先日の百里基地撮影の後、時間があったので百里神社でお参りしてきました。
旧帝国海軍の百里原海軍航空隊の守護神として鎮座されたのが始まり、とのことです。
むかしは、鬱蒼とした森の中に忘れられたように存在していましたが、ここ数年、周辺の整備が行われて、その姿が見えるようになりました。
百里基地、茨城空港を飛ぶ航空機の無事故を祈願してきました。
ちょっと周辺が寂しい感じの百里神社ですが、振り返れば花も咲き、春の足音が近づいている感じですね。
先日の百里基地撮影の後、時間があったので百里神社でお参りしてきました。
旧帝国海軍の百里原海軍航空隊の守護神として鎮座されたのが始まり、とのことです。
むかしは、鬱蒼とした森の中に忘れられたように存在していましたが、ここ数年、周辺の整備が行われて、その姿が見えるようになりました。
百里基地、茨城空港を飛ぶ航空機の無事故を祈願してきました。
ちょっと周辺が寂しい感じの百里神社ですが、振り返れば花も咲き、春の足音が近づいている感じですね。
旧写研埼玉工場改め、ヤオコーの建設現場。
久しぶりに朝時間があったので、撮影してみました。天皇誕生日で祝日でしたが、私も工事関係者も仕事なんですね。
店名は仮称で「ヤオコー和光丸山台店」になるようです。工事は大手の積水ハウスが行っています。
ヤオコー、最近埼玉で勢力を伸ばしていますね。ここが出来たら近場ですし、行ってみたいですね。
かつてここからは、写研の大きな看板に、大きなメインビル、奥に第二工場が見えました。半年後には、ヤオコーの店舗が見えることでしょう。
ちなみに、旧写研の厚生棟は、現時点で手つかずです。
2月8日、たまたま朝早く行けたので、久しぶりに朝の写真です。
いよいよ、スーパーマーケットの建造が本格化してきました。重機も搬入されて、掘削と杭を入れる工事を行っているようです。
当たり前だけど、もうここに写研があった面影は全く無いですね。
唯一、手つかずの厚生棟の存在のみが、かつてここに写研があったことを示しています。
ところで、先月の話になりますが、今や日本のトップフォントメーカーとなったモリサワが、写研の保有する書体を、両社共同でOpenTypeフォントとして開発することに合意したそうです。
写研創業者の石井茂吉氏とモリサワの創業者である森澤信夫氏が、1924年に写植機の特許を取得してから100年目となる2024年に、写研フォントをリリース予定とのこと。
2024年は、ISDN回線終了の年でもあり、写研の電算写植機の課金カウントシステムもISDN回線の終了とともに、事実上使用できなくなります。
写研はそのタイミングで会社を閉じると噂されていましたが、写研フォントをモリサワがOpenType化することは感慨深いものがあります。
元々写研もOpenType化に向けて動いていた時期もあり、しかし、すでにデザイナーなど多くの技術者が退社していた写研だけでは、もはや実現できなかったと思われるだけに、写研フォントがこのまま消えることなく、モリサワに引き継がれて、本当に良かったですね。
元々は1つの会社で写植機を開発した両者が、この先、事実上モリサワに統合されるのでしょうね。
かつては1つの会社で、2つに分かれてからはライバル同士だった両者が、2024年に向けて動き出している、素晴らしいことですね。
2009年に撮影した、茨城県某所の廃工場。
この当時まだGPSアダプタを持っていなかったため、撮影場所が現在となっては分かりません。
茨城県まではわかるのですが、廃墟検索地図さんのサイトにも未掲載、またこの会社の名前で検索しても、こことは関係のない現役の会社がヒットするだけでした。
Yamaroオリジナル物件と言えるかなと思うのですが、周りは畑しかない田舎道とは言え、道路沿いに面していただけに、誰も知らないというのも不思議な話。
恐らく現存していないと思われます。
事務所の日めくりカレンダーは、1997年(平成9年)5月で終わっており、この辺りで廃業、もしくは倒産したのかと思います。
カレンダーには栃木県の建築会社のものもあり、よく見ると以前住んでいた場所のすぐ近くで、しかも家を買う際に検討した会社の一つだったりしました。取引があったのでしょうね。
事務所の棚には、いくつかの物件の建設や解体に関わったと思われる、地面や書類の棚が。一方、机やリース機器は積み上げられていて、最後はどういう状況だったのか? 金庫は人為的にこじ開けられた跡がありましたが、恐らく地元のヤンキーの仕業でしょう、入っているはずもないのに。
一方工場は、ゴミの山で、恐らく廃墟になってから不法投棄された、または地権者が捨てたのか。
黒い大きな袋(酪農で見かける牧草を入れるような袋)が大量に積まれた部屋もあり、中身は謎です。とにかくごみの山でした。
割と大きな工場も、人がいなくなれば荒廃する典型ですが、どうしてこうなったか、思いを馳せてみるのも面白い。そんな感じの物件でした。
写研埼玉工場跡地は、すでにスーパーマーケットのヤオコーが店舗を建設することが決まっていて、2021年1月から工期となっています。
昨年12月には、写研埼玉工場の解体工事も終わって、一度撤去されたパーティションが再び設置され、新たな建築に向けた準備が始まっている様子でした。
さてあれから年を越して1ヶ月、まだ建築工事には本格的には入っていない感じです。
工事車両の出入りはあり、今は基礎工事の前段階?なのでしょうかね。
工事予定期間は、1月15日から9月30日、割と早く完成する予定です。川越工場が、すぐに物流倉庫として生まれ変わったように、土地の広い工場跡地は、次の活用が決まれば、工事はズムーズなのでしょうね。
依然手つかずの厚生棟のみ、ここに写研埼玉工場があったことを示しています。
以前も書いたように、現在この土地建物の持ち主は、ヤオコーではなく、同じ市内のとある企業が登記簿上に記載されているとのこと。
1階部分の駐車場は、相変わらず工事関係者の駐車場として利用されており、建物隣のスペースも工事関係者の資材置き場や待機所が設置されています。恐らく、工事が終わるまで、その企業が貸しているのでしょうね。
ヤオコーが出来た後、この厚生棟がどうなるのか気になるところです。
矢納水力発電所跡のすぐ近くにある登仙橋(とせんはし)。
看板では、この先が群馬県となっていますが、登仙橋自体は埼玉県の管轄のようです。
1967年(昭和42年)に竣工した橋で、ちょうどその前年には、すぐ近くの矢納水力発電所が廃止となっています。
橋の構造はウォーレントラスだそうです。
橋からの風景。この先に三波石峡があり、奥に小さく白っぽく見えているのが下久保ダムです。
AF-S NIKKOR 16-35mm f/4Gで撮影。このレンズ、解像力がいまいちとされていますが、少し絞って撮れば、奥のダムや山も割とシャープに撮れます。VR(手ブレ補正)が時々暴れたかのように像が流れる場合もあり、VR搭載の広角レンズと言えど、しっかり構えて一呼吸置いてシャッターを押す事が重要。
反対側の風景。この時間はまだ日陰が多く、コントラストが上がり気味の写真になってしまうため、ハイライト飛びしないようろ露出を抑え、RAW現像時に暗部を持ち上げてみました。
この時期の風景撮影は、湿度が低いので、くっきりきれいに撮れますね。
岩窟ホテルのすぐ横にある岩室山龍性院の岩室観音堂。始まりは西暦800年代と言われています。
天正18年(1590年)の松山城の攻防戦の際に、一度消失してしまいましたが、江戸時代の寛文(1661~1673年)に龍性院第三世堯音が再建したものです。
お堂の造りは懸造(かけづくり)で、急斜面や崖など高低差が大きい場所に用いられる建築様式だそうです。
1階部分の左右にある洞窟内には88体の石仏が収められています。
なお、奥には「胎内くぐり」と称した穴があり、そこをくぐり抜けると子宝・安産・子育ての願いに通ずる、とされていますが、今回は…見忘れていました(汗
建物2階が本堂の御本尊様が祀られています。
いつ頃から貼られているのかわからない御札や奉納などが多数。歴史を感じますね。
本堂からは、観光名所である吉見百穴が見えました。
残念ながら、時間が遅かったため、吉見百穴は外から眺めるに留めましたが、この中には、戦時中の地下軍需工場跡もあるそうです。今度時間があったら行ってみたいですね。
というわけで、1月4日の埼玉廃墟遺産名所撮影はこれにて終了。
良いプチ撮影旅行が出来ました。
1904年(明治37年)から、1人の男がノミを使って、独自に岩盤の採掘を始めた。「岩窟掘ってる」が訛って「岩窟ホテル」となった、とされており、ホテルとして建造し始めたわけではなく、洋風建築物としていたそうです。
彫り続けて21年後、その男性は逝去し、しばらく放置されていたものの、男性の息子が引き続き作業を継続、この場所は観光名所となりましたが、1980年代の台風による岩盤崩落により、1987年に閉鎖、以後再開されることなく現在に至っていっるとのことです。
現在も、採掘者の子孫が管理している場所となっています。
現在はフェンスに覆われ、門は閉ざされ、中に入ることは出来ません。
したがって外から見るだけとなります。
目の前の木が成長しており、冬でも全体像は見づらくなっています。夏だともっと見づらいでしょうね。
しかし、ノミだけで岩盤を何十年もかけて掘った建築物というのは、それだけで気迫がありますね。
現役時代は、岩盤に塗装を施していたそうですが、現在はすっかり元の岩盤に戻っています。Googleで現役時代の写真がいくつか確認できます。
このページでは、写真はかなり小さいですが、内部の写真も見ることが出来ます。
流石に30年以上経過すれば塗装も落ちますよね。
内部を伺いすることは出来ませんが、椅子やテーブルなど、調度品も岩盤を削って作ったのだからすごいです。
窓の鉄柵が、年月を物語っています。いやぜひ中を見てみたいものですが、崩落の危険があり、叶うことはないでしょうね。
ところで岩窟ホテルの隣には、岩室観音の岩室山龍性院がありましたので、そこも行ってみました。その紹介は次回に。
この場所は、目の前が住宅であることから、名称と詳細な場所は伏せさせていただきます。写真からもGPSデータは削除しています。
ま、調べればすぐわかるとは思いますが…。
なかなか美しい建築で、前から見たいとは思っていましたが、周辺は普通に住宅地なんですよね。ですから、ササッと見て撮影するに留めました。
何時頃建造されたかは不明ですが、建物の感じから、1950~60年代の建造かな?という感じです。写真の通り、建物の左側はレンガと石造りのしっかりとした美しい建物です。
すでに10年ほど前から、医院としては使われていない感じとのことです。
古びてはいますが、木造建築でない分、頑丈そうでです。お正月の飾り付けもされており、現在もしっかりと管理されていることが伺えます。立入禁止の看板も新しいですね。
入り口の医院の名前は、独特のフォントです。読めない(笑
一方、建物右側は木造建築です。
木造のため劣化が激しく、徐々に崩壊が始まっているようです。
この撮影の2,3年前の他の方の写真を見ると、入口部分には瓦づくりの立派な庇(ひさし)が存在していました。
が、現在は崩壊し、かろうじて建物に庇があったであろう三角形の取付部の痕跡が見られる程度です。
入り口の扉も外れており、2階の窓も一部外れているなど、状態はよくありません。こちらの建物の管理まではされていないのでしょう。
数分程度の撮影でしたが、見れてよかった建物ですね。
ところで、この撮影で使用したレンズ、AF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR、旧製品になってしまったようです。2010年発売の、比較的新しいレンズでしたが、ディスコン。後継レンズは恐らくないでしょう。
値段の割に、解像力がもう一歩で、ニコンファンからも評価が分かれるレンズです。
広角で唯一、手ブレ補正VRを搭載し、三脚を使えない廃墟撮影用に買ったレンズです。解像力は、確かにこのクラスのレンズとしては今一歩の感じはあります。やや線が太い絵なのですよね。絞っても大きく改善しません。この辺り評価が分かれるところです。とは言え、使いやすい焦点距離なんですよね。
Zマウントで、14-30mm f/4 Sが出ており、評判も良いことから、このレンズが実質後継なのでしょう。フルサイズのZマウント機は、手ブレ補正もボディに内蔵していますしね。
午前中の矢納発電所跡と旧新井邸(新井さんち)撮影を終えて、昼食がてら立ち寄ったのが、道の駅上州おにし。
そばを食べた後、この道の駅の駐車場横に残されている、旧譲原(ゆずりはら)小学校を見てきました。
1874年(明治7年開校)、現存するこの校舎は、1934年(昭和9年)に建てられ、築90年近い建物となります。
ちなみに、私も小学生の頃は、2階建てですが、こんな感じの木造校舎で学びました。実はYamaroが通っていた北海道函館市の小学校も、同じ1934年に建築されたものでしたが、私が卒業と同時に取り壊され、鉄筋コンクリートの学校に生まれ変わっています。
譲原小学校は、1975年(昭和50年)には廃校となり、解体されることなく現在に至っています。
昭和初期の木造建築の美しさを今に残しています。
現在はほぼ使われていないようですが、管理されているため、閉校から46年経過した現在も、建物の状態は良好なようです。
いつまでも残って欲しいものですね。