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【埼玉】2007年以来18年ぶりに白岩集落を訪問してみた その4

上白岩の散策を終えて、最後に下白岩へ向かいます。

下白岩へ

まだ建物は健在ですね。

道を進むとなんともサイコパスな状況を目撃しました。

ナンデスカ?この状況

ナンデスカ?

ハンガーにかかったスーツ、いや背広と言ったほうが良いかな? 電柱や電柱支持ワイヤーに引っかかっていました。
さすがに廃墟歴四半世紀なワタシ、ビビリはしないけど、恐らくこの先の廃屋から持ち出して引っ掛けたいたずらでしょうね。
相応に汚れているので、つい最近の仕業ではないにしろ、この何ヶ月かで行われたことでしょう。こういういたずらは本当に辞めてほしいですね。

サイコパスないたずらを見つつ、廃屋を眺めます。

こちらの住宅は、2007年当時は窓も扉も閉ざされていて、中の様子を見ることは出来なかったと思われます。
現在では窓や扉が破損した結果、中が見える状態に。先程のサイコパスなスーツ、いや背広はもしかしたらこのお宅のタンスにあったものかもしれません。

2007年当時のこのお宅付近の写真は、あまり撮っていないようです。

2槽式洗濯機は変わらず現存していますが、やはり2007年と2025年では、窓や扉が徐々に壊れて言っている様子が見て取れますね。

もう1軒のお宅、表札がありお名前もありましたが、名字は伏せておきます。

誰かが写真を取ってきてこの縁側に置いたのでしょうね。2025年時点では扉が開いているし、雨戸もなくなって中が見える状態に。

2007年時点では扉は締まり、雨戸も全て存在しました。
しかし2階部分の一部の雨戸は外れていますね。こうして少しずつ雨戸も崩壊して外れていったのでしょう。
とにかく2007年時点では、閉ざされた廃屋で、内部をうかがい知ることは出来ませんでした。

時間の関係で2025年は訪問していない2007年の下白岩の写真も掲載しておきます。

現在では恐らく倒壊して失われた光景と思われます。

以上、4回に分けて記載した2007年と2025年の白岩集落の写真、如何だったでしょうか?
18年の時の経過は残酷ではあるけど、案外残っているものもあり、失われたものありと、それらを記録に残せたのは良かったかなと個人的に思います。

そして2007年の写真は当時のブログに掲載していたものを、解像度をアップして再掲しました。
また十年後にでも、機会がれば訪れてみたいと思います。

【埼玉】2007年以来18年ぶりに白岩集落を訪問してみた その3

上白岩地区でも象徴的な物件です。

かつては多くの残留物がありました。
しかし、時を経て痛みも激しくなり、床はほぼ崩壊してしまいました。そして残留物も流出消失が進みました。
少しずつ崩壊して風通しが良くなった結果ですね。

この状況を見ると、向こう数年で倒壊する可能性もありそうです。
レコードは石野真子のベストヒットアルバムで、1979年発売です。ジャケットはどこに行ったのかな? 以前は車雑誌も多く残されていましたが、今はケンメリが載っている雑誌が1冊かろうじて残っているだけです。
裏手から撮った2階部分にはNationalのテレビの箱が。高級品だったテレビですが、型式はTC-39Gとあり、検索すると19インチの真空管白黒テレビ、昭和38年(1963年)の製品ですね。箱が現存していることに驚きですが、テレビはすでに見当たらないですね。

そして2007年3月はと言うと…

こちらはフィルムで撮影↓

あの有名だったこの物件のペダルカー、スモールバードに子供用の自転車が。

そしてこちらはCOOLPIX 5400で撮影↓

スモールバードの隣には初代フェアレディZのおもちゃが。これも1969年~のものでしょうね。この家がいつまで使われたかが不明ですが、残留物は学習机など70年代のものが多く、その頃にお子さんがいたということでしょうね。やがてそのお子さんは成長して、車に興味を持つようになった、そんな背景が伺えます。
この撮影時点ではまた床も健在で、多くの生活の跡が残っていました。
18年の時の経過は、あらゆるものを無にしてしまいました。

National TC-39G 真空管白黒テレビ 精巧な人工頭脳搭載!

そして2007年、外に転がっていたテレビがまさに、現在も箱だけが残るNationalの白黒テレビTC-39G。なんとこの時代に”精巧な人工頭脳”を搭載していたのが売りだったようです。
残念ながら2025年にこのテレビは見当たらず、土に帰ってしまったのでしょう。

それでは2025年に戻ります。周辺の写真を撮りつつ、もと来た道を戻ります。

何故かウルフルズのCDが供えられていました。もと来た道を戻りながら何枚か。社有地につき~の看板、どれも会社撤退したために社名が塗りつぶされていましたが、よく見ると「JFEミネラル」と書かれていますね。

時間がまだあったので、下白岩へ行ってみます。

続く…(次回で最後です)

【埼玉】2007年以来18年ぶりに白岩集落を訪問してみた その2

前回の続きです。

上白岩地区に向けて、登山道を上がっていきます。

途中、電柱がありましたが、電力線は張られておらず、撤去されてリール上に巻かれていました。
鉱山施設が廃止されたためでしょうね。この上の集落も無人になって久しく、もはや電線は必要ないのでしょう。

重複しますが、2007年3月の写真では、当然電力線は使用されていました。

2007年3月当時はまだ電柱の電力線は使用されていた

やはり18年の差は大きいですね。

登山道も上白岩集落手前は割と勾配が大きくなり、足元も滑りやすいので気をつけてくださいね。

上白岩に到着です。

上白岩集落へ

やはり18年の時の経過は大きいですね。2007年当時よりも、当然ながらあらゆるものの崩壊が進んでいます。

上の家屋にはお子さんもいたのでしょうね。ラジコンは80年代と思われるハイラックス、アンテナの形状もあの時代のものですね。落ちていた靴も子供サイズでした。
引っ越した際に、かなりのものを残留させたまま出ていったのがわかります。車が入れないこの場所だと、あらゆるものは人力で運んでいたのでしょうから、荷物の搬出は難しかったのでしょうね。
でも、どうやって搬入したのだろう。やはり人力なのかな?

転がっているガス瞬間湯沸かし器。今20代以下の人は見たことがないのでは? 現在では給湯器で各蛇口に温水供給できますが、昔はこうした後付のガス瞬間湯沸かし器が台所に据え付けられて、ここがお風呂以外唯一お湯が出せました。自分の子供の頃はこういうのが使われていましたね。直ぐ温かいお湯が出るのは良かったですけど、点火が怖かったなぁ…。
型式はパロマのPH-5QBとあり、調べると製造は昭和57~59年(1982~84年)とありました。残留物は70~80年代製造のものが多いですね。

さて18年前の2007年3月の写真です。

2007年3月はやはり残留物は多く、子供の遊具が残っていたり、給湯器はまだちゃんと台所に据え付けられていました。後半の写真の建物は現在倒壊、または解体されたものです。
あの当時、来ていてよかったと思います。こうして写真として残せたのだから。
上の写真はいずれもフィルムで撮影しスキャンしたものです。

そしてCOOLPIX 5400での撮影はこちら。

やっぱりこの時代のデジカメは、色がフィルムと比較するとちょっと変。あえて補正せず掲載します。
車雑誌と無線機があったこの建物は、2025年倒壊してしまっています。

では2025年に戻り、奥に進みます。

2007年当時は雨戸で閉ざされていたお宅です。しかし18年の時の経過は残酷で、雨戸は崩壊して内部が見える状態になっていました。お風呂が離れになっているのは時代を感じさせます。冷蔵庫も2台ありますが、これを運ぶのは大変だったのではと思いますね。
残留物はやはり80年代を感じさせるもので、置かれていた雑誌のTVガイドをめくってみると、1982年の年末、1983年年始の情報が掲載されていました。あの時代のTVガイド誌はこんなに分厚かったのですね。インターネットが影も形もなかった時代ですからね。
広告もmagnaxのビデオテープ(VHSとベータ)で、magnaxはコニカでおなじみ小西六と米アンペックスの合弁会社小西六アンペックスのブランドでした。後にアンペックスが民生用磁気テープ事業から撤退したために合弁事業も解消され、コニカが単独でテープメディアを販売するに至ります。

2007年3月はと言うと…

2007年3月時点では落書きもなく、雨戸でしっかり閉ざされていた

この当時は雨戸でしっかり閉ざされていて、ここを引き払うときに入口もしっかり封鎖したのでしょうね。
しかし時の経過は残酷ですね。

ではお向かいに移動します。

続く…

【埼玉】2007年以来18年ぶりに白岩集落を訪問してみた その1

埼玉県飯能市のやまね酒造でお酒を買った後、せっかくここまで足を延ばしたので、18年ぶりに白岩集落の現状を見たくなって行ってきました。
ま、実は撮影の準備もしていたわけですが。この冬休み、予定が色々変わって撮影行けないと思っていましたが、2年ぶりに恒例の廃墟散策できました。

10年ひと昔と言うけれど、18年ともなればふた昔と言うことで、前回訪問時からの変化も大きいはず。

白岩集落へは旧JFEミネラル武蔵野鉱業所の脇の登山道を登っておおよそ30分弱のルートです。

JFEミネラル武蔵野鉱業所は2007年当時は稼働していましたが、武蔵白岩鉱山が2015年に閉山したために、鉱業所設備も同年に解体されました。

登山道の麓、現在と、かつてあったJFEミネラル武蔵野鉱業所の様子です。
この設備の脇にある登山道を登っていきました。

今回は、2007年5月に撮影した写真と合わせてご覧いただければと思います。当時はまだフィルム撮影がメイン(Nikon F90Xs)、デジタルはコンデジ(Nikon COOLPIX 5400)がサブカメラという立ち位置でした。

2025年1月現在では設備は解体され、基礎が残るのみです。
またこの土地は現在個人の私有地となっていて、立入禁止となっていました。

登山道を上がっていきます。
かつてはこの登山道から鉱業所内の様子をうかがうことができました。当時はまだ採取した石灰を運搬するトロッコが稼働していました。
現在ではその名残のレールが一部残っています。

1月に訪問にもかかわらず雪がない(気温は10℃近く)のは、温暖化の影響でしょうね。

では2007年3月の様子はと言うと…

2007年当時は現役稼働中の鉱業所、トロッコも現役でしたね。
上の写真のうち、同じようなアングルを比較してみましょう。

この建物は健在でしたが、左側にあった小屋は、18年後の現在は東海したようで見当たりませんね。

林道を更に奥へ進みます。

崩壊しかかった橋と代わりの橋
ここは登山道のため、歩けるようには整備されています。この橋は18年前にも健在だったはずなんですが、18年前は撮影していないようです。

この先を進むと、森林を抜けて一度開けた場所に出ます。

傾斜地運搬用のレールがかろうじて残っていますが、鉱業所施設は解体済みで基礎のみ残っていました。

18年前はと言うと…

建物が存在していますね。古いけど現役施設でした。

白岩集落へはまだまだです。続く…

【栃木】旧石裂小学校とその周辺(2007/2010/2012年)

栃木県鹿沼市に建造中の南摩ダム、そのさらに上にかつてあった石裂集落は、かつて鉱山があったことから栄えていましたが、戦後鉱山の採掘量が減少したことから、次第に人口減少していきました。
そこにあった旧石裂小学校は、人口減少とともに1964(昭和39)年に閉校し、しばらくは集会場として使われていたものの、それも1980年代に別の建物ができてからは、この旧石裂小学校は使われなくなりました。使われなくなってから四半世紀、建造からは果たして何年経過したのか?

2007年7月

初めてこの旧石裂小学校に出会ったのは2007年、南摩ダム建造予定地や旧梶又小学校を散策した後、たまたま道を上がって走っていて見つけました。

また周辺には良い感じに古びた建物や看板も残っていて、かつて集落として栄えていた面影を伺わせました。
この時点では右側の教員棟はボロボロになりながらまだ健在でした。

2010年6月

3年後の2010年。校舎は窓ガラスの損壊が進んでいるものの建物は健在。しかし教員棟は更に崩壊が進みつつありました。

また向かいのお寺の建物も崩壊が始まっていました。

校舎と元愛車のアコードユーロR

2012年8月

そして最後に撮影した2012年。枚数は少なめです。校舎は健在でしたが、規制線が張られていました。
隣りにあった教員棟は撮影していません。確かもうなかったような? 倒壊しっぱなしだったら撮っていたと思いますが、多分この時点で残っていなかった(解体された?)のでしょうね。

なお、古びた仏壇仏具のお店の看板は、2024年ストリートビューに写っていて健在のようです。

しかし、対岸にあったお寺の古い家屋は2014年時点までかなり崩壊が進んだところまでは存在しましたが、かなり飛んだ2023年時点では存在せず、この間に解体されたようです。

2024年現在も旧石裂小学校は健在です。いつかは再訪したいですね。

【栃木】南摩ダム建造に伴い廃校となった旧梶又小学校(2007年撮影)

2024年執筆現在、栃木県鹿沼市に建造中の南摩ダム。その構想は思川開発事業に基づき1969年(昭和44年)にダム建設の計画が始まったものの、建設反対運動もあり長年建造工事が着工されませんでした。

しかし「長年の地元住民との交渉の末、2001年には補償交渉が妥結し、全80世帯の住民は2008年(平成20年)までに地元の代替地や宇都宮市などへ移転していった。」となっており、ダム建設予定地の住人は2000年代には転居し、同地区は無人となりました。

2007年7月当時「南摩ダム全体反対」の看板が掲げられていた

2007年7月当時、上流地域では移転が決まっていたとは言え、ダム建設予定地の麓(移転しない地域)ではまだダム反対の看板が掲げられていました。
2000年代は景気後退や公共事業見直しなどで、ダム建設の中止が次々と決まっていて、南摩ダムも計画続行か中止かの間で揺れていた時期と思われます。

民主党政権化の事業仕分けなどもあり、長らく計画延期され、それでも中止決定ではないことから、水没後の道路が先に建造されていました。
そして2020年にやっとダム本体工事の着工が決まり、2025年の完成を目指しています。

2024年5月のストリートビューでは、既にダム建設が進んでいて、この先の道路は通行止めとなっています。
2007年当時はこの先のストリートビューはなく、一番古い2013年のストリートビューでは、既に「南摩ダム絶対反対」の看板やその付近の建物もなくなっています。

2007年の写真に戻ります。この当時はまだダム建設予定場所がこの辺りなのかな、とかろうじて分かる程度で、道路の架替えもまだ始まっておらず、旧来の道路は全面通行。可能でした
ダム建設予定場所から梶又小学校のある場所まで、ところどころ撮影しながら車で上っていきましたが、既に住宅は取り壊されて残っておらず、かろうじて倉庫らしきものや消防団の建物が残されている程度でした。まさに森に飲まれた感じでした。

電柱や電線はまだ健在ですね。
当時のブログは画像フォルダのサーバー移転で画像がリンク切れになっていますが、せっかくなので今回の記事用にに再編集と、一部はNikon COOLPIX 5400のRAWで撮影しているので、今回改めてRAW現像し直し、一部はAIによる解像度補完を行ったうえで、本ブログにアップしました。
このカメラのRAW撮影は非常に遅く、1枚撮ると10秒くらいは処理と書き込みで次の撮影ができないカメラでした。フィルムカメラより遅い、なんとも遊牧的なカメラでしたね。今みたいに連写で毎秒ン十枚撮影できる時代とは大違いです。

若い頃のワタシは、当時の南摩ダム計画に対しては反対の立場でしたね。何せ、上の写真は雨が降った後で増水した状態で、あの程度の流量しかない川なんですから。
今はもう少しドライな視点になり、もうほぼ完成が近いダムを見てみたい気持ちと、ちゃんと貯水できるのか、そちらに興味が移っています。

かなり上がったところにある梶又小学校は、2004年(平成16年)3月に閉校となりました。閉校から3年後の旧梶又小学校は当時まだ存在していました。
なお、2024年現在はダム建造も佳境を迎えており、梶又小学校があった場所の道路は現在工事車両用となっており、一般車は通ることができなくなっています。
なので、この道路はストリートビューのデータもないわけですね。
Googleマップにも地点情報はありません。

2007年の旧梶又小学校は廃校となったものの、まだ建物は残っており、火災報知器のランプも光っており、通電され管理されている状態でした。
何匹かの猫が住み着いているのが印象的でした。植物を育てているなど、まだ人の手で管理されていました。

少しづつ緑に飲まれつつありましたが、まだ廃校歴3年、きれいな状態が保たれていたと思います。

さて、2010年2012年にも同地を訪問していて、当時のブログは写真もちゃんと表示される状態ですが、改めて編集して記事にしたいと思います。

LrCで古いCOOLPIX 5400のRAW画像を再現像してみた1

重い腰を上げてAdobe Photoshop Lightroom Classicを本格導入してみましたが、やりたかったのが、古いカメラで撮ったRAWデータの再現像です。

Nikon COOLPIX 5400 (E5400)

元々AFもなかなか合わない、撮影レスポンスも良いとはいえないカメラでしたが(その当時の水準でも少し遅かった)、Firmware Ver1.4でRAW撮影ができるようになったものの、当時のCFカードの書き込み速度とカメラ自体の遅さもあって、1枚撮ると10秒以上待たされるカメラだったので、ここぞというときにRAWで撮っていました。
今の感覚からすると信じられないですが、この時代のカメラのRAW撮影は、フィルムカメラで撮るよりレスポンスが悪くて遅いし、今のように何千枚も撮れるわけではない、せいぜいフィルム2,3本程度でCFカードが埋まってしまう、そんな時代でした。
RAW現像もまだ一般的ではなく、現像ソフトもNikon Captureという有料ソフト、まだ一般人でRAW現像するなんてのは、あまりなかったかと思います。まだデジタルカメラは、ソフトもハードも未成熟な時代でした。

ピクチャーコントロール以前のカメラのRAW現像

Nikon純正のRAW現像ソフトは、有料のNikon Capture、Capture NX、Capture NX2、無料となったCapture NX-Dを経て、現在はビュワーソフトと統合されたNX Studioとなっていますが、ピクチャーコントロールが採用される以前のカメラ、特にRAW撮影可能となった初期のCOOLPIXは、ピクチャーコントロール対応機と比較して調整項目は少ないのです。

COOLPIX 5400のRAWデータの調整項目は少ない

ピクチャーコントロールは選べず、元々のカメラに付いていた3段階の輪郭強調や階調補正、色の濃さや色合い、ホワイトバランスと露出補正、ノイズリダクションとトーンカーブしか選べません。ただ、カラーコントロールポイントは使えますし(これはRAWでなくJPGやTIFF、他社カメラの画像でも使用可能)、RAWデータでなくても調整可能な項目は一通り調整可能です。
なので決して自由度が低いわけではないのですが、調整しづらいのは確かです。

これがLightroom Classicであれば、特に制約なく調整可能です。
プリセットカラーも最新機種と同様に適用できますし、何ならAIによるスーパー解像度やノイズ軽減も使用可能です。
特に、510万画素しか無いCOOLPIX 5400にとっては、きちんとブレなく撮っていれば、AIによるスーパー解像度はかなり有効でした。もっとも、基本感度が何とISO50!、最大でもISO400!しかないCOOLPIX 5400で、手ブレ補正機構もない中、手持ちでブレなくきれいに撮れるのは、晴天下でないと難しかったわけですが…。

フィルムで言えば、ISO50はVelvia 50(昔は素のVelvia)ですからね。

2005年から2007年にかけてRAWで撮影した写真です。

RAWで撮ることは、リバーサルフィルムで撮るより難しかったCOOLPIX 5400ですが、20年近く時を経て蘇りました。
Web掲載程度なら何ら遜色ないクオリティです。
特に純正のNX Studioと違うのは、ハイライトの表現の仕方です。白飛びしやすかったのはカメラの特性と思って諦めていましたが、Lightroomで現像すると、案外階調が残っていることがわかりました。こうしたハイライトのピーキーな部分は、Lightroomのほうが上手ですね。NX Studioだと手動調整で色々いじらないと難しいのが、あっさり自動調整でできて、あとは自分の好みに調整すれば良いので、断然楽ですね。

Lightroom ClassicとNX Studioの比較

下の画像は、左がLightroom Classic、右がNX Studioで現像したものです。
少しLrCのほうが色が濃くなってしまいましたが、空や山肌の階調がよく出ています。

←Lightroom Classic NX Studio→

NX Studioが悪いわけではないのですが、ワークフローは断然Lightroom Classicのほうが楽ですね、古いカメラのRAWに関しては。

Lightroomのスーパー解像度で古いデジカメのRAWを高解像度化してみた

Adobe Photoshop Lightroom Classicといえば、定番のRAW現像ソフトで、最も多くのユーザーが使用している現像ソフトです。
ただ、長年Nikonの純正RAW現像ソフトを使ってきたためか、どうもLightroomなどの現像ソフトが生成する「カタログファイル」のように、ソフト側のカタログに画像ファイルを登録しないと表示できない、というシステムが嫌いでした。
フォルダの位置を変えたりすると、いちいち登録しなければならないし、カタログファイル生成にものすごく時間がかかるし、とにかく嫌いでした。
なので、Lightroomも何度かお試しでインストールしては、やっぱ性に合わないなとアンインストールの繰り返し。

とは言え、そろそろ慣れていかないとな~と思って、やっと重い腰を上げてサブスクリプションを導入しました。いわゆるAdobe課金です。
ただ、無料のNikonのRAW現像ソフト、NX Studioも処理が重たいという以外は非常に良く出来たソフトで、特に部分的に画像を補正できるコントロールポイントが、プラグインなどに課金無しで無料で使えるのが良いのと、インターフェイスも直感的で、無料ソフトとしてはよく出来ていますし、今後も併用するとして、今回Lightroomが良いなと思ったのは、古いカメラのRAW現像は、明らかにNX Studioより良く出来ていると思った点でしょうか。

例えば、2003年発売と、今から20年前の上級コンパクトデジカメ、Nikon COOLPIX 5400は、510万画素のカメラで、今となってはスマホ以下の画素数しかありませんが、FW Ver1.4でRAW撮影機能がサポートされました。最も使っていた当時はまともなRAW現像ソフトを持っておらず(その時代のNikonの純正RAW現像ソフト、Nikon Captureは当時有料ソフトでした)、RAW撮影のメリットがあまり見いだせていませんでした。

しかし20年を経た今、現代のソフトでその真価を活かすことが出来ました。まずはNikon純正のNX Studioで現像してみました。調整を加えています。
ちょうど18年前に撮影した足尾銅山精錬所です。今ではこの精錬所の建物は取り壊されています。

Nikon COOLPIX5400 NX StudioでRAW現像

次にAdobe Photoshop Lightroom Classicで現像したものです。なお、ここではスーパー解像度を使用したものを、Web用に縮小して掲載しています。

Adobe Lightroom Classic 2023のスーパー解像度
Nikon COOLPIX5400 Adobe Lightroom ClassicでRAW現像
画像比較 左がNX Studio 右がLightroom Classic

まず色合いが格段に良いです。COOLPIX 5400は古いので、所詮画質は…と思っていましたが、Lightroomのほうが明らかにディテールが出ていますし、色味も良いですね。ただLightroomは彩度を上げていないけど、少々彩度が高めですね。
例えば飽和していると思った空のハイライトが、Lightroomではだいぶ自然に出ています。また暗部の階調を持ち上げた結果、ややシャドーが浮いてしまったNX Studioの現像と違い、Lightroomは自然なトーンになっています。ちなみにスーパー解像度を適用する前段階でも、Lightroomのほうが解像感がありました。シャープネスがやや強めとも言えますが。
車は当時乗っていたアコード ユーロR(CL7)です。

NX Studio
Adobe Photoshop Lightroom Classic (スーパー解像度)

これだけディテールに差が出ています。
スーパー解像度は、最近の高画素のカメラで撮ったものより、こうした昔の低画素のカメラで撮ったもののほうが威力を発揮しているように思います。

15年前の今日取得した国際運転免許証

まだ20代だった若い頃、長期のアメリカ出張で現地で運転が必要、ということで取得した国際運転免許証。あれからもうそんなに経ったのか、という感じです。

国際運転免許証は住んでいる都道府県の公安委員会が発行

当時、仕事で海外出張が増える、特にアメリカは自力移動手段は車しかないため、会社で国際運転免許証を取得させられました。
といっても、運転免許証自体を持っていれば、あとは都道府県の公安委員会(運転免許試験センターなどに入っている)に手続きすれば、簡単に発行できます。
上のような紙っぺらなんですけどね。今でもそうなのかな?
ジュネーブ条約を締結している国で有効です。この紙っぺらとともに、通常の日本の運転免許証も携行する必要があります。

当時は栃木県に住んでいたので、鹿沼の運転免許試験センターで取得しました。なお、有効期限は1年と短いため、長期間に渡る海外渡航の場合は注意が必要です。

実際にアメリカで運転しましたが、最初は必ずやる「ウインカーとワイパーレバーを間違える」は5回くらいやったかな(笑

アメリカ出張で乗ったUSアコード、外観は当時の日本でのインスパイアだけど、内装は日本のアコードと同じデザイン(なお日本のアコードより質感は低い)

実際に海外で運転したのは、アメリカ、オーストラリア、新婚旅行で行ったハワイ程度でしたが、良い思い出です。
今となっては海外出張の機会はなくなって、パスポートも期限切れてしまいました。

オーストラリアは日本と同じ左側通行の右ハンドルなので、運転感覚は日本と同じだったので、また海外で運転するならオーストラリアかな~。

【2007年6月の晴海埠頭】 パキスタン海軍補給艦と駆逐艦

懐かし掘り出し写真。15年前に晴海埠頭に寄港した、パキスタン海軍のプールスター級補給艦「モーウィン(MOAWIN)」(満載排水量:16,800t)、その奥にはタクリ級駆逐艦「バブール(BABUR)」(満載排水量:3,700t)です。
奥にはホストシップとして、海上自衛隊の護衛艦「むらさめ」の姿も見えます。

COOLPIX 5400で撮影。今見ると色が…。まあ時代が時代なので仕方ないか。

手前の補給艦「モーウィン」は、元オランダ海軍の「プルースター」で、1994年にPakistan海軍が取得した中古艦です。2019年に退役しているようです。
奥にチラッとしか見えない駆逐艦「バブール」は、元英21型フリゲイト「アマゾン」で、やはり1993年に取得した中古艦です。こちらも2014年には退役しているようです。

この撮影後に、クルマに戻ろうとしていると、パキスタン海軍の駆逐艦の乗員とやらに声をかけられ、新宿に行きたいがどう行けばいいか尋ねられ、結局最寄り駅まで来るまで送ってあげましたが、その後のニュースで、何人かの乗員が艦に戻ってこなかった…なんてオチがありましたが、まさかその中の1人だったのかな?
その当時のブログはこちら

この晴海埠頭も、2022年2月には旅客ターミナルとしての役目を終え、解体となります。様々な海外艦艇を受け入れた埠頭、何度も行ったけど、その最後にはついに行けずじまいでした。