルの厨房と宴会場が。こちら側は土砂の流入はなかったようです。
こちら側が、このホテルの新館になるのか? ちなみにフロントと同じフロアですが、ここは2階になります。傾斜面の建物らしく、この下にもフロアがあるのです。

新館?1階へ。こちらは全て客室のようです。
廃墟歴40年なだけに、劣化、崩壊が進んでいます。特に天井や畳がダメですね。1階はどうしても湿気が溜まりやすいので仕方ないかも。ただ、傾斜面であること、ホテル営業当時は大武川までが開けていたので、当時は1階でも眺望はそれなりに良かったと思われます。

一度フロントまで戻り、新館側(建物向かって左側)の3階に上がります。

散らばっていた醤油の小瓶は、フロント横の部屋にあった名刺の食品会社のものでした。どうやらこのホテルに卸していたようですね。
3階は状態が1階の客室よりは良いですね。廃墟歴40年、コウモリの糞が堆積しているけど、残留物は多いです。懐かしいダイヤルをガチャガチャ回すテレビ、そして観葉植物が枯れずに生い茂っているのにもびっくり。物置のように使っていた部屋もあったのかな?
ガラスも一部残っているのも驚きです。鉄線入りガラス、案外丈夫?

階段を挟んで右側の旧館。こちらも客室がメインですが、グレードが上がっていて、他の客室にはなかったトイレと洗面所がありました。
廊下に転がっていた錆付いた箱は、カミソリの自販機ですね。効果を入れて、横のダイヤルを回すタイプ。昔はよくありましたね。

大浴場は、旧館2階廊下を進んだ先の離れにありました。傾斜面に建てられただけあり、離れが大浴場というのが面白いですね。
60~70年代らしい円形の浴槽、現役当時は眺めも良かったのでしょうね。あまり落書きのなかった廃墟ですが、ここだけが落書きだらけなのが残念。
浴槽はこの1箇所だけっぽく、男女で入浴時間を分けていたのかもしれませんね。
それでは引き返します。

旧館の1階へ再び。フロント側とは反対からアプローチしてみました。やはりここは土砂が堆積していました。客室へも土砂が侵入。これにより客室の窓は吹き飛んだようです。凄まじい状況が、40年以上経過した今も残っているのです。

一度階段を戻り、3階から2階フロントから外へ。


山奥にこんな大きなホテル。70年代はマイカーブーム、そして日本人がだんだん豊かになっていく過程で、旅行もブームになってきた時代。
こんな山奥にも、多くの客が訪れていたのでしょうね。土砂崩れがなかったら、今も現役だったのか?  ただ、この近くの老舗温泉旅館も、現在では廃業し売りに出されている状態です。この辺りの鉱泉も、次第に忘れ去られるのかもしれませんね。

池でもあったのかな? 国土地理院の現役当時の航空写真は不鮮明で、何があったかまでは判別つかず。

新館側、3階建てと思いきや、地下1階?もありました。ここのも土砂は侵入したようですが、もしかしたら廃墟後かもしれません。宴会場、もしくは集会場的に使われていたのかな?
以上で撮影は終了。

ここは昔は人里から離れた場所だったこと、ふもとに別荘地ができたため接近しづらく、肝試しや荒しの侵入も近年は少なく、廃墟歴40年という熟成された物件のわりに、人為的な破壊が少なく、なかなか希少な物件だったと思います。
今となってはこの建物が斜面の土砂流出を防ぎ、この麓の別荘地を守っている、そもそも今このホテルへの道路は埋もれて立たれており、40年以上経過して木々も生え、アプローチは困難になりつつあります。わざわざこの時期に行ったのは、夏は藪が生い茂って(藪という名称がつくくらいですから)とても近づけそうもないからです。

こんなところにテレビの残骸

こんなところまでホテルのテレビの残骸が…。
小川を越えて帰路につきます。

それでは。

【山梨】藪の湯 元湯 S旅館

年始の初撮影に行ってきた山梨の写真を、ボチボチアップしていこうと思います。

今回は、メインの撮影地の近くにたまたまあった物件です。

実はここに来る前に、Googleストリートビューでたまたま見つけました。

ストリートビュー2014年の画像はこんな感じでした

ストリートビューでは、看板の名前はS旅館(写真ではあえて名前は消しませんが)となっています。
調べると、ここはかなり歴史の古い温泉(鉱泉)旅館だったようです。古くより胃腸の病気に効く温泉とされており、明治2年に、この旅館名ともなった鈴木治左右衛門氏が旅館を建造し、永らくS旅館として経営されていたようです。インターネットに引っかかるくらいまでは経営されていたようですが、2014年9月のストリートビューを見ると、旅館への道路には車止めが置かれており、この時点では営業を停止していたようです。
車でないと現代人はまず行かないような山梨の奥地にありますが、江戸時代や明治時代の車のない時代に出来た由緒ある温泉旅館だったので、大昔は胃腸に効くとされる名湯に、長い距離を歩いてでも行ったのでしょうね。

2014年当時は既に廃業していたのかもしれませんが、その後「藪の湯 元湯」までの名称はそのままに、「S旅館」から「Mの里」に名前を変えて、温泉として営業していたようです。

ここに来るまでにも、「Mの里」の看板がいくつか出ていました。しかし、2023年初頭、売物件と貼られていることから、現在は営業を行っていないようです。
予約はもうできないものの、今でも楽天トラベルには紹介ページは残っていました。
これを見ると、入湯には事前予約が必要だったようです。藪の湯は鉱泉で、元湯の温度は13℃程度とかなり低いようで、沸かさなければならないようです。
いろいろな訪問記を見る限り、「Mの里」時代も入湯者は多くなかったようで、予約なく訪問すると、ボイラーで沸かすのに時間がかかったようなので、常時ボイラーで沸かすほどの客足ではなかったことが伺えます。

山梨に3年住んだ身としては、この場所はその時住んでいたところから車で30分程度で行けてしまうので、実は当時もこのあたりを散策したことがあったと思いますが、ここの存在は当然知りませんでした。山梨は山奥の秘湯が非常に多いのですが、当時はあまり興味がなかったもので…。

「S旅館」当時の送迎バスが残されていました。21世紀初頭はまだ営業していたと思われるS旅館でしたが、営業中でもだいぶ前からこのマイクロバスは使われていなかったようです。
来る人の多くは自家用車だったと思われ、客が多かった頃は車を持っていない客のために、最寄り駅まで送迎を行っていたのでしょうね。
トヨタの初代コースターで、1969年から82年まで生産されていた車両です。
車検証は旧タイプ、12ヶ月点検シールは、61と書かれているのがわかりました。つまり昭和61年(1986年)まで有効ということで、廃車歴は37年程度でしょうか。昭和の終わりには既にこの送迎バスは使われなくなったようです。

旅館に近づいてみましたが、隣にはオーナーのご自宅と思われる建物があり、現役そうな車も見えたため、これ以上の立ち入りは行いませんでした。
売物件ということで、今でも鉱泉は健在と思われ、歴史の古い温泉(鉱泉)ということで、また復活の時が来るかもしれませんね。

【山梨銘醸】山梨で撮影後立ち寄った「七賢」の酒蔵

正月休み後半は撮影に出かけました。今回、妻も仕事がお休みなので、またとないチャンスと思い、山梨へ撮影に出かけてきました。

山梨県の廃ホテル

去年は撮影できていなかった廃墟、今年はNikon Z 9にて撮影に挑みました。ミラーレス機、ローアングルも撮りやすくてよいですね。
三脚の使用が難しかったため手持ち遺影ですが、IBIS(ボディ内蔵手ぶれ補正)搭載なのも助かりました。
一眼レフで使っていたAF-S 16-35mm f/4G ED VRは、手ぶれ補正内臓広角レンズでしたが、公称2.5EVの補正しかできなかったので、Z 9とNIKKOR Z 14-30mm f/4 Sの組合せは、この撮影でとても良い仕事をしてくれました。
こちらの写真は後日編集してまとめてアップします。

白州の酒造

今回、中央道が思いの外空いていて、予定より早く撮影地に到着、撮影も予定より早く終えたため、以前から行きたかった酒造へ立ち寄ることに。
実はYamaro、20代前半は就職の関係で山梨県に住んでおりまして、今回訪れた七賢の「山梨銘醸」は、以前住んでいたところから車で30分かからない場所でした。
なので、存在自体は知っていたし、何度かその前も通ったことはあれど、当時はまだ日本酒にあまり興味がなく、一度も行ったことがありませんでした。

創業は寛延3年(1750年)という山梨でも老舗の酒蔵です。そして、中はとてもおしゃれです。直売所だけではなく、酒蔵の見学ツアーなどもでき(今回は時間の都合でツアーは申し込みませんでしたが)、お土産や蔵元が作った革製品など、色々置かれていました。

どうです? とてもきれいな酒蔵です。ああっ、なんで今まで来なかったんだろう? また今度山梨旅行する機会があれば、家族で行きたいですね。

酒蔵の隣には、山梨銘醸が経営する賢直営レストラン「臺眠」も併設されていて、食事も楽しめます。ということで、お昼はここで食べてきました。
美味しかったです。ただ、子供向けのものはない感じですね。

もちろん、お酒も買ってきましたので、後日ご紹介したいと思います。

【岩手】松尾鉱山廃墟群 2008年5月撮影 2日目 その3

生活学園から、再び緑ヶ丘アパートに戻ります。

途中、ラジカセが転がっていました。SONYのドデカホーンCFD-500です。小学生の頃欲しかったやつです。TV音声多重受信にも対応(今思えばテレビの音声だけ聞いてどうするんだって感じですが)、CDダブルラジカセは憧れでしたね。
肝心の音質は、高音の抜けが悪かったような印象です。現役で持っている人は、ぜひ大切に使ってあげてください。

再び緑ヶ丘アパート内部へ

やはり1階廊下や上下棟を行き来するための広い階段は、このアパート最大の魅力です。狭い島の中に所狭しと建てたのと違い、東北の山奥後は土地に余裕があるということでしょう。
しかしコンクリートの崩壊が進んでおり、現在はどうなっているのかが気になるところです。

残されたテレビや炊飯器、テレビは当時やっと小型化されたカラーテレビです。まだ閉山当時はそれほど古くなかったのではないでしょうか?
そしてまだペットボトルがなかった時代ですから、ありとあらゆる調味料など液体のものはガラス瓶に入っていた時代。廃墟には一升瓶が多く転がっているのも、当時は日本酒や焼酎だけでなく、醤油やみりんなどの調味料もまた、一升瓶で買っていました。空き瓶を酒屋に持っていくと、5円くらいで引き取ってもらえました。

いよいよアパートの屋上に向かいます。今ではアパートの屋上なんて行けなくなりましたが、この時代は屋上も、洗濯物を干すスペースといったように、有効活用されていたのでしょうね。

圧巻の景色です。
鉱山現役当時は、鉱山からの鉱石を運ぶゴンドラや、雪景色の山々もよく見えたことでしょう。一番高い場所のこの3棟のアパートは、その下の8棟を見下ろせる感じです。位置的に、役職クラスが住んでいたのかな?

室内には、本や新聞など、時代を感じさせるものが少し残されていました。
今はいろいろあってあまり見かけない「ちびくろさんぼ」の絵本、そしてまだ若い美空ひばり松島トモ子古賀さと子ののった少女雑誌の一部は、恐らく1950年代後半のものと思われます。

昭和45年3月の毎日新聞には、マツダファミリアロータリークーペが59.8万円の値付けだったり、トヨタパブリカ800が38.7万円の値付けの新聞も。こういったものは時代を感じさせて面白い資料です。

気がつけば時刻は14時半を過ぎ、天気も微妙になってきたので、そろそろ帰ろうか、となりました。

さらば松尾鉱山 緑ヶ丘アパート

最後に当時の愛車、アコードユーロRと供に撮影してこの旅を終えました。

愛車だったアコードユーロR(CL7)と供に

いや、まだ帰り道があるので、旅自体は終わってはいないか。撮影はこれにて終了。実際この後替えるまで1枚撮っていません。メモリカードも多分いっぱいになっていたはずです。

【岩手】松尾鉱山廃墟群 2008年5月撮影 2日目 その2

栄華を誇った松尾鉱山、当時近代的なアパート群の横には、1953年(昭和28年)に開校した松尾鉱山中学校がありました。
人口も1万人を超えれば、当然子供もたくさんいたわけです。
しかし、1969年の松尾鉱山の運営会社の倒産により、この中学校も1970年3月を持って廃校となりました。まさに鉱山とともに生き、そして幕を閉じたことになります。

旧松尾鉱山中学校(生活学園)

旧松尾鉱山中学校→生活学園の建物(2012年に解体され現存しません)

しかし、その後、学校法人生活学園盛岡大学が1974年(昭和49年)9月に生活学園八幡平校舎として改築しました。
生活学園の母体は、盛岡を本拠地とした学校法人で、キリスト教精神に基づいた学校教育を行なっているとのことです。生活学園の建物内に聖書が残されていのも納得です。
廃墟地図さんのページには、1982年(昭和57年)より生活学園盛岡大学の合宿舎として使われていた、とのことですが、これは盛岡大学のHPにある旧八幡平校舎の改築落成の1974年9月とは一致しません。HPの小さな写真を見ても、校舎は明らかに上の写真と一致します。

https://morioka-u.ac.jp/about/history/ より引用させていただきました
右側に貸付標識があり、これのトップが昭和57年4月となっている

1982年(昭和57年)の根拠は、恐らくこの写真右にある〇〇貸付標識のトップに昭和57年4月とあったからと思われますが(土地の貸付の標識と思われます)、本体の生活学園盛岡大学のHPの記載を尊重し、1974年9月落成、そこから1994年(平成6年)閉校まで使用された、と解釈します。

1974年改築落成、ということは、元の校舎をそのまま改築したと思われます。ぱっと見で割と新しめなのに、部分的に古い感じがするのは、そのためなのかな?
合宿舎ということで、ベッドなども残されていましたが、廃墟になってから緑ヶ丘アパートよりも荒れていて、サバゲーや肝試しで使われた形跡があり、特に落書きがひどかったです。至るところにBB弾が落ちていました。
この撮影のわずか6日前に書かれたと思われる落書きもありました。書いた本人らは今何をしているのでしょうね。

正直なところ、廃墟として見るべきものはあまりない感じでした。

通称「赤い部屋」のマネキン

通称「赤い部屋」、こういうのを見ても、個人的にはドキッとするより、やっちまったなぁ感のほうが大きいです。こういう人為的なものが目立つのは、廃墟美とは違いますから。もっとも、こちらも人のことは言えませんけどね。

この建物は2012年に解体され、現存しません。

では再び緑ヶ丘アパートに戻ります。写真が多くなってしまいましたので、続きは次回、これで完結です。

【岩手】松尾鉱山廃墟群 2008年5月撮影 2日目 その1

八幡平市に1泊し、撮影に挑んだ2日目。面白いことに、どこに泊まったかとか、泊まった所の写真は一切撮影していません。
この撮影では、Yamaroが初導入したデジ立つ一眼レフのNikon D300を使用しましたが、当時のメモリーカードは4GBが2枚だったと思います。フィルムカメラよりは撮影枚数は稼げるとは言え、4GBだとD300のRAW撮影では、1枚おおよそ15,6MBとなるため、250枚程度しか撮れません。実際、この時の写真も4GBのメモリカード2枚を撮りきっています。
そんなわけですから、今みたいに気軽にパシャパシャ撮影できる時代ではありませんでした。とは言え、フィルムを使っていた人からすれば、フィルム十数本程度撮影できるので、この当時としてはたくさん撮影できる、ということになります。
まだスマホもなかった時代、本当に気軽にメモリ残量を気にせずに写真が撮れる時代になったのは、2010年代後半になってからですね。

と懐かしい話は置いておいて、2日目の撮影は午前9時半から開始しました。

緑ヶ丘アパート

長崎県の軍艦島の廃アパートは圧巻ですが、ここはそれより規模は小さいものの、軍艦島と並ぶ建造当時もっとも近代的だった日本最古の鉄筋コンクリートのアパートの1つです。1951年(昭和26年)に完成した、標高1000メートルのこの地に立つアパートは、当時栄華を極めた鉱山のアパートとあって、「雲上の楽園」友言われたようです。
松尾鉱山最盛期の1960年(昭和35年)には、このあたりの人口は1万5千人を超え、このアパート周辺も、今はない木造の鉱員住宅と供に、賑わっていたのでしょうね。有名な軍艦島は、現役当時の写真も多く出回っていますが、松尾鉱山に関しては少ないように感じます。
読売新聞オンラインに、現役当時の賑わう様子の写真が掲載されています。これを見て、また現地を訪れたくなりました。いつになるかはわかりませんが、またでかけたいです。

1階部分は長い廊下となっていて、やや立ち向きが異なる隣のアパートへ連接されているため、途中カーブを描いています。これがまた圧巻です。
軍艦島のように、長年にわたり建物が増設や新築されたのと違い、この緑ヶ丘アパートは建設年代が同じなので、全体として統一感がありますね。

それでも築年数は半世紀を超え、この撮影当時の2008年ですら相当痛みが激しくなっています。部分的に崩壊している箇所もあります。
軍艦島のアパートは台風や海水に晒されていますが、ここは主に雪による重みが劣化を促進させています。

緑ヶ丘アパート最大の魅力が、このアパート群中央部分の大きな階段でしょう。

4棟が上下に並ぶアパートの中央を連接する部分です。この部分には商店や福利厚生施設が入っていたのかは定かではありませんが、そういうのがあったのかなと思わせる場所です。
首と片足のないマネキンもここでは有名です。ちなみに、片足は別の場所に転がっていました。

一旦外に出ました。
大きな煙突が見えます。何となく、発電所跡に見えますが、ここはアパートの集中暖房(セントラルヒーティング)のためのボイラー施設だったようです。こんなにも大きなボイラーが別の建物に設置されていたとは驚きです。

まだまだ写真があるため、次回に続きます。

【岩手】松尾鉱山廃墟群 2008年5月撮影 1日目

2008年5月、高校の同期のなべ氏と供に、1泊2日の遠征撮影に行きました。目的地は岩手県八幡平市の松尾鉱山の廃墟撮影。
この撮影は、当時Yamaroが住んでいた栃木県からの移動となり、非常に遠距離のため、1泊2日としました。当時東京に住んでいたなべ氏は、わざわざ東京から駆けつけてきました。

松尾鉱山 緑丘アパート廃墟群 2008年5月

彼とは社会人になってからも何度か撮影にでかけています。今ではお互い結婚し、氏は地元に戻っているので、一緒に撮影する機会はなくなりました。

さて、この当時の写真はHPに掲載していますが、掲載から十数年経過し、当時のHP環境と現代では、大きく変化しました。スマホの普及、PCもフルHDを超える表示環境が増えてきました。画像の表示方法も、まだ掲載枚数の少ない時代とは違い、載せる側も見る側も、多くの画像表示がシームレスに可能となりました。

ということで、当時の写真を改めて再RAW現像し、解像度もフルHDまで上げて掲載させていただきます。
写真は何も最新のものである必要はなく、その時代時代を映すものですから、今2008年の写真を載せることには、意義があるものと思っています。2008年変わらぬ風景はないからです。
特に廃墟の場合は、劣化が進み、倒壊あるいは解体されてしまうこともあります。この撮影後の4年後には、旧松尾鉱山中学校(後に生活学園)は解体され、現存しません。

左に見えるのが、現存しない旧松尾鉱山中学校の校舎体育館

その当時の状況をアーカイブし、今に伝えられるのは、情報が流れてしまうSNSよりも、HPやブログに軍配が上がると思っています。
ということで、何度か再掲していますが、改めて一気に再現像した写真をここに掲載します。

独身寮「至誠寮」とその周辺

1泊2日工程とは言え、栃木から岩手への移動距離はそれなりにあります。写真データを見ると、初日の撮影開始は午後2時半を過ぎていました。
東京から来たなべ氏を拾ってからだったので、それなりに時間はかかっていますね。

ということで、この日は独身寮「至誠寮」とその周辺を撮影しました。

松尾鉱山は、1911年(明治44年)に採掘が開始され、主に硫黄が採掘されていました。一時期は日本一の硫黄採掘量を誇った松尾鉱山も、その後海外の安い硫黄の輸入や、石油精製の副産物として硫黄が取れるようになったために需要が減り、1969年(昭和44年)に会社が倒産、その後、黄鉄鉱に絞った新会社ができるも、1972年(昭和47年)にはこれも倒産し、閉山となりました。
その後、木造住宅は取り壊され、鉄筋コンクリートのアパートのみが残されたまま、現在に至っています。
これらのアパートは、当時としては近代的な水洗トイレが完備され、集中暖房(セントラルヒーティング)も採用されていたようです。
鉄筋コンクリートのアパートは、1950年代から60年代にかけて建造されたもののようです。撮影当時の2008年でも、閉山から40年近く経過し、築年数は半世紀を経過し、周辺の山は5月でも雪が残る豪雪地帯ですから、冬の雪による重みで、建物の劣化は一段と進んでいます。

写真にあるように、一部には鉱山施設の遺構も残されていました。

木造モルタル、ブロックで構成された平屋の建物、現在はさらに倒壊が進んでいますが、この撮影当時でも、すでに屋根はほぼ崩壊、雪国の廃墟はまっ先に屋根がやられます。共同浴場らしきものが残されており、ここも独身寮だったのかは定かではないものの、「至誠寮」の向かいに現存する建物です。

「至誠寮」に向かいます。
流石に鉄筋コンクリートとは言え、半世紀も経過すると大幅に劣化が進み、一部雪の重みで崩壊しています。

当時近代的な鉄筋コンクリートのアパートだった独身寮、コンクリートだけど、窓や引き戸は木製で、時代を感じさせます。
1階部分の広間には、閉山後の鉱害防止工事のための地質調査をしたと思われる木製のケースが多数残されていました。
「昭和52年度松尾鉱山鉱害防止工事 新中和処理施設(貯泥ダム)調査  日鉄鉱コンサルタント(株)」と書かれていました。

この中和処理施設は、1982年(昭和57年)より稼働し、現在に至るまで、松尾鉱山より流れ出る強酸性で鉄分や砒素を多く含む坑廃水を中和しています。
Googleマップでは、北側に貯泥ダムが見えますね。

この日はこの周辺撮影で夕方を迎えたため、緑ヶ丘アパートを眺めつつ、宿泊先の八幡平市内に移動しました。

2日目に続く。

【冬の夕張】石炭の歴史村とその周辺 2008年2月撮影

北海道の夕張市と言えば、夕張メロンが有名であり、そしてかつて炭鉱の町として大いににぎわった町でした。
故高倉健主演、倍賞千恵子、桃井かおりや武田鉄矢が出演する映画「幸福の黄色いハンカチ」(1977年・山田洋次監督)では、まだ炭鉱でにぎわい活気のあった夕張の町が登場します。

しかし、石炭から石油へのシフトや低価格な海外産石炭の輸入増、炭鉱事故など様々な理由により、国内の炭鉱は次第に縮小し、夕張の炭鉱は1990年までに全て閉山しています。
これに伴い、夕張の町も人口が減って税収減により財政が苦しくなり、観光シフトのために箱モノに投資するも、バブル崩壊や観光客減などにより、2007年には市の財政が破綻するに至っています。

撮影は、その財政破綻から1年が経とうとする2008年2月、北海道に出向いての撮影です。
レンタカーでの移動でしたが、夕張は積雪量も多く、建物は管理されていないとすぐに痛む状況です。

当時、夕張市石炭博物館(通称「石炭の歴史村」)は、管理していた第三セクターが2006年に経営破綻、2007年には別の観光会社が引き継いでいます。
雪が深いため、冬期間は営業していませんが建物の老朽化と合わせて、本当に現役なの?と思わせるような雰囲気でした。

石炭の歴史村にあった「夕張ロボット大博物館」も、この撮影後の2008年8月に解体されました。中には新世紀ロボ ユーバロット( )という大きなロボットもあったようですが、建物ごと解体されています。
残念ながら、写真では雪に閉ざされて、中の様子をうかがう事はできませんでした。

北海道の観光地は、冬期間も除雪して観光客を迎えていますが、そもそも積雪量の多い夕張、札幌からも少し遠く、足を運ぶのが難しい地域でもあります。
こうした土地の事情もあり、冬季休業するために、観光客を呼べる期間は年の半分しかないのも、観光地として定着しない一員でしょうね。

10年前に撮影した、本の表紙にもなった廃墟 Hotel Peace

ちょうど10年前の今日、高校時代の同期と後輩と共に、伊東方面廃墟撮影に出かけていました。当時、と言うか今もですが、GWは廃墟撮影をよく行っています。
その過程で撮影したラブホの廃墟です。

2012年4月29日のHotel Peace

地方によくある風景ですし、はっきり言うと廃墟写真的には大して映えないものでしたが、この写真が新潮社のとある編集さんの目に止まり、作品の情景にピッタリ、ということで小説の表紙として使っていただけました

現在では、この小説は表紙がイラストとなり、私の写真は使われていませんが、紀伊國屋書店の電子書籍で5/5(木)まで30%オフで販売中です。

※Amazonと楽天では通常価格での販売となっています。


ホテルの他に、カラオケボックス、飲食店、パチスロと、いかにも高度経済成長期に建てられた作りですね。
廃墟的には見るべきものはなく、ただただ記録のように撮ってしまいましたが、こんな写真が使われるなんて、ただただ恐縮です。

ちなみに、このホテルの所有者だった会社は、2015年までは法人として登記されているようです。
そしてこの建物は現存しません。

写真撮影後の2ヶ月後の2012年6月から、2015年2月までは、Googleストリートビューに建物が存在することが確認できます。

その後、2017年のストリートビューでは、建物が解体されて更地になっているのが確認でき(草木に埋もれた看板のみ残っていますが)、2019年には現在のセブンイレブンが営業しているのが確認できます。

ただの何でもない風景ですが、写真に収めて時間が経過すれば、今はもう見られない記録として残る訳ですね。なんでもない風景も、10年一昔ということです。
そんなこんなで、日々写真をと入り続けています。

三峰山ロープウェイ 廃止後の姿 2008年4月撮影

埼玉県秩父は三峰山にある三峯神社へのアクセスとして、秩父鉄道が1939年(昭和14年)に開業した三峰山ロープウェイ。
1965年に三峯神社へのアクセスが容易となる道路が整備されたことで、ロープウェイの利用客は徐々に減少、2006年(平成18年)に金属疲労が見つかったことで休止し、同年廃止となりました。
2009年には解体されてしまったため、この写真は廃止後の姿を捉えた、今となっては貴重なものとなりました。

実は廃止直前に、実際にこのロープウェイに乗ったことがあるのですが、どうにもその頃の写真が発掘できません。何枚かは撮ったはずなので、(当時はフィルム・デジタルはサブで、ど知多にしろ今より枚数は撮れなかった時代)発掘するとして、廃線後の2008年4月の写真を掲載します。

大輪駅周辺

三峰山頂駅周辺