「建築物」カテゴリーアーカイブ

【写研埼玉工場】解体動向(20/10/14)

もう建物はほぼ解体済みでネタがないと思っていた、写研埼玉工場の解体状況ですが…

入口が開いていた。といっても、もう見えるのは瓦礫と土砂の山だけですが。

ところで、ふと思い立って、別の場所から撮れないか探した所、あっさりと良い場所を見つけました。

写研埼玉工場 厚生棟裏手

通りを挟んで解体未着手の厚生棟、その裏手は上り坂となっていて、笹目通りへのアプローチになっています。

厚生棟の横辺りから、埼玉工場の様子、フェンス越しに確認できました。なんだ、もう少し早く気づけば、メインビル最後の解体は見えたのかもね。

現在は、瓦礫をトラックに積んで搬出の作業をしているようです。撤去がある程度完了したら、最後に守衛所も解体されることでしょう。

さて、毎週確認してきた写研埼玉工場解体の確認ですが、今後仕事の関係で、朝確認をすることが難しくなってきそうです。
せめて、外構と看板の撤去までは見守りたいところです。

【写研】土地建物の現状

写研埼玉工場、メインビル、第2工場ともすっかり建物は解体され、解体瓦礫を撤去する作業が続いています。また、第2工場は地下もあるため、地下部分の解体は引き続き続いているようでしたが、残念ながら、この場所からは確認が難しいです。

せっかく写研埼玉工場の解体を追ってきましたので、ここでは付け焼き刃的記事になってしまいそうですが、調べられる限りで、写研に関連する建物の現状をまとめてみました。

一部は過去の記事と重複しますが、ここでまとめてみたいと思います。

株式会社 写研本社

株式会社「写研」の本社は、2020年10月執筆現在、東京都豊島区南大塚2丁目26−13にあります。

現在はメインの通りは中規模ビル街となっている南大塚の通りですが、1972年(昭和47年)に新築された現写研本社ビル、当時は周辺もまだ一般住宅も多かったようです。また、この本社ビル新築時に、社名を従来の「株式会社写真植字機研究所」から「株式会社写研」の改称したとのことです。
これ以前の本社は、豊島区巣鴨に存在していました。

ちなみに、写研は現在に至るもHPを持たない会社(2019年ドメインのみ取得)として知られています。

写研トライアルセンター

写研本社のすぐ近くに存在する「写研トライアルセンター」。ストリートビューでは、2009年時点のデータからありますが、その当時は自販機が設置してあり、鎖も卸されていて、掃除をされている方の写真も写っています。が、2018年以降は自販機も撤去され、鎖も卸された状態です。現在は使用されていないと思われます。

トライアルセンター、という名称から、写植機のデモ機を置いていたのか、あるいは写植オペレーターの育成を行っていたのか、情報がないため、ご存じの方がいらっしゃいましたら、コメントに書き込んでいただければと思います。

写研埼玉工場

写研の記事を書くきっかけとなった、埼玉県和光市に存在した工場です。
1963年(昭和38年)、本社近隣にあった工場が手狭になったとのことで、埼玉県和光市に移転し第1工場を建設、その2年後の1970年(昭和40年)には、より大きな第2工場を建築、更に第2工場は1970年(昭和45年)を増築したとのことです。

当ブログでも

写研埼玉工場跡地はスーパーマーケット「ヤオコー」になるらしい

この埼玉工場後は、開発行為等計画標識に書かれているように、スーパーマーケットの「ヤオコー」に生まれ変わるようです。

写研埼玉工場 厚生棟

メインビルの通りを挟んだ向かいにある厚生棟は、2020年10月現在、解体着手されていません。2階が更衣室、3,4階が社員食堂として使用されていたようです。
現在この建物の所有者は、とある方が登記簿を確認し、2019年11月時点で、同じ和光市内のとある企業の所有となっています。情報提供ありがとうございます。

2020年10月時点では、写研埼玉工場解体業者の駐車場として、1階部分は使われているようです。

写研新倉分室(写研メディア研究所)

埼玉工場と同じ、埼玉県の和光市にかつて存在した新倉分室。別名、写研メディア研究所とも言われていたようです。

1986年(昭和61年)に建造、メディア研究所では、大学との委託研究など進めていたようで、自由なテーマで1年間に1つ論文を書くという制度もあったようです。
ストリートビューでは2015年の写真も出てきますが、もうその時点では使われている形跡はありませんでした。
ここが何時まで使わてていたかはわかりませんが、恐らく今世紀に入ってからは、写研の業績が悪化して社員数も激減したため、使われなくなったのではないかと想像します。そして、2020年に入って解体されたようです。

旧写研メディア研究所(新倉分室)跡地

2020年9月時点では、写真のような空き地になっていますが、周辺は住宅地であることから、いずれはここも住宅地になると思われます。

写研川越工場

写研川越工場は、1982年(昭和57年)に埼玉県川越市芳野台2丁目8−70にかつて存在していました。手動写植(後期のPAVOとSPICAモデル)の生産を行っていたとされています。

現在は解体され、2019年1月に、物流倉庫「SOSiLA川越」となっています。

2007年時点で、川越工場の従業員はわずか10名だったそうで、その人数では、建物の管理とか、ちょっとした保守部品の生産程度しかできなかったと思われます。最盛期は400人超えだったそうです。それを考えると、2010年代の初頭には、ほぼ工場として機能していなかったと推察します。

ストリートビューを見ると、解体前の2017年の時点では、草が刈り取られ、植樹も消えていること、内部にトラックが入っている様子が伺えることから、この時点で解体は決まっていたと思われます

SOSiLA川越建造時の記事には、

今回の「SOSiLA川越」の開発はその商社としての総合力を物語っている。「この土地は写研さんの遊休地だったのですが、鶴ヶ島の土地とこの芳野台の土地の両方を1社で引き受けてくれるのなら、売却しますということでした。

https://www.lnews.jp/2019/02/l0201301.html

との記述があり、住友商事が一手に2つの土地の買収と開発事業を手掛けたようです。

写研 鶴ヶ島にあった土地

上の記事にあった「鶴ヶ島の土地」ですが、とある方からメッセージを頂き、ここだったのではないか? という情報を頂きました。
ただし、情報を裏付けるものは未確認につき、本当にここだったかは不明です。

その場所は、現在、ケーズデンキ鶴ヶ島店となっています。この場所は、長いこと空き地となっていましたが、2017年12月に、ケーズデンキ鶴ヶ島店となりました。

国土地理委員の航空写真でも、1979~83年では空き地となっていますが、草が生えていないことから、運動場として使われていたのではないか? ということでした。

国土地理院地図より 1979-1983年の航空写真

※国土地理院地図がHTMLで上手く表示できていないようなので、画像貼り付けにしました。

この場所については、現時点で確証が取れておりませんので、情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、コメントに記載お願いいたします。
ところでWikiPediaには、最近この鶴ヶ島の土地に関する記述が追加されましたが、住友商事に売却されたのが「2018年」とは、先の記事のどこにも書いていません。WikiPediaなので、話半分に見たほうがいいかなとは思います。

写研一宮研修センター

千葉県長生郡一宮町船頭給2480にある、写研一宮研修センター。かつては社内研修で使用されていたようです。

ストリートビューでは2014年3月のデータのみでしたが、この時点では車が停まっており、管理はされている状態でした。

しかし2020年8月の、とある方のツイートで写真が公開されていましたが、雑草が生えた状態で、しばらく管理されていない状態となっていました。

写研五日市レクリエーションセンター

名称の情報を頂いたものの、未確認地点です。この名称のみで検索すると、NAVITIMEのHPにのみ情報がありました。東京都あきる野市網代430番地です。
それをGoogleマップで確認したのが、上の地図で、2020年10月現在はGoogleマップでは安達国際合資会社とされていますが、この会社自体は八王子にあり、この場所については記載されていません。
また、この住所を検索すると、2020年1月法人登録検索のHPに、株式会社龍辰(ろうしん)という会社が登録されているようでした。ただ、この会社も登記されたのみで実態は不明です。

国土地理院地図より 1974-1978年の航空写真

国土地理院の地図では、1974~78年の写真時点でこの建物は存在しますが、リクリエーション施設として何だったのかは不明ですし、確証もない感じです。

情報ご存知でしたら、コメントに記載して下さい。

写研屋久島研修センター

自然豊かな島として知られる屋久島にも、かつて写研の研修センターがあったようです。鹿児島県熊毛郡屋久島町小島161−1です。
ストリートビューでは、車道から遠いため、屋根だけが確認できる状態です。
この場所は、写真も検索しましたが、建物全体の画像はなく、衛星写真のみです。


以上が、私が調べた、あるいは情報を頂いた、写研関連の建物とその現状です。すでに本社以外機能していない、あるいは解体、売却されており、写研自体も存続が危ぶまれている状況の中、現存する建物が今後どうなるのか、気になるところです。

【写研埼玉工場】解体動向(20/10/5)

前回の撮影から1週間。

【写研埼玉工場】解体動向(20/10/5)

ついに、写研埼玉工場の建物が消えました。

メインビル、第2工場ともに、跡形もなくなりました。正確に言うと、写真は撮れなかったけど、工事車両出入り口から、1階の壁のごく一部は見えましたが、ほぼ解体完了です。見ての通り防音壁は全て撤去済みで、瓦礫の山のみの状態に。
この瓦礫を撤去したら、外構の解体も始まるのでしょうね。

まだ解体されていない守衛所

埼玉工場で唯一手つかずで残っている守衛所。メインビルと門の間にあるため、メインビルの瓦礫撤去が終わってからの解体となるのでしょう。小さいので半日もあれば撤去できそうです。

写研埼玉工場のインターホン

外構は手つかずなので、まだこうしたインターホンも残されています。当然、押しても誰も出てきません(出てきたら怖い)。

そんなこんなで、建物の解体は一通り完了し、この辺りでは周辺のマンションと同じくらい高かったビルがなくなり、向こうまで見えるようになりました。
時間が出来たら、他の写研の建物もどうなっているか、まとめたいと思います。

光が丘清掃工場の煙突2

只今建替え中の、練馬区の光が丘清掃工場ですが、煙突をずーっと撮影し続けて、タイムラプス化した第2段です。

光が丘清掃工場の煙突(2020年9月3日~24日)

工場建て替えで、煙突の塗装を上から少しずつ行い、9月末には見える範囲での塗装は終わったようです。
HPを見ると、まだ下のほうが塗装中のようですが、今月いっぱいで終わりそうな感じですかね。

4月、自粛期間でほとんど外出していなかったこの時期に撮った煙突は、まだ煙突自体の建造中でした。塗装もされていませんね。

コンクリむき出しだった煙突は、9月までにはほとんど白い塗装がされて、完成が近づいていますね。

さてタイムラプスでシャッターを消耗させ、耐久20万ショットに近づいたD810は、しばらくお休みさせますが、これから湿度が下がる飽きから冬にかけては、、富士山が我が家からきれいに見える季節なので、今度は富士山のタイムラプス、また撮りたいと思います。

【写研埼玉工場】解体動向(20/9/28)

写研埼玉工場(20/9/28)

3ヶ月半に渡って撮影した写研埼玉工場解体も、そろそろ終りが近づいてきました。台風の影響など雨がちで先週は撮影できず、週明けの昨日朝と、夜、見てきました。

ご覧の通り、メインビルも第2工場も、1階の壁を残してほとんど解体されました。この10日間に、第2工場はあっという間に解体されてしまった感じですね。

あれだけ大きかったメインビルも、もはや1階部分と2階のごく一部の壁のみとなりました。跡が瓦礫を撤去しつつ、残りの壁を解体するのでしょう。

ということで、ほとんど解体されてしまいましたので、写真的にはこれ以上は難しいかなとは思っています。
ただ、交差点から見える写研の看板が撤去されるまでは、ちょくちょく確認はしたいと思います。


仕事帰り、少し寄ってみました。もう下から見える部分はほぼ解体されてしまいました。

左上の写真は、メインビルが解体されて、通りを挟んだ奥に厚生棟が見える状態です。
右上は、メインビルの防音壁。防音壁自体も、ビルの解体が進んで撤去されて、高さが低くなりました。

解体されていない厚生棟

今や、手つかずなのは、メインビル手前の守衛所と、この厚生棟のみとなりました。

厚生棟は、1階の駐車場が、解体業者の駐車場となっています。建物自体は全く手がつけられていません。

ところで、この厚生棟も、すでに持ち主は写研ではなくなっています。とある方より情報をいただき、登記簿を確認させていただきました。同じ和光市内の、ここからそう遠くない場所にある、とある企業が保有しているようです。昨年11月に売却されたそうです。
その企業がこの場所をどうするかは不明です。少なくとも、現時点では手つかずの状態ではあります。

小川鎮守 素鵞神社に行ってきた

もうだいぶ前になってしまったけど、百里基地帰りに、百里神社に寄った後、百里神社を管理している小川鎮守 素鵞神社(そがじんじゃ)に行ってきました。
カーナビで行けますが、ちょっと分かりづらい場所にありますね。

ちょうど持ち合わせがなくて、賽銭だけ入れてきましたが、百里神社の御奉賛を受け付けているということなので、次回は納めたいと思います。

最後の1枚は、祇園祭の神輿が入っているそうです。
全国的に、COVID-19の影響で、お祭りも規模縮小や中止に追い込まれていますが、小川の祇園祭も、今年は神事のみ実施だったようです。


ところで、素鵞神社のお隣に、廃れた遊具があったので、ちょいと覗いてみました。

後で調べたところ、「元ハーモニーおみたま」という、不登校児童生徒の支援施設だったようで、現在は別の場所に移動しているようです。
草に埋もれた遊具が印象的でした。
きちんと管理されているはずなので、廃墟にはカテゴライズしませんでした。

【写研埼玉工場】解体動向(20/9/18)

シリーズ写研埼玉工場解体。だんだん建物が見える範囲が少なくなってきました。

写研埼玉工場(20/9/18)

このシリーズも、後1ヶ月撮れるかどうか、といったところですかね。
ちなみに看板が曲がって見えますが、カメラが傾いただけです…。

第2工場は、メインビルより小さいからか、あるいは建物自体が古いからか、解体ペースはかなり早いですね。すでに、壁面を残すのみとなっていて、5階部分は完全になくなり、4階部分も後少し、といったところです。

もうメインビルは3階部分も解体が進んで、もはや目隠し越しに見るのは困難ですね。


さて、夜も来てみました。

メインビルは3階部分もほぼ解体済みのように見えます。
そして第2工場も、ほぼ壁面のみが残る状態、4階部分の壁面がかろうじて一部ある状態です。
M4/3では高感度が苦しいので、D3400で撮影していますが、それでもISO25600では、結構画質は苦しいですね。
三脚撮影したいところですが、さすがにそこまでは…ねぇ。

【写研埼玉工場とメディア研究所跡】解体動向(20/9/15)

今回、タイトルに少し変化がありますが、先日買った「写真植字機技術史 技術者たちの挑戦」(三省堂書店)のp43に書かれている、写研メディア研究所が(埼玉県)和光市新倉に1986年建設、とあり、これが一体どの辺りなのか、Twitterで聞いてみたところ、メールを頂きまして、正確な場所がわかりました。いやはや、皆様の情報に感謝感謝です!

Googleストリートビューでは、2019年9月時点では、株式会社写研「新倉分室」として建物があることが確認されました。
ただ、頂いた情報では、解体されたとのことでしたので、この1年で解体されたのでしょう。解体された現状はどうなっているのか知りたくて、行ってみました。
周辺はアップダウンの激しい地形で、住宅地のど真ん中にありました。

旧写研メディア研究所(新倉分室)跡地

なるほど、きれいに解体されて、跡形もなくなっていました。
住宅地にあるため、恐らくここもそのうち分譲されて、家かアパートが建つことでしょう。

メディア研究所では、大学との委託研究など進めていたようで、自由なテーマで1年間に1つ論文を書くという制度もあったようです。
ストリートビューでは2015年の写真も出てきますが、もうその時点では使われている形跡はありませんでした。
ここが何時まで使わてていたかはわかりませんが、恐らく今世紀に入ってからは、写研の業績が悪化してきているため、使われなくなったのではないかと想像します。
研究開発ができなくなれば、当然それは最先端の写植機にも技術反映できなくなります。
1980年代はバブル期で、写研の売上も良かった時期でしょうから、こうした研究所が独立して作られたのでしょう。写研以外にも、バブル期に建てられて、今使われていない建物、結構あるのではないかな?


第2工場の解体も進み、中央部は通り側の壁面まで解体が進んでいます。メインビルと比較して、1965年(昭和40年)建造の建物は、やはり古さを感じさせますね。

メインビルも、すでに上層階は解体済みで、いよいよ平地からの写真撮影は難しくなってきました。建物の横から、足場を外された非常階段部分が見えています。もう2週間もしたら、ほとんど解体が終わってしまうのではないかな?

定期撮影できる期間も、あと僅かかもしれませんね。

百里神社に行ってきた

先日、百里基地の撮影は早々に終了したため、時間があったので百里神社でお参りしてきました。

百里神社入り口

百里神社、以前は森に覆われていて、そもそも存在すら知りませんでしたが、ある時から、木が伐採されて、看板も立つようになりました。

とても小さな神社で、木ではなくコンクリ作りの建物です。

看板にある通り、素鵞神社の系列の神社となりますが、事業資金の確保に窮しているとのことです。
奉賛募金は素鵞神社で募集とのことです。この日、恥ずかしながらあまり持ち合わせがなく(最近キャッシュレス決済メインなので、すっかり現金を多く持たなくなっています)、次回来るときは納めたいと思います。
あ、お参りしてお賽銭は入れておきました。

国土地理院の航空写真、1961~69年を埋め込んでみましたが、この当時から神社があったような地形に見えますが、如何でしょうか? しかし周りなにもないな(笑


次に、百里神社の近く、百里原海軍航空隊門柱跡を見てきました。

石碑は笹に埋もれていました。

百里原海軍航空隊の遺構はこれ以外にもいくつかあり、畑の中にぽつんと残る建物は、昔から百里に来るたびに見る印象的なものでした。
茨城新聞の動画を貼っておきます。

ところで、この石碑の隣に、廃屋らしきものがあります。

草と蔦に埋もれていました。先程の国土地理院の写真を見ると、1974~78年には、青い屋根の建物は存在しているように見えます。
そのお隣には現役の民家があるので、そこのおうちの所有なのかな?

【写研埼玉工場】解体動向(20/9/11)

全開から3日後でスパンは短いですが、解体が進んでいますので、細かく追っていこうと思います。
というのもありますが、秋が近づいてきて、台風などで雨がちな日も多くなってきたので、撮れるときに撮る、というスタンスです。

写研埼玉工場(20/9/11)

第2工場も、建物中央部からどんどん解体されていますね。

第2工場の部分は、後に増築したと思われる部分がありますね。そこだけが他より新しいですね。
消火栓の赤い扉が開いていて、中のホースは先に撤去されたようです。

さて先日、「技術者たちの挑戦 写真植樹機技術史」を購入しました。元写研のOBが書かれたものです。

これによれば、当時手動写植機のSPICA亮月製作所さんのHPにリンクします)の生産で手狭になった工場を、1963年(昭和38年)に埼玉県和光市に移転したとあります。奥の第2工場は1965年(昭和40年)に建造されていますが、本に掲載されている1963年時点の写真では、第1工場のみですね。そして周辺建物が全然ない…。
そして、解体中の様子を見ると、切なくなってしまいますね…。

なお、文中には、戦前の写研(当時は写真植字機研究所)の初代写植機用の光学レンズの製作は、日本光学(現ニコン)や小西六(現コニカミノルタ)に依頼したが実現せず、旭光学(現ペンタックス=RICOH)に依頼して、取引は1980年代まで継続したとあり、カメラ好きとしては、こういったエピソードも面白いですね(詳しくは本を買ってくださいね)

メインビルは両サイドの建物躯体解体が進み、いよいよ壁だけになってきた感じです。今度は壁を中央部から少しずつ解体していく感じです。

ネット越しで見づらくてすみません。比較してみましたが、大きくは変わりませんね。よく見ると、夜のほうが解体は進んでいるのがわかりますが。

第2工場の防音壁

もう18時台もかなり暗くなってきました。正直なところ、この時間の撮影はもう限界ですかね。ISO25600とかになってしまいます。ザラザラですね。M4/3の限界といったところか。
かと言って、例えD3400でも、一眼レフだとちょっとかさばるんですよね。いや一度持っていきますか。

RAW現像で暗部を持ち上げてみた

もう工事が終わっている時間、かなり暗いです。RAWで撮って、現像時に暗部を持ち上げてみましたが、ISO3200でもGX7MK2だと結構厳しいですね。
元第1工場のあった場所に、物悲しげに解体くずが積まれていました。


写研関連のHPや文献、色々見ていますが、やはり感じるのは、1980年代までの栄光の歴史、そしてDTP時代に一気に進んだ90年代以降の状況、2000年代一気に写植機が売れなくなり、社員がどんどん去ってしまったこと、今の日本をなにか象徴させるような感じでなりません…。
写研は一体どうなるのでしょうか…。