【写研埼玉工場】解体動向(20/9/11)

全開から3日後でスパンは短いですが、解体が進んでいますので、細かく追っていこうと思います。
というのもありますが、秋が近づいてきて、台風などで雨がちな日も多くなってきたので、撮れるときに撮る、というスタンスです。

写研埼玉工場(20/9/11)

第2工場も、建物中央部からどんどん解体されていますね。

第2工場の部分は、後に増築したと思われる部分がありますね。そこだけが他より新しいですね。
消火栓の赤い扉が開いていて、中のホースは先に撤去されたようです。

さて先日、「技術者たちの挑戦 写真植樹機技術史」を購入しました。元写研のOBが書かれたものです。

これによれば、当時手動写植機のSPICA亮月製作所さんのHPにリンクします)の生産で手狭になった工場を、1963年(昭和38年)に埼玉県和光市に移転したとあります。奥の第2工場は1965年(昭和40年)に建造されていますが、本に掲載されている1963年時点の写真では、第1工場のみですね。そして周辺建物が全然ない…。
そして、解体中の様子を見ると、切なくなってしまいますね…。

なお、文中には、戦前の写研(当時は写真植字機研究所)の初代写植機用の光学レンズの製作は、日本光学(現ニコン)や小西六(現コニカミノルタ)に依頼したが実現せず、旭光学(現ペンタックス=RICOH)に依頼して、取引は1980年代まで継続したとあり、カメラ好きとしては、こういったエピソードも面白いですね(詳しくは本を買ってくださいね)

メインビルは両サイドの建物躯体解体が進み、いよいよ壁だけになってきた感じです。今度は壁を中央部から少しずつ解体していく感じです。

ネット越しで見づらくてすみません。比較してみましたが、大きくは変わりませんね。よく見ると、夜のほうが解体は進んでいるのがわかりますが。

第2工場の防音壁

もう18時台もかなり暗くなってきました。正直なところ、この時間の撮影はもう限界ですかね。ISO25600とかになってしまいます。ザラザラですね。M4/3の限界といったところか。
かと言って、例えD3400でも、一眼レフだとちょっとかさばるんですよね。いや一度持っていきますか。

RAW現像で暗部を持ち上げてみた

もう工事が終わっている時間、かなり暗いです。RAWで撮って、現像時に暗部を持ち上げてみましたが、ISO3200でもGX7MK2だと結構厳しいですね。
元第1工場のあった場所に、物悲しげに解体くずが積まれていました。


写研関連のHPや文献、色々見ていますが、やはり感じるのは、1980年代までの栄光の歴史、そしてDTP時代に一気に進んだ90年代以降の状況、2000年代一気に写植機が売れなくなり、社員がどんどん去ってしまったこと、今の日本をなにか象徴させるような感じでなりません…。
写研は一体どうなるのでしょうか…。

「【写研埼玉工場】解体動向(20/9/11)」への1件のフィードバック

  1. 二十代の頃三年ほどお世話になりました。寂しいですね。OBとの交流もままなりません。皆さんお元気でしょうか。「名刺武芸手帖」(検索)という短編小説創作しました。実名は出していませんが。思い出話としてお読みいただければ幸いです。

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