生活学園から、再び緑ヶ丘アパートに戻ります。
途中、ラジカセが転がっていました。SONYのドデカホーンCFD-500です。小学生の頃欲しかったやつです。TV音声多重受信にも対応(今思えばテレビの音声だけ聞いてどうするんだって感じですが)、CDダブルラジカセは憧れでしたね。
肝心の音質は、高音の抜けが悪かったような印象です。現役で持っている人は、ぜひ大切に使ってあげてください。
再び緑ヶ丘アパート内部へ
やはり1階廊下や上下棟を行き来するための広い階段は、このアパート最大の魅力です。狭い島の中に所狭しと建てたのと違い、東北の山奥後は土地に余裕があるということでしょう。
しかしコンクリートの崩壊が進んでおり、現在はどうなっているのかが気になるところです。
残されたテレビや炊飯器、テレビは当時やっと小型化されたカラーテレビです。まだ閉山当時はそれほど古くなかったのではないでしょうか?
そしてまだペットボトルがなかった時代ですから、ありとあらゆる調味料など液体のものはガラス瓶に入っていた時代。廃墟には一升瓶が多く転がっているのも、当時は日本酒や焼酎だけでなく、醤油やみりんなどの調味料もまた、一升瓶で買っていました。空き瓶を酒屋に持っていくと、5円くらいで引き取ってもらえました。
いよいよアパートの屋上に向かいます。今ではアパートの屋上なんて行けなくなりましたが、この時代は屋上も、洗濯物を干すスペースといったように、有効活用されていたのでしょうね。
圧巻の景色です。
鉱山現役当時は、鉱山からの鉱石を運ぶゴンドラや、雪景色の山々もよく見えたことでしょう。一番高い場所のこの3棟のアパートは、その下の8棟を見下ろせる感じです。位置的に、役職クラスが住んでいたのかな?
室内には、本や新聞など、時代を感じさせるものが少し残されていました。
今はいろいろあってあまり見かけない「ちびくろさんぼ」の絵本、そしてまだ若い美空ひばり、松島トモ子、古賀さと子ののった少女雑誌の一部は、恐らく1950年代後半のものと思われます。
昭和45年3月の毎日新聞には、マツダファミリアロータリークーペが59.8万円の値付けだったり、トヨタパブリカ800が38.7万円の値付けの新聞も。こういったものは時代を感じさせて面白い資料です。
気がつけば時刻は14時半を過ぎ、天気も微妙になってきたので、そろそろ帰ろうか、となりました。
最後に当時の愛車、アコードユーロRと供に撮影してこの旅を終えました。
いや、まだ帰り道があるので、旅自体は終わってはいないか。撮影はこれにて終了。実際この後替えるまで1枚撮っていません。メモリカードも多分いっぱいになっていたはずです。